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ボランティアレポート2 猫の墓
漱石山房記念館では、ボランティアガイドが
漱石の書斎の再現展示室の展示解説を行っていましたが、
現在は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、休止しています。
そこで、この吾輩ブログではボランティアガイドによるレポートをお届けしてまいります。11年飼っていた猫が8月末に亡くなりました。
突然、具合が悪くなったのではありません。
1年前、猫は後足に血栓ができ危うく命を落とすところだったのです。
その後何とか生き延びましたが、今年の暑い夏は越せませんでした。
私は昨年の4月に、漱石山房のボランティアになりました。
猫が1年前倒れたとき、漱石の猫の墓のことが頭に浮かびました。
そして漱石が詠んだ俳句のことも。
此の下に稲妻起こる宵あらん
和田利男「漱石の鳥獣悼亡句」(『漱石の詩と俳句』めるくまーる社、1974年)によると、
「明治41年9月、例の『吾輩は猫である』のモデルにされた猫が死んだ。
この句はその猫の墓標に漱石が書いてやったものである。
『永日小品』の中に「猫の墓」という一章があり、
「早稲田へ移つてから、猫が段々瘠せて来た。」という書き出しで、
しだいに弱って行って遂に死に至るまでの容態がくわしく描写されている(中略)
「稲妻」はこの句の季語になっているが、
実は夜空の電光そのものをいっているのではなく、
ここでは猫の目の光の比喩として用いたものである」
とあります。
この句について和田氏はさらに
「滅びゆく生命の火花を双の目にともした猫の最期の憐れさが、
漱石の眸裡にいつまでも焼きついていたに違いない。」
としています。
また、大正3(1914)年に漱石は
ちらちらと陽炎立たちぬ猫の塚
と詠んでいます。
「此の下に」の句から6年余の歳月が流れていますが、
漱石が生死の境を彷徨した修善寺の大患もその間にありました。-280x400.jpg)
私の話にもどります。
猫が1年前、生死の境をさまよっている頃、
私も漱石のように猫が亡くなったら俳句を作ってみようかと思いました。
しかし頭に浮かびませんでした。
ちょうど書道教室に通い始めた頃でしたので、
かわりに猫を詠んだこの2句を書いてみることにしました。
その後1年間、猫は家の近くの犬猫病院に通院し、
この夏再び入院することになりました。
するとすぐに病院から呼ばれ、駆けつけましたが間に合いませんでした。
亡くなった亡骸を、タオルケットに包み、両手で抱いて病院を出ました。
まだ温かく生きているようでした。
しかし妙に重く感じました。
そういえば今までこんなに長く抱いたことがなかったことに気づきました。
猫は抱かれるのが好きではなかったのです。
人間と同じように四十九日後、両親がねむる墓の中に入れました。
子猫のときから世話をした妻には、
漱石山房で買った猫のコーヒーカップを贈ることにしました。注1:現在、漱石山房記念館に隣接する漱石公園にある猫の墓(猫塚)は、
『吾輩は猫である』のモデルとなった猫の十三回忌にあたる大正9(1920)年に、
夏目家で飼われた生き物たちを供養するため、
漱石の長女・筆子の夫・松岡譲が造らせたものが、
昭和20(1945)年に空襲で損壊し、
その残欠を利用して昭和28(1953)年に再興されたものです。(漱石山房記念館ボランティア:松本民司)
テーマ:その他 2020年10月20日 -
ボランティアレポート1 「漱石山房記念館」開館の思い出
漱石山房記念館では、ボランティアガイドが
漱石の書斎の再現展示室の展示解説を行っていましたが、
現在は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、休止しています。
そこで、この吾輩ブログではボランティアガイドによるレポートをお届けしてまいります。今から丁度3年前、平成29年9月24日(日)に、
夏目漱石没後100年(平成28年)及び生誕150年(平成29年)を記念して、
早稲田南町に「漱石山房記念館」がオープンしました。
当日、私はボランティアガイドの為、
近くのお店でコーヒーを飲みながら研修書を読み直し、
地階から2階までの展示図をしっかりと頭に入れました。
その日は朝から天気も良く、9時半頃出陣すると、
玄関前には既に50人程の入場整理券を手にした人達が並んでいました。
矢張り相当な人気がある模様です。現在のボランティアガイドは主に漱石の書斎の再現展示室を解説していますが、
オープン直後は館内数箇所の解説をしており、私の担当は2階展示室で、
明治大正に出版された漱石の作品『吾輩ハ猫デアル』、
『虞美人草』、『三四郎』などの貴重な資料が並んでいました。
さらに門下生との書簡や絵葉書、漱石の原稿や遺品、
作品の解説、漱石の人脈図等々、
まさに記念館の本丸のような展示品です。
未だ入館者の居ない静かな展示室に立つと、
何回も研修して来た事が懐かしく思い出されました。
オープン初日は人が多く、ほとんど解説をする事もなく、
来館者の誘導が主な仕事でしたが、
10月~11月になると次第に来館者数も落ち着き、
ゆっくりとガイドをする事が出来ました。その時の印象的なエピソードを一つ、思い出してみます。
ある日、私が漱石の書斎の再現展示室でガイド待機中に、
一人の男性が質問にいらっしゃいました。
「漱石の書斎の右側にある調度品は何ですか?」
この質問は初めてでした。
私は漱石がロンドンから持ち帰った家具かと思っていましたが、男性は
「私はインテリアを扱っている者ですが、ちょっと調べさせてください。」
と希望されたので、事務室にご案内しました。
職員がその男性のお話をお伺いしたところ、
後日調査をしたいということになり、
しかるべき手続きの後に、詳しく調査をされたそうです。
その結果、辞書などの分厚い書物を読むための
「書見台」ではないか?ということがわかりました。そのほかにも開館直後の時期はたくさんの質問を受け、
色々な方とお話をすることができました。
英国留学時代の漱石のブルー・プラーク
(イギリスで著名人がかつて住んだことがある建物に設置されている銘板)
をご覧になったという、ロンドンに住んだ事のある方。
「夢十夜」を朗読するために勉強にいらっしゃったという方。
漱石ゆかりの地を廻っているという方には、神楽坂の地図をお渡ししました。
当然の如く博識の方が多く、この得難き貴重な体験を大事にしようと思いました。(漱石山房記念館ボランティア:立脇清)
テーマ:その他 2020年10月15日
