漱石について 一覧

吾輩ブログ記事
  • 夏目漱石の『文学論』を通して、世界文学を考え直す – 第二部

    Rethinking World Literature through Natsume Sōseki’s Theory of Literature
    – Part Two
    Christopher James Goring

    Following on from the first part, this blog post looks at the relationship
    between Natsume Sōseki’s Theory of Literature and the field of comparative literature.
    This time round, we will consider how Theory of Literature
    can allow us to rethink world literary studies.
    According to the work’s preface, Sōseki decided to write Theory of Literature because,
    upon comparing English and Chinese literature,
    he realised that they ‘must belong to different categories’.
    If they ‘belong to different categories’,
    then Sōseki’s concept of ‘literature’
    – developed based on his experiences with Chinese works –
    must not have been universal.
    As a result, Sōseki sets out to ‘resolve the more essential question:
    What is literature?’ In other words, it is only through the act of cross-border comparison
    that Sōseki finds himself able to interrogate the fundamental nature of literature.
    In order to express that nature, Sōseki comes up with the formula (F+f).
    F refers to the objects that literature depicts, while f refers to the feelings
    which come along with such objects or concepts.
    While the objects referred to by F and the feelings indicated by f
    may vary with the passage of time and between different cultures,
    Sōseki argues that ‘literary substance’ is always expressed by this one formula.
    I am sure there are many people who consider using mathematical tools
    to investigate literary concepts to be overly abstract and,
    more to the point, boring.
    And yet, from a comparative literary perspective,
    there’s lots that’s interesting about Sōseki’s theory.
    If we accept Sōseki’s conclusions,
    then while the Fs and fs of British and Japanese literature may be different,
    they nonetheless share the same underlying substance.
    If we compare their Fs and fs, our comparisons may be more effective.
    Put another way, thanks to Sōseki’s model we can construct a new framework for comparison.
    As a researcher, Sōseki’s non-fiction, just as much as his fiction,
    is a treasure trove of interesting concepts.
    If you’re interested in getting to know Sōseki a bit better,
    why not give Theory of Literature a go?

    Further Reading:
    1.All translations are from Natsume, Sōseki. 2009. Theory of Literature and Other Critical Writings, trans. and ed. by Michael K. Bourdaghs, Atsuko Ueda, and Joseph A. Murphy. Columbia University Press: New York

    このブログ投稿の第一部に続き、夏目漱石の『文学論』と比較文学の関係を考えてみます。
    今回は、『文学論』の結論を取り入れれば、
    世界文学をどう考え直せるかというテーマに移ります。
    本の前書きによると、漱石がもともと『文学論』を著した理由は、
    中国文学と英国文学を比べたところ、「異種類のもの」であることがわかったからだそうです。
    英国文学は中国文学と「異種類のもの」であるということは、
    漱石が中国文学に基づいて考え出した「文学」という言葉の定義が普遍的ではなかったということになります。
    そこで、漱石は「文学とは如何なるもの」かという問いを解く決心をしました。
    つまり、文学の本質(漱石の言う「内容」)を探究できるようになったのは、
    中国文学と英国文学を越境した比較のおかげです。
    その本質を表現するために、漱石は(F+f)という方程式を作り出しました。
    「Fは焦点的印象または概念」、つまり文学が描写するオブジェクトを差す一方、
    「fはこれに附着する情緒」、つまりそのオブジェクトや概念に付着している感情を差すということです。
    時の経過や文化によって異なるにしろ、
    文学の本質はいつもこの方程式に表されていると漱石は主張します。
    文学にかかわる概念を追求するのに数学の方程式を使うというのは、
    あまりに抽象的で退屈だと考える人が大半なはずです。
    しかし、比較文学の観点からすると、漱石の理論は興味深いのではないでしょうか。
    漱石の結論を取り入れてみると、英国文学の「F」と「f」は
    日本文学のものとは全然違うとしても、両文学には共通した物質があるということになります。
    両文学の「F」と「f」を比べることによって、より効果的な比較ができるようになります。
    別の言い方をすると、漱石の理論のおかげで、新しい比較的な枠組みを構築することができます。
    研究者にとって、漱石の小説はもちろん、そのノンフィクションも面白いコンセプトの宝庫です。
    漱石に関する知識を深めるなら、『文学論』を読むことに挑戦してはいかがでしょうか。
    (ゴーリング・クリストファー)

    参考文献
    夏目漱石『文学論』岩波文庫、2007年

    テーマ:漱石について    2024年02月16日
  • 夏目漱石の『文学論』を通して、世界文学を考え直す – 第一部

    Rethinking World Literature through Natsume Sōseki’s Theory of Literature
    – Part One
    Christopher James Goring

    My name is Christopher Goring and I am an exchange student from the UK
    currently residing in Tokyo.
    During my Master’s at Oxford, I specialised in comparative literature.
    Hoping to expand my research to involve work on the development of the Japanese novel,
    I came to Tokyo as a Daiwa Scholar in 2022.
    As part of my study aboard programme, I have been completing a work
    placement at the Natsume Sōseki Memorial Museum since October last year.
    During this work placement, I’ve helped to set up exhibitions,
    translated explanations of exhibited items, and helped visitors who do not speak Japanese.
    I have also been lucky enough to pursue my own research at the museum.
    In addition to Sōseki’s novels and stories, my research also encompasses
    Sōseki’s non-fiction essays and critical writing.
    In these two blog posts, I would like to take a quick look at his Theory of Literature (Bungaku-ron),
    first published in 1907, and its connection to the discipline of comparative literature.
    Theory of Literature, edited by Yoshitarō Nakagawa,
    had been largely forgotten until recently.
    Sōseki himself appears to have been dissatisfied with it.
    In the lecture ‘My Individualism’ (‘Watakushi no Kojinshugi’),
    Sōseki dismissed Theory of Literature as ‘a deformed corpse’.
    Based on the Theory’s preface, he seems to have felt this way
    because his intended work was an ‘enormous ten-year project’ which he was unable to bring to fruition.
    Even the published version of Theory of Literature was, in many ways, unfinished.
    Nevertheless, in recent years, the Theory has been drawing the attention of researchers
    in the field of comparative literature.
    Take, for example, Michael Bourdaghs, an American scholar of Japanese literature,
    who has written a number of essays on Theory of Literature.
    He notes that throughout the Theory, Sōseki quotes from English texts
    without providing a Japanese translation.
    Taking this tendency as his point of departure, Bourdaghs argues that
    Sōseki was profoundly sceptical of translation and global literary markets.
    Sōseki’s model, however, explores numerous other important concepts in world literary studies.
    In the second part, we’ll take a look at a few of them.

