漱石の作品には、しばしば実在する人物や食べ物が登場しています。
たとえば「吾輩は猫である」六で「東風君」が「主人」を訪れてくる場面。
東風君について語る「吾輩」の言葉の中に、ある歴史上の人物の名前が出てきます。
「どうも御無沙汰を致しました。暫(しばら)く」とお辞儀をする東風君の頭を見ると、
先日の如く矢張り奇麗に光つて居る。頭丈で評すると何か緞帳(どんちょう)役者の様にも見えるが、
白い小倉の袴のゴワゴワするのを御苦労にも鹿爪(しかつめ)らしく穿(は)いて居る所は
榊原健吉の内弟子としか思へない。
従つて東風君の身体で普通の人間らしい所は肩から腰迄の間丈である。
ここで東風君を言い表す言葉として、「緞帳役者」と「榊原健吉の内弟子」の2つが登場します。
一つ目の「緞帳役者」は、大芝居(歌舞伎)の役者に対して小芝居に出る役者を蔑んだ言い方でした。
歌舞伎の正式な引き幕を定式幕といい、その使用が許されていた官許三座以外の宮地芝居などでは
緞帳を使用していたことが由来です。
「吾輩」はどうやら、東風君のことを揶揄しているようです。
もう一つの「吾輩」から東風君への評価には「榊原健吉」という人物の名前が使われています。
これは実在の人物、榊原鍵吉を指していると考えられます。
東風君が「榊原健吉の内弟子のようだ」と表現されているのは、
その外見や所作にどこか旧時代的で厳格な雰囲気をまとっていることを猫がからかっているものと考えられます。
では、この比喩に使った榊原鍵吉とは、一体どのような人物だったのでしょうか。
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像(https://www.ndl.go.jp/portrait/)
最後の剣客。それが榊原鍵吉を語る際によく用いられる言葉です。
榊原は天保元(1830)年、江戸の麻布広尾の生まれ。
漱石より37歳年上、ということになります。
12歳から直心影流の男谷信友に入門し、19歳で免許皆伝。
安政3(1856)年に幕府の講武所が開かれた際には、
男谷の推薦により剣術教授方に登用されています。
明治政府の世になると、衰退していく剣術を再興させるべく、
明治6(1873)年に撃剣会を組織しました。
伝統的な剣術や武術を有料で公開する「撃剣興行」を行い、
職を失った士族の救済や剣術、武術の存続に奔走しています。
出典:芳年『〔撃剣会之図〕』,政田屋,明治6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1305821 (参照 2025-05-10)
亡くなるまで髷を切らなかったという榊原は、
時代が変わっても武士としての矜持を貫いた人物でした。
その剣客ぶりを伝えるエピソードの中でも、特に有名なのが天覧兜割りです。
明治天皇の行幸の際に、弓術、鉢試し、能楽などが催され、鉢割(兜割り)には榊原を含む3名が挑んでいます。
見事ただ一人兜割りを成功させた榊原の剣豪ぶりと、
使用した刀・同田貫の切れ味を今に伝える逸話です。
「吾輩は猫である」に戻ると、重苦しい小倉織の袴をはいた東風君は
明治の世まで生きた「最後の剣客」の内弟子と例えられているわけです。
実戦の場がなくなり、
実践的な役割が失われた剣術が武士のものから一般の人々の目に触れるものへと変わっていく時代に、
最後まで剣客として生きようとした榊原鍵吉。
そんな人物の名を、ちょっと毒舌な猫の目と口を借りて登場させたことには、
何らか漱石自身が感じた時代の移り変わりへの想いがあるのかもしれません。
なお、榊原鍵吉の墓は、新宿区須賀町の西応寺に今もあります。
漱石が生まれ、亡くなった早稲田からそこまで遠くありません。
今年は「吾輩は猫である」発表から120年。
本を片手に、剣客の眠る地を訪れてみるのはいかがでしょうか。
(学芸員 朝野)