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ボランティアレポート7 「硝子戸の中」について(後編)
漱石山房記念館では、ボランティアガイドが漱石の書斎の再現展示室の展示解説を行っていましたが、
現在は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、休止しています。
そこで、この吾輩ブログではボランティアガイドによるレポートをお届けしてまいります。夏目漱石「硝子戸の中」は漱石が晩年に住んだ早稲田の漱石山房の書斎で書いたものです。
この小品に出て来るお寺、神社、建物、地名等は今でも残っています。
(前編の記事はこちらをクリック)当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人家のない茶畠とか、
竹藪とかまたは長い田圃路とかを通り抜けなければならなかった。
買物らしい買物は大抵神楽坂まで出る例になっていたので、
そうした必要に馴らされた私に、さした苦痛のあるはずもなかったが、
それでも矢来の坂を上って酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出ようという、
あの五、六町の一筋道などになると、昼でも陰森として、大空が曇ったように始終薄暗かった。
(夏目漱石「硝子戸の中」二十より)牛込馬場下横町(現、新宿区喜久井町)辺りに住む人達の買い物は神楽坂へ行くのですが、
矢来の坂を上り小浜藩酒井若狭守の屋敷の横を通って寺町を抜けるのです。
幕府から拝領した屋敷は竹矢来で囲われたことから、現在の矢来町の名の由来となっています。今私の住んでいる近所に喜久井町という町がある。
(中略)この町は江戸といった昔には、多分存在していなかったものらしい。
江戸が東京に改まった時か、それともずっと後になってからか、
年代はたしかに分らないが、何でも私の父が拵えたものに相違ないのである。
私の家の定紋が井桁に菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという話は、
父自身の口から聴いたのか、または他のものから教わったのか、何しろ今でもまだ私の耳に残っている。
(中略)私が早稲田に帰って来たのは、東京を出てから何年ぶりになるだろう。
(中略)私は昔の早稲田田圃が見たかった。しかし其所はもう町になっていた。
私は根来の茶畠と竹藪を一目眺めたかった。しかしその痕跡はどこにも発見することが出来なかった。
多分この辺だろうと推測した私の見当は、当たっているのか、外れているのか、それさえ不明であった。
(夏目漱石「硝子戸の中」二十三より)漱石が十数年振りに生家のあった喜久井町を訪れると町は大きく変わっていて、
根来(現・新宿区弁天町)の方まで拡がっていました。
根来は江戸時代に幕府の鉄砲隊「根来組」の屋敷があった所です。
喜久井町は夏目家の定紋が「井桁に菊」(正式には「平井筒に菊」)なのでそれにちなんで町名とし、
更に近くの坂にも夏目の名をつけました。
両方ともこの地域の区長を勤めていた、夏目漱石の父・夏目直克が付けたのです。
まだ鶯が庭で時々鳴く。春風が折々思い出したように九花蘭の葉を揺かしに来る。
猫がどこかで痛く嚙まれた米嚙を日に曝して、あたたかそうに眠っている。
先刻まで庭で護謨風船を揚げて騒いでいた小供たちは、みんな連れ立って活動写真へ行ってしまった。
家も心もひっそりとしたうちに、私は硝子戸を開け放って、
静かな春の光に包まれながら、恍惚とこの稿を書き終るのである。
そうした後で、私はちょっと肱を曲げて、この縁側に一眠り眠るつもりである。
(夏目漱石「硝子戸の中」三十九より)冬の始めに書き始めた随筆も、春先の長閑な庭先を眺めながら終わります。
早稲田南町の家の跡地には現在、新宿区立漱石山房記念館(新宿区早稲田南町7番地)が建っています。参考文献:『夏目漱石全集 9』1971年 筑摩書房
※引用文の表記は岩波文庫『硝子戸の中』(1933年初版、1990年改版)に従いました。(漱石山房記念館ボランティア:立脇清)
テーマ:その他 2021年3月27日 -
ボランティアレポート6 「硝子戸の中」について(前編)
漱石山房記念館では、ボランティアガイドが漱石の書斎の再現展示室の展示解説を行っていましたが、
現在は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、休止しています。
そこで、この吾輩ブログではボランティアガイドによるレポートをお届けしてまいります。「硝子戸の中から外を見渡すと、霜除をした芭蕉だの、
赤い実の結った梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、