    Further reading:
    1.Natsume, Sōseki. 1979. ‘Sōseki on Individualism: “Watakushi no Kojinshugi”’, trans. by Jay Rubin. Monumenta Nipponica, 34.1: 21-48
    2.Bourdaghs, Michael. 2021. A Fictional Commons: Natsume Sōseki and the Properties of Modern Literature. Duke University Press: Durham

    イギリス出身のゴーリング・クリストファーと申します。
    オックスフォード大学院で、比較文学を専攻し、日本の小説の進展を研究対象にして、
    2022年に来日しました。留学プログラムの一環として、
    去年10月以来、漱石山房記念館で研修をしています。
    研修生として、展示の準備、展示品のキャプションの英訳、
    外国人来館者の質問へ答えるといった様々な業務に取り組んでいます。
    その他に、自分の研究を追求しています。
    今行っている研究は漱石の小説を取り扱うのみならず、
    随筆、批評を含む彼のノンフィクションも探究しています。
    この二部にまたがるブログ投稿では、1907年に出版された『文学論』と
    その比較文学への関係を取り上げたいと思います。
    中川芳太郎(なかがわよしたろう)により編集された『文学論』は、
    一般読者には、最近まで忘れられていました。
    漱石自身でさえ『文学論』に不満足だったようです。
    『私の個人主義』という講演では、『文学論』を
    「畸形児(きけいじ)の亡骸(なきがら)」として退けました。
    『文学論』の前書きによれば、『文学論』は完成するのに
    「十年」が必要な「大事業」だったということです。
    結局、ある意味では、出版された『文学論』のバージョンでさえ
    未完成だと考えられます。
    しかしながら、近年、比較文学という分野では、
    『文学論』は研究者の注目を集めています。
    例えば、アメリカ人のマイケル・ボーダッシュという日本文学の研究者は
    『文学論』について、いくつかエッセイを出版しました。
    漱石がイギリスの作品から引用し、それらの抜粋を和訳せずに
    『文学論』に入れる傾向があったということに焦点を合わせています。
    その傾向を出発点にし、漱石が翻訳に対しても、世界的な文学市場に対しても
    懐疑的だったとボーダッシュは主張します。
    しかし、漱石の構築した理論は、世界文学にかかわる他の概念についても様々に探究していると
    私は考えます。
    第二部では、そのコンセプトの中から、いくつか取り上げたいと思います。
    ※本文中には今日では不適切と思われる語句が見られますが、当時の表記を尊重し、そのままとしました。

    参考文献
    夏目漱石「私の個人主義」三好行雄編『漱石文明論集』 岩波書店、1986年,p.97-138
    夏目漱石『文学論』岩波文庫、2007年
    マイケル・ボーダッシュ「夏目漱石の「世界文学」―英語圏から『文学論』を読み直す」『文学』2012年 Vol.13, no.3. p.2-16.

    テーマ:漱石について    2024年02月09日
  • 夏目漱石の千円札にまつわる裏話

    只今、漱石山房記念館では《通常展》「夏目漱石と漱石山房 其の一」を開催中です。
    本展示では、「松岡・半藤家資料」をはじめとする寄贈資料や
    「夏目漱石記念施設整備基金」への寄付金によって購入した収蔵資料を中心に、
    漱石ゆかりの書簡や画を公開しています。
    漱石の肖像が描かれた「日本銀行千円券 No.2」もそのひとつです。

    千円紙幣D号券A000002A


    日本銀行券が今年(令和6年)7月に一新することをご存じの方も多いのではないでしょうか。
    本ブログでは、紙幣の話題にあやかり、漱石の千円札にまつわる裏話をご紹介します。
    ご参考までに、紙幣のシリアルナンバー(記番号)について取り上げた過去のブログ
    是非ご一読いただければ幸いです。

    漱石の千円札の肖像は、大正元(1912)年9月に写真師・小川一真によって
    撮影された写真が元となっています。
    身に着けている黒ネクタイと左腕の喪章は、撮影の約2ヶ月前に崩御した
    明治天皇に対する服喪の意思を示したものです。
    漱石が着ている背広は、その後、漱石の門下生である内田百閒が譲り受け、
    陸軍士官学校や海軍機関学校の教官時代に盛んに着用しました。
    百閒の随筆「漱石遺毛」には、段々とふくよかになる百閒の体型に耐え切れず、
    縫い目がほつれて着られなくなった背広のエピソードとともに、
    着古したことを後悔する彼の想いが綴られています。
    背広の現物を拝むことは叶いませんが、

    百閒の逸話とともに、千円札の肖像として後世に遺ることとなったのです。
    昭和21(1946)年に大蔵省(現財務省)と日本銀行が選出した紙幣肖像の
    新たな候補者20名の中には、福沢諭吉とともに漱石の名前も含まれていましたが、
    この時は残念ながら両者とも採用に至らなかったという経緯があります。
    しかし、高度経済成長以降に起こる国民の芸術・文化志向の高まりと、
    当時の世界的な紙幣肖像への文化人起用の流れから、
    昭和59(1984)年に晴れて漱石の千円札が発行されることとなりました。
    凹版彫刻に適した彫りの深さや国内外での高い知名度が銀行券の人物肖像に
    採択される要件ということもあり、漱石は最適な人物だったのでしょう。
    財布の中にあった何気ない漱石の千円札も、
    肖像起用の背景に想いを馳せながら
    ご鑑賞いただくと、
    展示資料としての様相が垣間見えるのではないでしょうか。

    《通常展》「夏目漱石と漱石山房 其の一」は、
    令和6(2024)年4月21日(日)まで開催しています。
    2月18日(日)、3月17日(日)、4月13日(土)は午後2時からギャラリートークも開催します。
    皆様のご来館を心よりお待ちしております。

    テーマ:漱石について    2024年01月26日
  • 夏目漱石と刀

    漱石の作品や俳句などには度々「刀」や「剣」といった単語が登場しています。
    今回は、漱石・夏目家と刀剣との関わりを少しご紹介します。
    漱石が生まれた慶応3(1867)年は12月9日に王政復古の大号令が発せられ、
    翌年1月には戊辰戦争が起こるなど、漱石が生を受けたのはまさに幕末の動乱期でした。
    泰平の世で実用の機会がほぼ失われていた刀剣は、この時に再び実戦で求められるようになっていました。
    その戦いによって切り開かれた次の時代になると、廃刀・脱刀を自由とした明治4年の散髪脱刀令、
    そして明治9(1876)年、漱石9歳のときの廃刀令により、刀剣はほとんどの需要を失いました。

