出張先で拓本(たくほん)を採ってきました。
拓本とは、魚拓のようなものですが、対象物に直接墨を塗るものではないので、
貴重な資料を墨で汚すことはありません。
間接式の魚拓ですね。
もちろん写真を撮影しても良いのですが、拓本には拓本なりの味わいがあり、
しかも実際の大きさが分かるという利点があります。
博物館学芸員は、大体このテクニックは身に付けていますが、
まさか文学館の業務で拓本を採ることがあるとは夢にも思いませんでした(笑)。
今回は、急に思い立ったので、通販で拓本セットとスプレーボトルの容器を購入し、
同僚が自ら作成していた拓墨とタンポを借りて、出張に旅立ちました。
拓本作業には自分なりのやり方があります。
私は過酷な炎天下での作業経験が多かったので、素早い作業を最優先に心掛けています。
拓墨とタンポ、画仙紙の他に、水の入ったスプレーボトルと手拭い1枚あれば大丈夫です。
出張先は愛媛県松山市。
「俳都」と称するように町中、俳句の句碑が多い。
ここ松山で、俳人正岡子規と生涯俳句を趣味とする漱石が52日間、
同居したことはよく知られています。
今回は、その中でも、漱石が教鞭をとった愛媛県尋常中学校を継いだ県立松山東高校の敷地に
立っている漱石と子規のふたつの句碑の拓本を採りました。
送る記
御立ちやるか御立ちやれ新酒菊の花 漱石
漱石に別る
行く我にとゞまる汝に秋二つ 子規
漱石の句は、明治28(1895)年10月12日、
松山の松風会が主催した子規の送別会で詠んだものです。
子規は故郷松山を離れ、東京に向かいました。
一方、子規の句は、新聞『日本』に明治31(1898)年9月25日に掲載されたもので、
字は国会図書館が所蔵する子規自筆稿本「寒山落木」から採ったもののようです。
漱石も翌年、松山を離れ、熊本、そしてロンドンへと生活の拠点を移します。
子規との交際は手紙でのやり取りが中心になりましたが、
子規が亡くなる明治35(1902)年9月まで続きました。
句碑の碑面は御影石。額面が低くなっていて、いささか画仙紙を固定しにくい。
背も高いので、画仙紙は全紙使用します。
梅雨時の晴れ間。蒸し暑いです。風も少し吹いています。
拓本のポイントは、霧状の水を吹きかけ、モノと画仙紙をなるべく密着させること。
そして紙が乾き切る前に墨を打ちます。そのタイミングが難しい。
同僚に手伝ってもらい、学校の先生に見守られながら作業だったので、
適当な頃合いで墨を叩くことにします。
考古遺物や板碑と異なり、碑の形状ではなく、文字部分の中心の採拓で良いでしょう。
1回目は、同僚から借りたお手製の墨を使いました。
薄目に仕上がりました。拓本は薄い方が上品で美しい。
2度目は、購入したばかりの市販の墨拓を使いました。
深味はありませんが、墨が濃く出るので、メリハリが効いて展示する場合は良いでしょう。
初めて句碑を採拓して分かったことも多かったのですが、
文字が始めから白く塗られているので、画仙紙の上から透かして見ることが出来、
それに安心してしまい、文字部分の凹凸の強調が少し足りなかったかなというのが反省点です。
もう1回採ったなら、もっときれいに出来たと思いますが、
まあ2枚づつ採ったのでこれで良しとしましょう。
1回目の上品なものを学校には差し上げました。
持ち帰った2枚は掛軸にして、今秋の特別展でお目に掛けようと考えています。
出来栄えはどうでしょうか??
(漱石山房記念館 学芸員 今野慶信)






