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越後の哲学者 松岡譲 その2

「越後の哲学者 松岡譲」展のみどころをご紹介するブログの第2回目は、
松岡の「青年時代から忍従の日々」について見ていきたいと思います。

東京帝国大学の哲学科に籍を置いた松岡は、
特に親しくしていた久米正雄と芥川龍之介の手引きにより、
大正4(1915)年12月に東京早稲田南町の夏目漱石宅「漱石山房」を訪れます。
その後松岡は、多忙な漱石のために木曜の午後と決めて門人たちが集った、
漱石山房の「木曜会」に毎週欠かさず出席するようになります。
鈴木三重吉や小宮豊隆らの世代からすると、
それよりも少し若い芥川や松岡たちは、次の世代と言えましょうか。
文学を志す新たな若い弟子たちに対して漱石は真摯に接しました。

大正5(1916)年2月、松岡、久米、芥川、成瀬正一、菊池寛の5人は、
漱石を第一の読者に想定した文芸雑誌、第四次『新思潮』を創刊します。
松岡の本格的な文学活動は、この雑誌の創刊とともに始まりました。
松岡は意欲的に文筆活動に励み、ほぼ毎月1作品を同誌に発表しました。
なかでも10月に発表した「青白端渓」は、芥川の創作意欲を大いに刺激しました。

芥川龍之介松岡宛書簡

芥川は松岡の「青白端渓」を読んで松岡に宛てたはがきの中で
「あれは大へんいい、ぐづぐづしてはゐられないと云ふ気が痛切にした
殊に僕は今書けなくってまゐってゐる あしたから勉強だ」と書いています。
本資料は「越後の哲学者 松岡譲」展に展示します。
また、『漱石山房記念館だより第2号』(令和元年12月15日発行)の
「漱石山房記念館所蔵資料の紹介No.2」に読み下し文を掲載し、
詳しく紹介していますので、本ブログと合わせてぜひご覧ください。
『漱石山房記念館だより第2号』のPDFデータはこちらからお読みいただけます。

第四次『新思潮』は、大正5(1916)年12月9日の漱石の死により第一の読者を失い、
大正6(1917)年3月に「漱石先生追悼号」を出したのちは続かず、終刊に至ります。
漱石と第四次『新思潮』の同人たちとの交流は一年ほどでしたが、
漱石の人格と深い学識はそれぞれに強い影響を与えました。

第四次『新思潮』の終刊から3か月後の大正6(1917)年6月、
出自に深く悩んでいた松岡は、
僧侶を連想させる本名の善譲(ぜんじょう)を「譲」(ゆずる)一字に改名します。
その翌月には大学を卒業して、いったん帰省しますが、
入寺問題で父と対立してしまい、両親の制止を振り切り再び上京します。
この上京は自活が条件でしたので、松岡は、漱石の妻・鏡子未亡人の勧めもあり、
子どもたちの家庭教師として夏目家に身を寄せました。

この後、数か月は創作意欲に満ち溢れ、
芥川の斡旋で『文章世界』に力作の「兄を殺した弟」を送り、
この作品が発禁の恐れから棚上げになると、
代わりに短編の「法城を護る人々」(『文章世界』大正6年11月号掲載)を一気に書き上げています。
新進作家として前途を期待されていた松岡ですが、
漱石亡き後の夏目家と深いかかわりを持つなかで、思いがけず恋愛事件の当事者となってしまいます。

このころ第四次『新思潮』の同人で、松岡の一校からの親友でもある久米正雄は、
漱石の長女筆子に想いを寄せていました。
しかしながら、筆子は松岡に惹かれていました。
松岡は筆子の気持ちを受け入れ、大正7(1918)年4月に二人は結婚します。
これにより久米の恋は失恋に終わるのですが、
久米はこの顛末を「破船」を代表とする数々の失恋小説に書いて世間に公表し、
同情を集め、人気作家となりました。
松岡はこの状況に際し、創作の筆を折り、沈黙を守ったのです。
松岡がこの事件をモデルにした小説「憂鬱な愛人」を発表し、
自身の立場を明らかにするのは、約10年後の昭和2(1927)年のことです。

筆子との結婚により、難しい立場に置かれた松岡は、しばらくは夏目家を支え、
漱石山房の書斎で読書と思索に没頭する日々を送ります。
そして、大正10(1921)年6月に「遺言状」(改作)を『新小説』に発表して、
再び創作活動に復帰するのです。
越後の哲学者 松岡譲 その3に続く)

参考文献:
関口安義『評伝 松岡譲』小沢書店 1991年
関口安義「松岡 譲 再評価される人と文学」関口安義編『EDI叢書 松岡 譲 三篇』イー・ディー・アイ 2002年
関口安義「松岡譲と芥川龍之介」『Penac』32号 2007年

テーマ:その他    2020年5月1日
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