    岡本一平 肉筆漫画『開国六十年史図絵』

    この状況を憂いた愛好家は刀剣の保護に努め、
    明治33(1900)年には政財界の重鎮が発起人となって刀剣会が創立され、
    日本文化を代表する美術品として再評価されるようになります。
    その様な時代に生きていた漱石にとって、刀剣はとても身近なものだったことでしょう。
    漱石が生まれる前後の時代には、抜刀した泥棒たちが生家に入ってきて、金を持って行ったことがあったといいます。
    また、漱石の生家・夏目家も刀剣類を所持していました。
    漱石の三番目の兄・直矩の子である夏目孝の著作『偽珊瑚』(土筆社、昭和59年)によると、
    天璋院が本法寺に参詣するのに
    「夏目の当主は士分ではないが名字帯刀ご免の家柄なので、公認の長めの脇差一本を腰にして従ったと思われる」
    とあります。本法寺は夏目家代々の菩提寺でした。
    この長脇差は直矩に受け継がれており、「立派な象嵌入りの小柄が鯉口に近いところに納まっていた」そうです。
    なお、鯉口は鞘の入り口にあたる部分を指します。
    小柄(こづか)は鞘の内側の溝に収められた細工用の小刀(非常時には武器として使用)のことで、
    江戸時代以降では装飾品としての意味合いが強くなります。
    しかしながら、今日、夏目家ゆかりの刀剣は確認できません。
    漱石の随筆「硝子戸の中」には、漱石の二番目の兄である栄之助(直則)が家の懸物や刀剣類を持ちだし、
    二束三文で売り飛ばしていたという記述があります。
    これだけが原因かはわかりませんが、夏目家に伝わっていた刀剣類は散逸し、
    直矩の家に伝わった長脇差もどこかの時点で失われてしまったのでしょう。
    家財道具、時には家屋敷まで失われることは、
    江戸幕府から明治政府へと移り変わるなかでは珍しいことではありませんでした。
    生活のために士族が不要となった刀剣を手放し、市場に多く出回ったことで、刀剣の価値は大暴落しました。
    漱石が生きたのは、日本刀が戦いの道具として復古し、受難の時を経て、
    美術品として昇華していく時期と重なっていたのです。
    最後に、漱石の詠んだ俳句の中から「刀剣」にまつわる句をご紹介します。

    刀うつ槌の響や春の風 明治29年
    太刀佩いて恋する雛ぞむつかしき 明治30年
    浪人の刀錆びたり時鳥 明治30年
    日当りや刀を拭ふ梅の主 明治32年
    抜けば祟る刀を得たり暮れの秋 明治32年

    テーマ:漱石について    2023年11月30日
  • 特別展の見どころ 野上弥生子の漱石への思い

    開催中の《特別展》「夏目漱石と野上豊一郎・弥生子」では、
    日本近代文学館からお借りした明治40(1907)年1月17日に
    漱石が弥生子の習作「明暗」に対して批評した巻紙2通を前・後半で1通づつ展示します(11月20日に展示替え)。
    前年の年末に夫の豊一郎が漱石へ葉書でアドバイスを求め、
    「明暗」が漱石に手渡された後、漱石がしたためた2通合わせて5メートル近い批評文です。
    非常に苦心の作なり。然し此苦心は局部の苦心也。従つて苦心の割に全体が引き立つ事なし」から始まり、
    1通目では7か条に渡って批評を加えた後、
    2通目で「実際に就て」と具体的な指摘を同じく7か条に渡って掲げられています。
    この2通には日付も差出名も宛名もありませんが、
    漱石全集等は漱石の書簡として収録しています。
    おそらく豊一郎が直接漱石から託され、弥生子に手渡したものでしょう。
    「明暗」は発表されることなく、弥生子の没後に発見されるまで未公開作品となりましたが、
    弥生子は講演会などでこの批評文を壇上から披露するなどし、
    晩年に至るまで漱石への感謝の思いを持ち続けました。
    文化勲章を受章するなど作家としての地位を確立した弥生子ですが、
    漱石への感謝の思いを隠すことはありませんでした。

    野上彌生子『縁』(成瀬書房)


    さて、写真は限定版『縁・父親と三人の娘』で昭和54(1979)年8月に成瀬書房から刊行されたものです。
    200部限定出版で、装幀は中川一政、手刷りの木版画装で本文を和紙、
    和綴じで製本し、紺染め木綿装の帙に入れ、弥生子の肉筆署名と落款、
    そしてシリアル番号の入った出版物です。
    弥生子94歳の時の出版ですが、弥生子の力の入れ様が感じられます。
    「縁」は『ホトトギス』明治40(1907)年2月号に本名のヤヱ(八重子)の名前で掲載された、
    野上弥生子のデビュー作です。

    『ホトトギス』明治40(1907)年2月号


    「父親と三人の娘」は明治44(1911)年8月にやはり『ホトトギス』に掲載された作品です。
    弥生子は、漱石に「明暗」を批評された後すぐに「縁」を書き上げ、
    漱石の推薦文(「漱石氏来書」)と共に『ホトトギス』に掲載されました。
    『縁』といふ面白いものを得たから『ホトトギス』へ差上げます。
    (中略)しかも明治の才媛が、いまだかつて描き出しえなかった嬉しい情趣を、表しています。
    (中略)広く、同好の士に読ませたいと思います。
    」(「漱石氏来書」)
    限定版ではこの「漱石氏来書」までも別刷で添付されており、
    弥生子の特別な思い入れが表れているように感じ取れます。
    漱石の批評文、そして推薦文。
    夫豊一郎を通して行われた漱石の指導は厳しくも温かいものでした。
    漱石の「明暗」批評文2通は非常に長いものなので、
    会期の前半に1通目を、11月21日(火)からの後半では2通目を展示していますので、
    2通ともに観ていただければ幸いです。
    (漱石山房記念館学芸員 今野慶信)

    テーマ:漱石について    2023年11月08日
  • 漱石山房の「硝子戸」

    「硝子戸の中から外を見渡すと、霜除をした芭蕉だの、
    赤い実の結つた梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、
    其他に是と云つて数へ立てる程のものは殆んど視線に入つて来ない。
    書斎にゐる私の眼界は極めて単調でさうして又極めて狭いのである。」

    夏目漱石の随筆『硝子戸の中』の冒頭部分です。
    『硝子戸の中』は、大正4(1915)年に39回にわたって朝日新聞に連載されました。
    タイトルも、第1回目の始めの単語も「硝子戸」となっています。
    この作品を書くにあたって、「硝子戸」というキーワードと「“うち”と“そと”」の意識が、
    漱石にとってはそれだけ重要な位置付けだったのでしょう。

    最初に引用したとおり、漱石は山房の中から外を見た風景を記しています。
    それを前提にしてみてみると、漱石山房記念館の再現展示は俄然大きな意味を持ってきます。
    そう、皆さんは『硝子戸の中』の漱石と同じ視点を感じることができるのです。
    そしてこの「硝子戸」、実際にはどのようなものだったのか、
    皆さんイメージできますか?

