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「夏目家の人びと、漱石の家族」見どころ紹介
令和3年10月3日(日)まで開催の
《通常展》テーマ展示「夏目家の人びと、漱石の家族」の見どころを紹介します。展示の詳細はこちらをクリック
皆さんは、漱石の子ども時代をご存じですか。
また、夫や父親としての漱石について、どのような印象をお持ちですか。
本展示は、「第一章:僕の昔」、「第二章:妻君(さいくん)」、
「第三章:小供(こども)たち」の三章立てで、家族の視点から漱石を読み解いていきます。漱石は生まれてすぐに里子に出され、その後養子に出されて、
養父母の不仲により生家に連れ戻されます。
一時は実の父母を祖父母と言われて育ち、
夏目姓への復籍には生家と養父の間で行われた金銭のやり取りに立ち会うなど、
「家庭の幸福」とは縁遠い少年時代を過ごしています。
自伝的小説の『道草』で、成人した主人公・健三のもとに、
金銭目的で養父の島田が近づく場面などは、実体験に基づくものでした。
漱石の子供時代は、
明治40(1907)年に雑誌『趣味』に掲載された「僕の昔」という題名の談話や、
大正4(1915)年の随筆『硝子戸の中』に記されています。
「第一章:僕の昔」では、漱石の復籍や離縁に関わる文書の複製と、
当館所蔵の『道草』直筆草稿を展示するほか、
実母や一番上の兄など、漱石が愛した家族にも注目して、
関係資料を展示しています。
また、複雑な家系図も写真入りのパネルで展示していますので、ぜひ会場でご覧ください。続いて、妻を扱った、第二章ですが、
こちらのタイトルは同じ読みの「細君」ではなく、漱石が書簡で用いた「妻君」を採用しました。
明治29(1896)年に結婚した、10歳年下の妻の鏡子は、
『吾輩ハ猫デアル』の苦沙弥先生の妻のように自分の意見をはっきりと主張する女性で、
しばしば夫妻は言い合いました。
また、裕福な家庭に育った鏡子と漱石の間には軋轢が生じて、
漱石が不信感を表すこともありました。
鏡子は、漱石の神経衰弱の被害にあいましたが、
それが病気によるものとわかると受け入れ、最後まで漱石の創作活動を支えました。
このコーナーには英国留学中の漱石が妻に送った書簡を展示しています。
留学中の漱石は寂しさからか、妻に手紙を寄越すよう何度も催促しました。
しかし幼子を抱えて、加えて筆不精でもあった鏡子は、
なかなか手紙を書こうとしません。
何か書くことを、と探した鏡子が思いついたのは、
2歳の娘・筆子の一日の行動を書いた「筆の日記」でした。
漱石からの書簡には、筆の日記が面白かったのでまた送ってほしいと書かれています。
妻の手紙を心待ちにする漱石の様子がうかがえます。続いて、子どもたちを扱った第三章ですが、
こちらのタイトルも「こども」の表記に関して、
漱石が日記や書簡で用いた「小供」を採用しました。
長女や長男、次男が後に記した文章には、
漱石は急に怒り出す怖い父親として記されています。
しかし、病気でないときの漱石は、子どもたちと相撲をとったり、
一緒に散歩に出かけ、好きなものを買い与えるやさしい父親でした。
このコーナーには、漱石が娘たちに宛てた葉書を展示しています。
それぞれの年齢にあわせて絵葉書の絵柄を選んでいるところに、
父親の愛情が感じられます。会場の最後には、漱石が家族や知人に宛てた書簡と漱石の日記から、
家族に関する事項を抽出した年表を展示しています。
実はこの3倍以上の分量があったのですが、
残念ながら会場の都合により重要事項を選んでいます。
こちらをお読みいただくと、漱石が妻や子どもたちをどう思っていたのかがわかります。
おいしい頂き物をすると必ず子供たちに食べさせていることも、
ほほえましいです。
会場ではぜひ、この年表にも注目してください。
今回の展示を通じて、漱石は育った家庭では得られなかった「家庭の幸福」を、
自身で築いた子沢山のにぎやかな家庭によって、
得られたのではないかと感じています。
文豪漱石の家族の一員としての顔に触れることのできる展示です。
皆様のご来場をお待ちしております。テーマ:漱石について 2021年7月19日 -
漱石山房記念館の芭蕉(バショウ)
漱石山房記念館の植栽についてご案内してみたいと思います。
「硝子戸の中から外を見渡すと、霜除をした芭蕉だの、
赤い実の結った梅もどきの枝だの、
無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、
その他にこれといって数え立てるほどのものは殆んど視線に入って来ない。」
(岩波文庫『硝子戸の中』1933年初版、1990年改版)漱石の随筆『硝子戸の中』の冒頭です。
書斎から外を見渡し、
目に入るものとして最初に挙げられているのが、
植物の「芭蕉(バショウ)」です。
漱石山房記念館の再現展示室からも、
実際に硝子戸越しにバショウを見ることができます。
バショウは、色々と興味深い謂れのある植物です。
高さ3~5メートルにまで成長しますが、
木ではなく大型の草であること。
俳人、松尾芭蕉の名前の由来となっていること。
原産地は中国とされながら、英名は「Japanese banana」であること。
その英名は、シーボルトが命名者の一人であり、
日本で発見しヨーロッパに伝えたためにそうなったことなどです。人の背丈を超える高さや、
数十センチにも及ぶ葉の大きさが南国ムードを漂わせ、
来館された方に「バナナが植えられているのですか」と尋ねられることもあります。
そう思われるのも当然で、
バナナとバショウは、同じバショウ科の植物です。
写真の、小さなラグビーボールのような楕円は苞葉(ほうよう)という、
葉の塊で、その葉の間に花の集まりがあります。
そして苞葉の根元の辺りには、バナナと同じような形の、
小さな緑色の実がたくさん付いているのが分かります。
このように開花します。
バショウの花言葉は「燃える思い」です。
確かに、バショウはその言葉のように強い生命力を持ち、
地下茎を通じて次々に芽を出します。
そのため、もちろん大切に育てていますが、
植栽管理の観点から、
他の植物を守るために広がり過ぎないようにも留意しています。
大正時代の漱石山房の写真には、
立派に育った数本のバショウが写っています。
漱石も、バショウを絶やさないよう、
また増やしすぎないように気を遣っていたのでしょうか。
そんな想像をしながら、植栽の管理に向き合っています。
漱石山房記念館の周囲には、バショウだけでなく、
他にも様々な漱石ゆかりの植物が植わっています。
お越しになった際は、それらの植物も是非ご覧になってください。
テーマ:その他 2021年7月12日