「越後の哲学者 松岡譲」展のみどころをご紹介するブログの第3回目は、
松岡の代表作、『法城を護る人々』に注目します。
松岡の約50年間にわたる作家人生は、
第四次『新思潮』の同人として活躍した20代半ば、
結婚をめぐる事件により断筆後、活動を再開させ最も脂が乗っていた30代、
2年間の病気療養から復帰した40代以降の、3期に分けることができます。
松岡は寡作の作家、非文壇作家と評されますが、
新聞や雑誌への寄稿は多く、随筆も含めれば500点近い作品を残しています。
短編小説では、『九官鳥』(大正11(1922)年)、『地獄の門』(大正11(1922)年)、
『田園の英雄』(昭和3(1928)年)、『白鸚鵡(しろおうむ)』(昭和22(1947)年)
の4冊の小説集を刊行しています。
しかし、松岡が書きたいと願っていたのは、本格的な長編小説でした。
自らの素質を短編よりも長編に向くと信じ、「長篇を書く味が忘れられない」、
「誰が何といつたつて一生長篇を書かうと堅く決心してゐる」と語っています(注:1)。
これには、若い日に師の漱石から「或いは器用な短篇より長篇の方に向くかもわからない」
と言われたことが影響しているのかもしれません(注:2)。
松岡の長編小説は、現状否定の強烈な批判精神に貫かれ、深刻さに満ちています。
加えて、漢語の多用により重厚感に溢れています。
その中で『法城を護る人々』上・中・下(大正12(1923)~大正15(1926)年)は代表作と言えます。
前回のブログ(越後の哲学者 松岡譲 その2)で触れましたが、
松岡は大学を卒業した4か月後の大正6(1917)年11月に、
短編小説の「法城を護る人々」を『文章世界』に発表しました。
同素材を扱った同名の長編小説『法城を護る人々』(上巻)を刊行したのは、
それから約6年後の大正12(1923)年6月のことでした。
先に発表された同名の短編小説は、
第二創作集『地獄の門』(玄文社、大正11(1922)年10月)に収録される際、
「護法の家」と改題されています。
長編小説の『法城を護る人々』は、上・中・下巻に別れて刊行されましたが、
総原稿数は4,500枚にものぼります。
僧侶の生活批判と人間のエゴイズムの追求を根本的なテーマとする作品ですが、
それはまた、雪深い北国の寺に生まれ、信仰深い父と度々対立した松岡の、
自伝的長編小説でもありました。
この執筆を支えたのは、第一書房の社主・長谷川巳之吉(みのきち)です。
長谷川は、これはと見込んだ松岡の渾身の長編小説『法城を護る人々』で、
自身の出版社・第一書房を旗揚げしました。
当時としては斬新な広告戦略もあり、本書は100版を軽く超えるベストセラーとなりました。
昭和に入ると普及版が出版されるほど版を重ねますが、
文壇の評価はというと、黙殺に近いものでした。
『評伝 松岡譲』を著した関口安義氏は、
作者の態度が宗門人に対する冷酷な批判に終始している点や、
問題解決が個の範囲にとどまり社会的に広がらなかった点など、
作品自体の欠点を指摘しつつも、文壇による完全なる黙殺の要因は、
久米正雄の『破船』によって作り出され尾を引いていたアンチ松岡の空気にあったといい、
「大々的宣伝で登場した『法城を護る人々』は、文壇人のねたみと嘲笑の対象以外の何物でもなかった。」
と記しています(注:3)。
発表当時、数は少ないながら本作に注目した評論もありました。
長谷川如是閑(にょぜかん)は、現在の事実を忠実に描写しているといい、
「ドキュメント」、「宗教界の自然主義的創作」として評価しました(注:4)。
また、哲学者の土田杏村(きょうそん)は、本作の革命的な気概を評価し、
芸術的な価値を認め、20枚にも及ぶ書評を書いています(注:5)。
展示会では、漱石が見抜き、本人が最も望んだ長編小説家としての松岡の一面を紹介する
「代表作「法城を護る人々」「敦煌物語」」のコーナーを設けています。
新型コロナウイルス感染症が収束し、
皆様にご覧いただける日が来るのを楽しみにしています。
(越後の哲学者 松岡譲 その4に続く)
注:
1 松岡譲「長篇小説一家言」『読売新聞』1927年12月
2 松岡の処女小説「河豚和尚(ふぐおしょう)」を漱石が批評した中で使われた言葉。
松岡譲「人間漱石」『正岡子規 夏目漱石 柳原極堂』生誕百年祭実行委員会 1968年
3 関口安義『評伝 松岡譲』小沢書店 1991年
4 長谷川如是閑「宗教的アナーキズム」『我等』1923年9月
5 土田杏村「非文壇作家」『詩と音楽』1923年10月
参考文献:
関口安義『評伝 松岡譲』小沢書店 1991年
林達夫ほか編著『第一書房 長谷川巳之吉』日本エディタースクール出版部 1984年