    ここで言われている「硝子戸」は、
    書斎を取り囲むように施された回廊の周りにある雨戸のようなものです。
    ガラスを使っているので雨戸にしては心もとない気もしますが、
    閉めたままでも外の様子を見られることや光を採り入れることが優先されたのでしょうか。

    ベランダとも縁側とも言えるような回廊を、南・東・北の三方から「硝子戸」で囲むような構造になっていて、
    「硝子戸」を収納できる戸袋が三方ともに取り付けられています。

    この「硝子戸」によって、
    漱石は「硝子戸の外」の世界との隔たりや関わりを感じていたわけです。
    山房の建物や植栽は空襲で焼失してしまいましたが、
    現在「硝子戸の外」には「芭蕉」や「梅もどき」が植えられています。


    画面左;芭蕉、画面中央;梅もどき
    漱石山房記念館では、令和5年10月15日まで
    《通常展》テーマ展示「『硝子戸の中』と漱石のみた東京」を開催しています。
    『硝子戸の中』の作品を読んで、再現された漱石山房を訪ねたり、
    早稲田や神楽坂のまちを歩いてみたりすると、
    漱石の視点とシンクロして新たな気づきがあるかもしれません。

    テーマ:漱石について    2023年08月18日
  • 《通常展》テーマ展示 『硝子戸の中』と漱石のみた東京のみどころ

    漱石山房記念館2階資料展示室では令和5年10月15日(日)まで、
    《通常展》テーマ展示「『硝子戸の中』と漱石のみた東京」を開催しています。

    展示風景


    夏目漱石「硝子戸の中」一『東京朝日新聞』
    大正4(1915)年1月13日(部分)

    「硝子戸の中から外を見渡すと、霜除をした芭蕉だの、
    赤い実の結つた梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、
    其他に是と云つて数へ立てる程のものは殆んど視線に入つて来ない。
    書斎にゐる私の眼界は極めて単調でさうして又極めて狭いのである。
    其上私は去年の暮から風邪を引いて殆んど表へ出ずに、
    毎日此硝子戸の中にばかり坐つてゐるので、世間の様子はちつとも分らない。
    心持が悪いから読書もあまりしない。
    私はたゞ坐つたり寐たりして其日其日を送つてゐる丈である」
    (夏目漱石「硝子戸の中」一より)

    抜粋部分にあるように、執筆を始めた当初、漱石は体調をくずしてほとんど外に出ていない状態でした。
    そのような中で書かれたのが、漱石にとって身近なことや実際に身の回りで起きたことなどが記されている
    『硝子戸の中』です。
    例えば、漱石の家族のこととして、異母姉である沢と房の芝居見物の話が書かれており、
    姉たちの芝居小屋までの経路が詳しくわかります。

    「彼等は築土を下りて、柿の木横町から揚場へ出て、
    かねて其所の船宿にあつらへて置いた屋根船に乗るのである。
    私は彼等が如何に予期に充ちた心をもつて、
    のろ〱砲兵工廠の前から御茶の水を通り越して柳橋迄漕がれつゝ行つただらうと想像する。(中略)
    大川へ出た船は、流を溯つて吾妻橋を通り抜けて、今戸の有明楼の傍に着けたものだといふ。
    姉達は其所から上つて芝居茶屋迄歩いて、それから漸く設けの席に就くべく、小屋へ送られて行く」
    (夏目漱石「硝子戸の中」二十一より)

    吾妻橋(明治40(1907)年頃)
    『東京・写真の今昔』(再建社)

    現在の吾妻橋(令和5(2023)年)

    漱石自身には生家の羽振りがよかったこの頃のことはあまり記憶になく、
    この話を兄から聞いた漱石は
    「そんな派出な暮しをした昔もあつたのかと思ふと、愈夢のやうな心持になるより外はない」
    と述べています。

    また、会場では、展示資料に関係する回の新聞の切り抜きを展示しています。
    新聞記事は文字が小さく読みづらいので、展示室内のベンチに文庫本をご用意しております。
    本文をお読みになりたい方はぜひご利用ください。

    『硝子戸の中』からは、漱石の身近な出来事や周囲の人々のことを通して、
    漱石のものの見方や考え方も窺い知れます。
    漱石山房やこの近くのことがたくさん出てきますので、
    実際の場所を辿りながら、『硝子戸の中』を読んでみてはいかがでしょうか。

    テーマ:漱石について    2023年07月24日
  • 《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造のみどころ(その4)

    漱石山房記念館2階資料展示室では令和5年7月9日(日)まで、
    《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造を開催しています。
    みどころ(その3)から続きます。

    森成の処置により一命を取りとめた漱石は、
    帰京に堪えられる体に回復するまで約1か月半もの間、
    修善寺菊屋旅館に滞在しました。
    この間、森成は同宿して漱石の看護に努めます。

    夏目漱石寄贈 シガレットケース(個人蔵)


    漱石は大量吐血の4日後、まだ体も動かないうちから
    「豆腐や雁もどきが食べたい」と言い、その2日後、
    ようやく手が動くようになると「瓜もみか何かを」食べたいと言って鏡子に笑われます。
    吐血から三週間は鏡子が鶏肉を湯煎して作るスープや重湯、葛湯など、
    液状のものしか食べさせてもらえず、献立を考えることを楽しみに過ごしてきた漱石ですが、
    9月13日についに固形物が許可されます。
    漱石の日記には「四時頃突然ビスケツト一個を森成さんが食はしてくれる。
    嬉しい事限なし」と書かれています。
    この頃から一日に半片のビスケットを食べることを許可されますが、
    寝たきりで食べ物に執着していた漱石はそれでは足りず、
    重湯をビスケットに変えるよう森成に談判します。
    しかし森成は認めません。
    9月16日の漱石の日記には「ビスケツトに更へる事を談判中々聞いてくれず」とあります。
    鏡子が野間真綱に宛てた9月27日消印の手紙にも
    「ヒスケツトを一枚ふやしてくれ 森成さんはいやにしみつたれだ 
    これはかりの物ををしむとか おもゆなんぞまづい物食へさせるなら食べてやらないからいひとか
    しきりに食物の小言を云て居ります」と書かれていますので、
    森成が漱石の要望に毅然と対処して、病身の悪化を防いでいたことがわかります
    (書簡は神奈川近代文学館所蔵、本展では写真で展示)。
    森成は憎まれ役になりながらも優しい心遣いを忘れませんでした。
    漱石の9月19日の日記には「花が凋むと裏の山から誰かゞ取つて来てくれる。
    其時は森成さんが大抵一所である。」と書かれています。
    10月11日、寝たまま釣台で運ばれて汽車で帰京する漱石の枕元の信玄袋に
    野菊の枝を差し込んであげたのも森成でした。
    漱石は帰京後、長与胃腸病院に再入院しますが、
    そこで森成が自身の看護のために恩師・長与院長の死に立ち会えなかったこと、
    漱石も懇意にしていた院長の死にショックを受けぬよう、
    訃報の新聞を遠ざけていたことを知ります。
    漱石は病室にシガレットケースを取り寄せ、
    直筆の下書き「修善寺にて篤き看護をうけたる森成国手に謝す 漱石」
    「朝寒も夜寒も人の情けかな」を彫らせて、お礼の品として森成に贈りました。
    森成は生涯このシガレットケースを愛用しました。
    展示会場には、このシガレットケースと外箱を一緒に展示しています(ともに個人蔵)。
    双方保存状態が良く、大切に扱われてきたことが分かります。
    二人の深い関係を物語る貴重な資料を、ぜひ会場でご覧ください。