その他にこれといって数え立てるほどのものは殆んど視線に入って来ない。」
と冬の庭の景色から始まる小品「硝子戸の中」は
漱石が晩年に住んだ早稲田の漱石山房の書斎で書いたものです。
この小品に出て来るお寺、神社、建物、地名等は今でも残っています。ヘクトーは元気なさそうに尻尾を垂れて、私の方へ脊中を向けていた。
(中略)彼がいなくなって約一週間も経ったと思う頃、一、二丁隔ったある人の家から下女が使に来た。
その人の庭にある池の中に犬の死骸が浮いているから引き上げて頸輪を改ためて見ると、
私の家の名前が彫り付けてあったので、知らせに来たというのである。
(中略)私は下女をわざわざ寄こしてくれた宅がどこにあるか知らなかった。
ただ私の子供の時分から覚えている古い寺の傍だろうとばかり考えていた。
それは山鹿素行の墓のある寺で、山門の手前に、旧幕時代の記念のように、古い榎が一本立っているのが、
私の書斎の北の縁から数多の屋根を越して能く見えた。
(夏目漱石「硝子戸の中」五より)早稲田南町の家で飼っていた犬のヘクトーがいなくなって一週間程経つと、
寺の傍に住む女性が池に犬が浮いていると知らせてくれたのです。
この寺は新宿区弁天町にある曹洞宗宗参寺のことです。
境内には国の指定史跡「山鹿素行墓」と東京都指定史跡「牛込氏墓」、
そして乃木希典の遺愛の梅「春日野」があります。
彼は昔し寺町の郵便局の傍に店を持って、今と同じように、散髪を渡世としていたことが解った。
「高田の旦那などにも大分御世話になりました」その高田というのは私の従兄なのだから、私も驚いた。
(中略)「あのそら求友亭の横町にいらしってね、……」と亭主はまた言葉を継ぎ足した。
「うん、あの二階のある家だろう」
「ええ御二階がありましたっけ。あすこへ御移りになった時なんか、
方々様から御祝い物なんかあって、大変御盛でしたがね。
それから後でしたっけか、行願寺の寺内へ御引越なすったのは」
この質問は私にも答えられなかった。
(夏目漱石「硝子戸の中」十六より)漱石が未だ子供の頃、従兄が牛込肴町(現、新宿区神楽坂5丁目)にある
行元寺(原文、行願寺)の傍に住んでいました。
行元寺は鎌倉時代からある天台宗の寺で、牛込氏の信仰を受けていましたが、
明治40年に区画整理のため品川区西五反田4丁目へ引っ越しました。
神楽坂にあった行元寺の跡地は花街となり、
さらに現在は「寺内公園」という小さな公園になっていて、詳しい説明板があります。
私の旧宅は今私の住んでいる所から、四、五町奥の馬場下という町にあった。
(中略)それから坂を下り切った所に、間口の広い小倉屋という酒屋もあった。
(中略)堀部安兵衛が高田馬場で敵を打つ時に、此処へ立ち寄って、
枡酒を飲んで行ったという履歴のある家柄であった。
(中略)半町ほど先に西閑寺という寺の門が小高く見えた。
赤く塗られた門の後は、深い竹藪で一面に掩われているので、
中にどんなものがあるか通りからは全く見えなかったが、
その奥でする朝晩の御勤の鉦の音は、今でも私の耳に残っている。
ことに霧の多い秋から木枯の吹く冬へ掛けて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音は、
何時でも私の心に悲しくて冷たい或物を叩き込むように小さい私の気分を寒くした。
(夏目漱石「硝子戸の中」十九より)漱石の生れた家は晩年に過ごした早稲田南町から四五町(500m)さきの
牛込馬場下横町(現、新宿区喜久井町)にありました。
跡地には門下生の安倍能成の揮毫した碑が立っています。
江戸時代この辺りは辺鄙な所で西側の下高田村に「墨引」があったのです。
「墨引」とは江戸御府内のおおよその境界を示すもので、
絵図に黒色の線がひかれていて、幕府が定めたものでした。
それでも土蔵造りの家が三四軒あり、生家の近くに酒屋があって、
堀部安兵衛は助太刀に行く途中にこの店で枡酒を飲んだのです。
そこから少し西に行くと高田八幡神社(穴八幡宮:新宿区西早稲田2丁目)があります。
漱石が癇癪を起すと妻の鏡子が虫封じの札を貰ってきた神社です。
その横が八幡坂で以前やっちゃ場がありました。
「やっちゃ場」は青物市場の通称で、言葉の由来は「野菜場」ではなく、競り人の掛け声からきたものです。
近くにあるもう一つの坂、夏目坂を少し上ると誓閑寺(原文、西閑寺:新宿区喜久井町)があります。
浄土宗のお寺で境内には新宿区指定有形文化財に指定されている区内最古の梵鐘がありますが、
漱石が「硝子戸の中」で書いている「御勤の鉦」とはこの梵鐘のことではありません。
(後編へつづく)参考文献:『夏目漱石全集 9』1971年 筑摩書房
※引用文の表記は岩波文庫『硝子戸の中』(1933年初版、1990年改版)に従いました。(漱石山房記念館ボランティア:立脇清)
テーマ:その他 2021年3月24日