漱石山房記念館では、ボランティアガイドが
漱石の書斎の再現展示室の展示解説を行っていましたが、
現在は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、休止しています。
そこで、この吾輩ブログではボランティアガイドによるレポートをお届けしてまいります。
漱石山房記念館ボランティアガイドの解説場所の一つが、1階にある漱石の書斎の再現展示室です。
「山房」とは書斎を意味し、当時のままに再現されたそこはまさに記念館の心臓とでもいうべき場所です。
ここに着いたお客さまは必ず立ち止まり、説明キャプションを読み、音声案内に耳を傾けます。
書斎の対面には津田青楓画「漱石山房と其弟子達」のパネルが飾ってあります。
この部屋は、当時も漱石に会いにたくさんの人びとが訪れていた客間でした。
漱石のもとを訪れたのは熊本時代や東京帝大での教え子だけでなく、画家や実業家などさまざまでした。
門下生の一人、小宮豊隆は著書『夏目漱石 中』(岩波書店、昭和13年初版)の「門下生」の中で、
訪問者に対する漱石の態度を
「地位だの名声だのではなく、純粋に「人」だけを愛し愛されることを欲した漱石は(中略)
純粋に漱石の「人」だけを慕って来る客を喜び」
と書いています。
さらに小宮は同書で、漱石が明治37(1904)年7月20日に野間真綱に宛てた書簡から
「脵野大観先生卒業。彼いふ。訪問は教師の家に限る。かうして寐転んで話しをしてゐても小言を言はれないと。
僕の家にて寐転ぶもの、曰く脵野大観曰く野村伝四。半転びをやるもの、曰く寺田寅彦曰く小林郁。
危坐するもの曰く野間真綱曰く野老山長角」
という一節をひいて、
「漱石は人を心置きなく寐ころばせるようなものを持っていたのである」
と書いています。
この手紙は漱石山房に転居する前のものですが、
漱石のもとを訪れた人々はまったく津田青楓の画のようにリラックスしていたのではないでしょうか。
私には漱石が「作家」としてというよりも「教師」として、
いやもはや「家族」として人々を受け入れていたように思えてなりません。
しかし、あまりの来客の多さに明治39(1906)年、
鈴木三重吉の発案で木曜日午後3時以後を面会日と定め「木曜会」が発足します。
ところが漱石人気は衰えず、木曜日にも人が来ればそれ以外にも来て、
結局は同じだったと、笑い話のようなエピソードも残っています。
この木曜会は明治40(1907)年に早稲田南町の漱石山房に転居した後も続きました。
さて、皆さまは「木曜会の人びと」の作品をご存じでしょうか?
新宿歴史博物館ボランティアガイドで結成された朗読の会「ふみのしおり」では、
ただ今「木曜会の人びと」をテーマとした朗読会を企画中です。
高浜虚子「丸の内」、寺田寅彦「団栗」、鈴木三重吉「ぶしょうもの」、
芥川龍之介「蜜柑」、久米正雄「虎」、菊池寛「勝負事」、松岡譲「モナ・リザ」など。
「名前は知っているけれど作品の内容は忘れてしまった……」
とおっしゃる方に朗読でご紹介したいと思っています。
場所は漱石山房記念館の講座室。
今からおよそ120年前、ここ漱石山房の客間で交わされていた
「木曜会の人びと」の会話が聞こえてくるかもしれません。
日時が決まりましたら漱石山房記念館のWebサイトや、
ふみのしおりのWebサイト(https://fuminoshiori.jimdosite.com/)でお知らせする予定です。
どうぞお楽しみに。
※朗読会「木曜会の人びと」の開催日時が決定しました。詳細はこちらをクリック(4月1日追記)
(漱石山房記念館ボランティア:岩田理加子)
※新宿区立漱石山房記念館再現展示室
書斎内の家具・調度品・文具は、資料を所蔵する県立神奈川近代文学館の協力により再現。
書棚の洋書は東北大学附属図書館の協力により、同館が所蔵する「漱石文庫」の蔵書の背表紙を撮影し、製作された。