    テーマ:漱石について    2023年06月20日
  • 《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造のみどころ(その3)

    漱石山房記念館2階資料展示室では令和5年7月9日(日)まで、
    《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造を開催しています。
    みどころ(その2)から続きます。

    森成麟造

    明治43(1910)年8月24日の大患の様子は、
    坂元雪鳥「修善寺日記」のほか、
    主治医・森成麟造(もりなり・りんぞう)による「漱石さんの思出」と題する回想録にも記されています。
    この記録は、昭和7(1932)年から翌年にかけて全11回にわたり
    上越の俳句同人誌『久比岐』に連載されました。
    森成は明治17(1884)年に東頸城郡菱里村真荻平(現・上越市)に生まれました。
    仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)を卒業後、東京麹町の長与胃腸病院に勤務します。
    「漱石さんの思出」には、仙台医学専門学校在学時にホトトギスに掲載された
    「吾輩は猫である」を読み漱石の愛読者となり、
    長与胃腸病院では大の漱石党として知られ、病院機関雑誌『春風』に
    「吾輩は猫である」を模した「お草履日記」を連載していたことも記されています。
    漱石体調悪化の報を受けて修善寺に向かう『久比岐』連載第7回目以降の記事は、
    上越郷土研究会発行の『頸城文化』第8号(昭和30(1955)年)に再掲されました。
    大患の記録となるこの部分は、
    『漱石全集』(第2次)月報第20号(2003年)、
    十川信介編集の岩波文庫『漱石追想』(2016年)にも収録されています。
    以下に「漱石さんの思出」の8月24日の記録を抜粋します。

    森成麟造「漱石さんの思出」(『頸城文化 8』(1955年))抜粋
    (前略)
    サア大変!万事休矣!
    私は胸中掻き挘らるる如き苦悶と尻が落ち付かない様な不安とに襲はれ
    全身名状すべからざる一種の圧迫を感じた
    此現象は畢竟自分が大狼狽して居る結果で
    此危急の際僕迄が狼狽しては駄目だと悟つた瞬間
    反撥的に度胸がクソ落ち付きに落ち付き払つた。
    目前に横たはる臘細工の病体を冷静に物質視すると
    其ドツカと胡座をかいて猛然ズプリズブリと注射を施した。
    コレデモカ?コレデモカ!と力を籠めて注射を続けた。
    病人の腕を握つて検脈して居られた杉本さんは
    突然「脈が出て来た!!」と狂喜して叫ばれた。
    成程小さい脈が底の方に幽かに波打つて居るのではないか。
    此の時の喜び!此時の気持!
    只々両眼から涙がホロリホロリと澪れ出るのみである。
    (中略)
    其後は私は病人に関する一切を引受けた。
    看護婦が来着する迄の二日間は全く無我夢中で働いた。
    病人に冷水を飲ますべく階下へ降りて
    僅か二合入の土瓶を持つて十二三段の階段を登る事さへ頗る苦痛となった。
    二三段登つては休み四五段登つては小憩しなければならない程呼吸促迫し
    心悸元進し迚も胸苦しかつた。
    斯ンナ事で意気地がないと切歯しても事実是が動かない
    神身全く綿の如く疲れ果てゝ時々眩暈さへ覚ゆるに至つた。
    (後略)

    この時漱石42歳、森成26歳でした。
    憧れの文豪の生命の危機に直面した若き医師の使命感がうかがえます。
    本展には、この「漱石さんの思出」直筆原稿も展示しています。
    坂元雪鳥の「修善寺日記」直筆原稿の隣に展示していますので、
    ぜひ会場で漱石を支えた人たちの息遣いに触れてください。

    次回のみどころ(その4)は、大患後も続いた漱石と森成の交流についてお伝えします。

    テーマ:漱石について    2023年06月14日
  • 《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造のみどころ(その2)

    漱石山房記念館2階資料展示室では令和5年7月9日(日)まで、
    《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造を開催しています。
    みどころ(その1)から続きます。

    坂元雪鳥

    明治43(1910)年8月18日、台風で不通になっていたところようやく全通した東海道線で、
    東京朝日新聞社から派遣された坂元雪鳥(せっちょう)と、
    長与胃腸病院の森成麟造(もりなり・りんぞう)医師が菊屋旅館に到着します。
    避暑地の子どもたちを見舞っていた妻の鏡子も一日遅れで到着します。
    寝たきりの漱石は、床の位置を変えてもらい花火を楽しみ、
    女中を交えて笑い話をするなど数日間は和やかに過ぎました。
    そして「忘るべからざる二十四日」が来ます。
    夜八時半ごろ、500グラム吐血した漱石は、脈拍が止まり人事不省に陥りました。
    この様子は、雪鳥の「修善寺日記」(『國學』第8輯「坂元雪鳥先生追悼号」
    昭和13(1938)年7月、日本大学国文学会発行)に詳しく記され、
    その惨憺たる様子の記述は小宮豊隆の『夏目漱石』(昭和13(1938)年7月刊行)にも引用されています。
    少し長くなりますが、以下に雪鳥「修善寺日記」の8月24日の記録を抜粋します。

    坂元雪鳥「修善寺日記」 廿四日
    「恐ろしかつた廿四日、午前から先生の顔色が非常に悪い。
    衰弱の色顕著になつた。口數を利かれない。
    胃部が著しく膨満の体である。午後胃腸病院の杉本氏が来た。
    六時過ぎだつたのか診察をした。別室に退いてから大ニ楽観して居る。
    予は嬉しさに堪へず直ちに社へ電報を発して
    「杉本氏診察の結果大に人意を強うせり」と知らせた。
    杉本、森成両氏にウヰスキイを勧めて談して居ると
    丁度八時三十分だつたらうと思ふ頃
    中庭を隔てた二階の病室の欄干の處へ夫人が現れて
    「森成さん早く早く」と手を拍き乍ら悲鳴を揚げられた。
    三人は何事とも解せず宙を飛んで行くと‼
    先生は今しも唾壺(夫は夫人が右手に先生を抱き左手に持つて居られた)
    に一杯血を吐いて居られる。
    真蒼になつた先生は眼を瞎いて瞳孔の散大したのが分る。
    毛髪も髯も真黒に見える中に生々しい
    鮮血がダクダクと流れ出て居る。
    予は直ぐ椽側から金盥を持つて来て唾壺と更へた。
    森成氏は既に注射の用意をしてる
    杉本氏は其便々たる腹を波立たせてシカと先生の手を握つて
    先生の顔と森成氏の手許とを見詰めて居る。
    金盥には又新たに多量の塊血が出た。
    新しい雞の肝臓の様である。
    見ると血は夫人の肩を越して三四尺も飛んで居る。
    最初我慢に我慢されたのが迸つたのであらう。
    汚れたる座蒲團を椽に捨て先生の口辺を拭ひ夫人に着換を勧めて立たせる。
    シツカリなさいと励ます。
    夫人は森成さん、杉本さんと切な相な声を絞つて居られる。
    大丈夫ですから更へていらつしやいと
    予は其紅に染んだ夫人の浴衣を見るに忍びず立たしめる。
    注射は猶予なく初まつた。
    此時既に先生は虚脱に陥いりかけて人事不省だつたのである。」

