吾輩ブログ 一覧
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「豊隆」の読みはトヨタカ?ホウリュウ?
4月に開幕した「外国語になった漱石作品」展も残すところ1か月を切りました。
タイトルのためか、いつもよりも外国の方が多く来られている印象です。
今回は、展示のみどころをご紹介します。
本展示第一章は、「翻訳への想い」と題して、
漱石が自作の翻訳についての考えを示した手紙や、翻訳者の資料を展示しています。
その中に、「草枕」や「坊っちゃん」の英訳者・佐々木梅治の資料があります。
明治6(1873)年生まれの梅治は、東京府開成中学校で長く英語教師を勤めました。
「草枕」の英訳本、『Kusamakura and Bunchō』(挿絵:平福百穂、岩波書店、1927年)の訳者序文には、
「私はその翻訳に丁度3年間を費やした。教師の仕事の後の夕方、
私は机に座って翻訳を再開することを幸せに思った。
本の翻訳が終盤に差し掛かると、私は人が遠い土地に行く友にさよならを言うときの気持ちのように悲しくなった。
(中略)言わば、この3年間は私の無上の楽しみだった。」(※原文は英語)
と書いています。
漱石作品の英訳作業は、梅治にとってかけがえのない時間だったのでしょう。
この序文の梅治自筆の草稿も展示しています。
梅治は漱石と同時代の翻訳者ですが、翻訳書は漱石の没後に刊行されています。
原著者が存命中であれば翻訳者は翻訳上の不明点を作家本人に訊ねることができるでしょう。
しかし、梅治の場合はそうはいきませんでした。
今回の展示資料に、漱石の娘婿・松岡譲が梅治に宛てた葉書があります。
松岡は、梅治の「文鳥」の翻訳を面白く読んだと書き、続けて、
「文中、豊隆は「トヨタカ」が本当かも知れませんが、
あの人達の仲間では「ホウリユウ」と音で読み下してゐます。
其の方が音の響からも、ローマ字に写した目もいゝかと思ひます。」
と書いています。
梅治が送った「文鳥」の英訳原稿を読んだ松岡のアドバイスと思われます。
「文鳥」の初出の人名ルビを確認してみると、大阪朝日新聞では「トヨタカ」、
単行本『四篇』では「ホウリユウ」でした。
梅治はどちらの読みを採用したと思いますか?
答えは『Kusamakura and Bunchō』の中に!
Hōryuと書いてあります!梅治はホウリュウを採用したのです。
早稲田の漱石山房での漱石と門下生との関係をよく知る松岡の意見が、
翻訳に反映されたのです。
このハガキは佐々木梅治のご遺族から近年当館に寄贈されました。
展示は7月13日までです。
ぜひ会場で漱石作品の翻訳者の想いに触れてください。テーマ:漱石について 2025年6月19日 -
梅雨に咲く花~紫陽花~
しとしとと降り注ぐ梅雨。
この時期、私たちの目を楽しませてくれるのが紫陽花(あじさい)です。
雨に濡れてなお鮮やかに咲くその姿は、梅雨の憂鬱さを忘れさせてくれます。
漱石山房記念館でもこの時期、たくさんの紫陽花が花を咲かせてくれます。
漱石公園に咲く紫陽花
紫陽花の魅力は何といってもその色の多様さ。
青や紫、ピンク、白など、土壌のpHによって花の色が変わるという性質を持ち、
まさに「自然が描くグラデーション」。
一株でも様々な色合いが見られるのが面白いところです。
紫陽花は日本原産のガクアジサイが母種となって改良された園芸品種で、
古くは奈良時代の『万葉集』にも登場します。
「言(こと)問はぬ 木すら味狭藍(あじさい) 諸弟(もろえ)らが
練(ねり)の村戸(むらと)に あざむかえけり」 大伴家持(おおとものやかもち)
現代語に訳すると「ものをいわない木でさえ、紫陽花のように移り変わりやすい。
(ことばをあやつる)諸弟(もろえ)たちの巧みな言葉に、わたしはすっかり騙されてしまった。」
ここでも移り変わりやすさの象徴として紫陽花が使われています。
その後、紫陽花が広く親しまれるようになったのは江戸時代以降のこと。
園芸文化の発展とともに多くの品種が生まれ、
浮世絵や俳句にも登場するようになりました。
その後、ヨーロッパに渡り、
品種改良を経てよりバラエティに富んだ「Hydrangea(ハイドランジア)」として世界に広まったと言われています。
色を変える紫陽花は、
「移り気」「無常」といった少し切ない花言葉も持ちますが、
一方、花期が比較的長く、一生懸命咲き続けているように見えることから
「辛抱強さ」という花言葉もあるそうです。
雨の音に包まれながら、紫陽花の静かな美しさに心を預ける。
そんな梅雨の楽しみ方も、悪くないものです。
参考文献:金田初代・金田洋一郎『四季別 花屋さんの花カラー図鑑』西東社、1995年
岩槻秀明『散歩の花図鑑』新星出版社、2012年テーマ:その他 2025年6月17日