漱石山房記念館では、ボランティアガイドが漱石の書斎の再現展示室の展示解説を行っていましたが、
現在は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、休止しています。
そこで、この吾輩ブログではボランティアガイドによるレポートをお届けしてまいります。
夏目漱石「硝子戸の中」は漱石が晩年に住んだ早稲田の漱石山房の書斎で書いたものです。
この小品に出て来るお寺、神社、建物、地名等は今でも残っています。
(前編の記事はこちらをクリック)
当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人家のない茶畠とか、
竹藪とかまたは長い田圃路とかを通り抜けなければならなかった。
買物らしい買物は大抵神楽坂まで出る例になっていたので、
そうした必要に馴らされた私に、さした苦痛のあるはずもなかったが、
それでも矢来の坂を上って酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出ようという、
あの五、六町の一筋道などになると、昼でも陰森として、大空が曇ったように始終薄暗かった。
(夏目漱石「硝子戸の中」二十より)
牛込馬場下横町(現、新宿区喜久井町)辺りに住む人達の買い物は神楽坂へ行くのですが、
矢来の坂を上り小浜藩酒井若狭守の屋敷の横を通って寺町を抜けるのです。
幕府から拝領した屋敷は竹矢来で囲われたことから、現在の矢来町の名の由来となっています。
今私の住んでいる近所に喜久井町という町がある。
(中略)この町は江戸といった昔には、多分存在していなかったものらしい。
江戸が東京に改まった時か、それともずっと後になってからか、
年代はたしかに分らないが、何でも私の父が拵えたものに相違ないのである。
私の家の定紋が井桁に菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという話は、
父自身の口から聴いたのか、または他のものから教わったのか、何しろ今でもまだ私の耳に残っている。
(中略)私が早稲田に帰って来たのは、東京を出てから何年ぶりになるだろう。
(中略)私は昔の早稲田田圃が見たかった。しかし其所はもう町になっていた。
私は根来の茶畠と竹藪を一目眺めたかった。しかしその痕跡はどこにも発見することが出来なかった。
多分この辺だろうと推測した私の見当は、当たっているのか、外れているのか、それさえ不明であった。
(夏目漱石「硝子戸の中」二十三より)
漱石が十数年振りに生家のあった喜久井町を訪れると町は大きく変わっていて、
根来(現・新宿区弁天町)の方まで拡がっていました。
根来は江戸時代に幕府の鉄砲隊「根来組」の屋敷があった所です。
喜久井町は夏目家の定紋が「井桁に菊」(正式には「平井筒に菊」)なのでそれにちなんで町名とし、
更に近くの坂にも夏目の名をつけました。
両方ともこの地域の区長を勤めていた、夏目漱石の父・夏目直克が付けたのです。
まだ鶯が庭で時々鳴く。春風が折々思い出したように九花蘭の葉を揺かしに来る。
猫がどこかで痛く嚙まれた米嚙を日に曝して、あたたかそうに眠っている。
先刻まで庭で護謨風船を揚げて騒いでいた小供たちは、みんな連れ立って活動写真へ行ってしまった。
家も心もひっそりとしたうちに、私は硝子戸を開け放って、
静かな春の光に包まれながら、恍惚とこの稿を書き終るのである。
そうした後で、私はちょっと肱を曲げて、この縁側に一眠り眠るつもりである。
(夏目漱石「硝子戸の中」三十九より)
冬の始めに書き始めた随筆も、春先の長閑な庭先を眺めながら終わります。
早稲田南町の家の跡地には現在、新宿区立漱石山房記念館(新宿区早稲田南町7番地)が建っています。
参考文献:『夏目漱石全集 9』1971年 筑摩書房
※引用文の表記は岩波文庫『硝子戸の中』(1933年初版、1990年改版)に従いました。
(漱石山房記念館ボランティア:立脇清)