    日本近代文学館が所蔵するこの原稿は、現在、本展で展示しています。
    時を経てなお力強い、気迫のこもった雪鳥直筆「修善寺日記」をぜひ会場でご覧ください。

    次回のみどころ(その3)は、主治医として治療にあたった森成麟造医師をご紹介します。

    テーマ:漱石について    2023年06月01日
  • 《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造のみどころ(その1)

    漱石山房記念館2階資料展示室では令和5年7月9日(日)まで、
    《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造を開催しています。
    会場は「第1章 修善寺の大患」、「第2章 森成さんと漱石さん」の2章立てで構成しています。

    明治43(1910)年6月、「門」の連載を終えた漱石は長与胃腸病院に入院し、
    長年患っていた胃潰瘍の本格的な治療を開始します。
    退院後の8月6日には、医師の許可を得て、静養先の修善寺を訪れます。
    同地に滞在予定の門下生・松根東洋城との句作や謡を楽しみにしていた漱石ですが、
    到着の3日後には体調が悪化し、床に就いてしまいます。
    そして、8月24日には、500グラムもの大吐血の後に人事不省に陥ります。
    この出来事は「修善寺の大患」として知られています。
    胃潰瘍の漱石にとって、この修善寺滞在には、
    心理的な不安要素がいくつも重なっていました。
    まず、修善寺行ですが、新橋駅で待ち合わせのはずの東洋城に会えず、
    御殿場で下車して二時間遅れの後続列車を待ち、三島で伊豆鉄道への乗り継ぎを40分待ち、
    終着駅の大仁(おおひと)駅では雨で車(人力車)が捕まらず、
    出発から8時間経てようやくたどり着いた宿には空きがなく、
    交渉してなんとか一泊だけ部屋を都合するなど、病後の体に負担をかけた旅でした。
    漱石の病状悪化の報は、東洋城によって各所に発せられますが、
    おりしも関東は8日から続く大雨で、土砂災害により鉄道は不通になり、
    電信や電話も混乱をきたしていました。
    漱石は、「思ひ出す事など」(明治43年10月29日~明治44年2月20日『東京朝日新聞』連載)のなかで、
    宿にかかってきた電話の相手が暴風雨の雑音で妻の鏡子とわからずに、
    「貴方(あなた)といふ敬語を何遍か繰返した」(「思ひ出す事など 十」)と書いています。
    そして水害の新聞報道を見て、
    「東京と自分とを繋ぐ交通の縁が当分切れ」「多少心細いものに観じない訳に行かなかつた。」
    (「思ひ出す事など 十」)とも記しています。
    第1章のコーナーには、漱石が初日に一泊した「菊屋別荘」と
    修善寺の大患の舞台となった「菊屋」(本館)の描かれた
    明治37(1904)年発行の「豆州修善寺温泉場改図」や、
    漱石が乗車した、丹那トンネル開通以前の東海道線と伊豆方面の路線図、
    水害の様子を伝える新聞記事などを展示しています。
    ぜひ会場で、大患前夜の漱石の心情に浸ってみてください。
    皆さまのご来館をお待ちしております。

    次回のみどころ(その2)は、8月24日、大患当日の記録について迫ります。

    テーマ:漱石について    2023年05月22日
  • どうする漱石-家康家臣・夏目広次との関係-

    現在、放映中のNHK大河ドラマ「どうする家康」に登場している
    徳川家康の家臣・夏目広次(系図等では吉信)(1518-1572)は、
    夏目漱石の先祖と言われていますが本当でしょうか。
    夏目広次は、武田信玄に敗北を喫した元亀3(1572)年の三方ヶ原の戦いで、
    家康の身代わりとなって討死したことで知られます。
    もともと三河譜代の家臣で、永禄6(1563)年三河一向一揆では一揆側に加担したものの、
    家康から許されています。
    広次の子孫は江戸幕府の旗本として続き、
    幕府編纂の系図集『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』には同族10家の夏目家が載っています。
    同書によれば、夏目氏は清和源氏で多田満仲の弟・満快の8代国忠が源頼朝から
    奥州藤原氏追討の勲功賞として信濃国夏目村(比定地不明)を拝領したことに始まると言います。
    その後、南北朝時代に三河に移り、
    そして安城松平家(のちの徳川家)に仕えることになったとしています。
    さて、漱石は慶応3(1867)年、江戸牛込馬場下横町の町名主(なぬし)の
    夏目小兵衛直克の子として生まれました。
    馬場下横町の名主夏目家は、元禄15(1702)年、四兵衛直情(なおもと)が
    初めて幕府から名主役を仰せ付けられたといい、5代続いて幕末まで至っていますが、
    先祖を旗本夏目氏と同じとしています。

    漱石の祖父・夏目小兵衛直基像(『漱石写真帖』部分)


    漱石の家系について詳しく言及しているのは、漱石の門下生・小宮豊隆です。
    小宮の『夏目漱石』によれば、漱石の夏目家は旗本夏目家とルーツは同じものの、
    三河に移らずそのまま信濃に残った家系で、室町時代の中頃には守護小笠原持長に仕え、
    その後甲斐の武田信昌から信玄・勝頼まで5代の武田家に仕え、
    八代郡夏目原村(現山梨県笛吹市御坂町)に居住したといいます。
    武田家滅亡の後、小田原北条氏重臣で岩付城(さいたま市岩槻区)主の太田氏房に仕え、
    北条氏滅亡後は、家康家臣で岩槻城主の高力清長・氏正へと主君を変えたといいます。
    これらは漱石の兄直矩(なおのり)の夏目家本家の家系図に拠ったもので、
    もちろん史料的な裏付けが必要ですが、漱石家の家伝として重視しなければならないでしょう。
    漱石自身もこれらは認識しており、
    「僕の家は武田信玄の苗裔(いえすじ)だぜ。えらいだらう。」
    (漱石の談話「僕の昔」明治40年)と発言しています。
    信玄の子孫というのは不正確ですが、漱石と市谷小学校の同級生だった篠本二郎も
    同じ武田旧臣の家柄だったということで漱石と口喧嘩をした思い出を語っています(同「腕白時代の夏目君」昭和10年)。
    すなわち、漱石の夏目家は、旗本夏目氏とルーツは同じものの三河に移住した系統ではないので、
    家康家臣の夏目広次を先祖に数えるのは正しくないことがわかります。
    江戸の町名主の家に生まれた江戸っ子漱石が、
    徳川家康に親近感を抱いていたのは確かだと思いますが、
    漱石の家系は家康を震え上がらせた武田信玄の家臣だったようです。
    (漱石山房記念館学芸員 今野慶信)

    テーマ:漱石について    2023年05月08日
  • 《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造展 開幕しました

    漱石山房記念館2階資料展示室では
    《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造(もりなりりんぞう)展が開幕しました!
    会期は4月13日(木)~7月9日(日)まで、
    春から初夏にかけての気持ちのよい季節です。
    吾輩ブログでは、これから展示会のみどころについてお伝えしていく予定ですが、
    今回は、展示会チラシの裏話を一つご披露します。

    今回のチラシは、新緑を背景に、
    漱石と森成麟造の写真を配置しています。
    森成の肖像写真は修善寺の大患1年後、27歳の時の写真です。
    新緑の背景写真は修善寺の桂川です。

    よく目を凝らしてチラシをご覧いただくと、
    漱石の右腕のあたりに朱塗りの橋がうっすらと見えませんか。
    桂川に架かる桂橋です。
    漱石が修善寺を訪れたのは夏の盛りの8月6日。
    そこから8月24日には大量吐血をし(世にいう修善寺の大患)、
    東京に戻れたのは、秋も深まった10月11日でした。
    森成は、大患前の8月18日から帰京する日まで、
    2か月近く修善寺に滞在して漱石を看護しました。
    その間、修善寺の山を散策しては草花を持ち帰り、
    寝たきりの漱石の目を楽しませました。
    今の季節、修善寺の温泉街はちょうど写真のような
    新緑に覆われていることでしょう。
    展覧会とあわせて、漱石と森成の関係に思いを馳せながら
    修善寺を訪れてみてはいかがでしょうか。

    テーマ:漱石について    2023年04月19日
  • 夏目漱石内坪井旧居の公開が再開されました

    夏目漱石は明治29(1896)年4月に熊本の第五高等学校に転任し、
    明治33(1900)年にイギリス留学を命じられるまでの熊本時代に、
    合計6回も転居をしています。
    漱石が熊本で住んだ6ヶ所のうち現存するのは、
    3番目に住んだ大江村の家と5番目に住んだ内坪井の家、
    そして6番目に住んだ北千反畑の家の3ヶ所で、
    さらに現在一般公開されているのは大江村の家と内坪井の家の2ヶ所です。

    漱石が3番目に住んだ大江村の家は、
    もともと熊本市中央区新屋敷1丁目(旧大江村)にありましたが、
    昭和47(1972)年に熊本市中央区の水前寺成趣園の隣に移設されました。
    漱石がここに住んだのは明治30(1897)年~31(1898)年。
    この時期に漱石は小説「草枕」の題材になった熊本県玉名市小天温泉へ旅行に出かけました。
    この家で妻の鏡子と書生、女中、飼い犬や飼い猫と一緒に撮影された写真が残されています。

    大江村の家にて(左から書生、漱石、鏡子、女中)
    松岡譲 編『漱石寫眞帖』より

    漱石が5番目に住んだ内坪井の家は、
    現在も当時と同じ熊本市中央区内坪井町にあり、
    熊本市の指定史跡「夏目漱石内坪井旧居跡」として内部公開がされています。
    漱石がここに住んだのは明治31(1898)年~33(1900)年で、熊本時代で最も長く住んだ家です。
    漱石の長女・筆子は明治32(1899)年5月にこの家で生まれました。
    また、小説「二百十日」の題材になった阿蘇山に漱石が登ったのもこの時期です。

    内坪井の家
    松岡譲 編『漱石寫眞帖』より

    夏目漱石内坪井旧居は平成28(2016)年の熊本地震で被害をうけ、
    公開を休止していましたが、復旧がすすみ、
    令和5(2023)年2月9日(木)に公開が再開されました。
    通常は有料の施設ですが、当面の間は特別に入館料が無料とのこと。

    夏目漱石内坪井旧居(写真提供:熊本市)

    熊本は漱石にとって、鏡子との新婚生活や娘の誕生など、
    人生の節目となる出来事をいくつも体験した土地です。
    漱石の足跡をたどりながら、熊本の旧居を巡ってみてはいかがでしょうか。

    テーマ:漱石について    2023年02月25日
  • 《通常展》テーマ展示 ああ漱石山房 のみどころ(後編)

    漱石山房記念館2階資料展示室では令和5年4月9日(日)まで、
    《通常展》テーマ展示 ああ漱石山房 を開催しています。

    夏目漱石は牛込区早稲田南町7(現 新宿区早稲田南町7)の漱石山房で9年間暮らし、
    大正5(1916)年12月9日に亡くなりました。
    書斎は一時片づけられ、漱石の遺体が安置され、祭壇が設けられました。
    12月12日の葬儀が終わった後、30日には書斎は元の状態に戻され、
    机上には、未完となった「明暗」の原稿で「189」と記された原稿用紙の他、
    万年筆、眼鏡入れ、象牙製のペーパーナイフなどが置かれました。
    座布団も敷かれ、絵画の額等も元通りに戻されました。
    一方、客間の方は、霊壇式に写真を飾り、その側には普段は黒い布で蔽ったデスマスクを安置し、
    常に花を取り換え、いつでも香を焚ける仕組みとなりました。

    夏目漱石のデスマスク 新海竹太郎作

    漱石の死後、この家と敷地は夏目家が買取り、母屋は増改築されましたが、
    漱石の書斎は敷地内に曳家され、そのままの状態で保存されました。
    大正12(1923)年9月1日の関東大震災では、ほとんど無傷だったとはいえ、
    危機感をいだいた松岡譲は、建物ごと移築保存して財団法人に管理させようと
    漱石門下生の主なメンバーに提案しました。
    そのあたりの経緯は、今回展示している松岡譲の「九日会手帳」にも記されています。

    九日会第78回例会例会記録
    大正12(1923)年12月9日 九日会手帳

    しかし、なかなか議論はすすまず、昭和6(1931)年11月、夏目家は西大久保に転居し、
    漱石山房はそのままに管理人を置くことになりました。
    この後、戦時体制の強化により、漱石山房は軍関係の寮となったこともあったようです。
    このままでは漱石の書斎は荒らされ、建物も朽ちてしまうと門下生たちは危機感を持ったものの、
    戦時中のため、当時はこれといった有効な手だてもありませんでした。
    小宮豊隆らの努力により、辛うじて蔵書だけは東北大学附属図書館への移管という形に落ち着きましたが、
    松岡譲が抱いた建物ごとの保存の夢はまずは先送りとなってしまいました。
    そして昭和20(1945)年5月、漱石山房は山の手空襲により全焼してしまったのです。
    この時、漱石のデスマスクは書斎に飾られていたようで、山房と共に灰燼に帰してしまいました。
    (展示中のものは、朝日新聞社にあったものを昭和40年に複製したものです)
    このことを、松岡譲は「甚だ象徴的な死と言わなければならない」と記しています。
    「ああ漱石山房」。漱石山房は、門下生のなかに慨嘆とノスタルジーを伴いながら生き続けていました。

    今回は他にも、漱石山房の焼け跡から発見された漱石の硯や、松岡譲が描いた漱石山房図も展示されています。
    漱石の硯の詳細はこちらのブログ記事をご覧ください。
    松岡譲が描いた漱石山房図については『漱石山房記念館だより第11号』に詳しく紹介しています。
    『漱石山房記念館だより』はこちらのページからPDFでご覧いただけます。

    テーマ:漱石について    2023年02月01日
  • 《通常展》テーマ展示 ああ漱石山房 のみどころ(前編)

    漱石山房記念館2階資料展示室では令和5年4月9日(日)まで、
    《通常展》テーマ展示 ああ漱石山房 を開催しています。

    「ああ漱石山房」という印象的なフレーズは、
    夏目漱石の長女・筆子と結婚した松岡譲(1891-1969)がその晩年、エッセイ等によく使用したものです。
    漱石没後50年を迎えた昭和41(1966)年の『サンケイ新聞』12月8日の夕刊に、
    松岡譲による「ああ、漱石山房」という署名記事が掲載され、
    その翌年5月、朝日新聞社から『ああ漱石山房』というエッセイ集が出版されました。

    右:松岡譲『ああ漱石山房』朝日新聞社
    左:松岡譲「ああ漱石山房 目次」

    「漱石山房」とは、夏目漱石が明治40(1907)年9月から、亡くなるまでの9年間生活した、
    牛込区早稲田南町7(現 新宿区早稲田南町7)の借家にあった、それぞれ10畳の書斎と客間を指します。
    漱石は、明治36(1903)年1月、ロンドン留学から帰国した後、
    漱石山房に住むまで、2度ほど転居しています。
    最初は鏡子夫人の実家の中根家に同居した後、
    同年3月から駒込千駄木町(現文京区向丘2)の通称「猫の家」に住みました。
    森鷗外もかつて住んだ家として知られ、小説「道草」の主人公・健三の家のモデルとされています。
    この「猫の家」は現在、愛知県の博物館明治村に保存移築されています。
    次に、明治39(1906)年12月、駒込西片町(現文京区西片町)に転居しました。
    ここには短期間しか住みませんでしたが、のちに漱石を慕う魯迅が住み、「伍舎」と名付けています。
    「趣味の遺伝」の主人公の家で、「三四郎」の広田先生の引っ越し先のモデルとされています。
    漱石はここまで自らの書斎を「漾虚碧堂」と名付けていたと思われます。
    そして、明治40(1907)年9月29日、夏目漱石は早稲田南町7の借家に賃借人として入居しました。
    「漱石山房」の誕生です。
    差配人は町医者の中山正之祐、家の所有者は歌人で病院長の阿部龍夫でした。
    敷地面積340坪の中央に建つ60坪の平屋建ての和洋折衷建築。
    部屋数は7室で家賃は35円でした。

    漱石山房外観(大正5年12月)

    この住宅について、松岡譲は「ああ漱石山房」の中で
    「この家は、元来、三浦篤次郎というアメリカがえりが、明治三十年頃に建てた家だそうで
    当時の文化住宅とでもいうのであろう、一風変った家であった。
    その後、銀行の支店長が住んでいたのが阿部氏の手に移り」と書いています。
    三浦篤次郎という人物については、今まであまり情報がありませんでしたが、
    昨年お亡くなりになった当館ボランティアの興津維信さんの調査によって、
    福島県須賀川出身の自由民権家で、福島県議になりながら2度ほど渡米し、
    明治29(1896)年には愛国生命の取締役になっていたということがわかりました。
    (後編へつづく)

    テーマ:漱石について    2023年01月25日
  • 「吾輩は○○である」

    夏目漱石による最初の長編小説「吾輩は猫である」は、
    日本文学の作品において恐らく最も有名なタイトルの1つでしょう。
    猫が「吾輩」と自称するタイトルはインパクトがあり、
    現代まで様々なパロディ作品を生んでいます。
    有名なものでは、門下生の内田百閒による
    「吾輩は猫である」の続編「贋作吾輩は猫である」があります。
    その他のパロディ作品も、やはり猫に関するものが多く見られます。
    しかし、「吾輩は○○である」というタイトルは、紹介したい対象になりきって物語を作ることができ、
    また話の大まかな紹介まで一気にできる簡便さもあるためか、
    猫だけでなく多岐にわたり利用されています。

    国立国会図書館で検索してみると、1冊の本の形になっているものだけでも多くありますが、
    中でも目に付くのは、やはり動物系です。
    「吾輩は馬である」
    「吾輩は猿である」
    「吾輩は亀である」
    「吾輩はらんちゅうである」(らんちゅうは金魚の一種)
    「吾輩は蚕である」
    などが見当たりました。猫と対をなす人気のペット、
    犬に至っては「ハスキー」「ドーベルマン」など犬種が指定されているものまであります。
    無生物としては、「ロボット」「教卓」「水」「ロンドン」などがあり、
    「細菌」や「ウイルス」まで「吾輩」を自称しています。
    ちなみに、古くから猫の恰好の獲物とされ、
    対比されることの多い「鼠」については、
    「吾輩ハ鼠デアル : 滑稽写生」というタイトルの作品が明治40(1907)年に発表されています。
    (影法師『吾輩ハ鼠デアル : 滑稽写生』 大学館)
    本家「吾輩は猫である」の第1章に当たる部分が発表されたのが明治38年ですから、
    かなり早い段階で登場しています。本家「猫」の影響力や人気が伺えます。

    これらのパロディタイトルの内容を概観してみると、
    本家同様、様々な「吾輩」に人間社会を観察させ、批評させることに主眼を置くもののほか、
    動物や無生物の「吾輩」に自らの特色、出自、生態や人間社会との関りなどを詳細に語らせる
    「自己紹介もの」も多いことが分かります。
    更に、これらとは一線を画した「吾輩は」の定番に、
    人間である著者当人の現実世界での立場・職業を直截に表したエッセイがあります。
    この場合は「路線バス運転手」など、具体的な職業・立場が明示されています。
    「吾輩は猫である」というタイトルは、猫のような可愛らしい動物や、意思を持たない無生物が
    「吾輩」という大げさな言葉で自称しているところが可笑しみを増しているようにも感じられます。
    そんなところも、「吾輩は○○である」タイトルがいまだに生み出され続けている理由なのかもしれません。

    テーマ:漱石について    2022年12月22日
  • 漱石の硯

    令和4(2022)年10月16日付日本経済新聞の文化欄に、
    詩人の高橋順子さんによる「漱石の硯」という記事が掲載されました。
    高橋さんの叔母である石津信子さんが、
    夏目漱石の長男・純一氏宅に家政婦として勤めていた際に譲り受けた、
    漱石の遺品の硯についての文章です。
    叔母の信子さんの思い出話とともに硯の来歴が詳しく語られており、
    現在は漱石山房記念館に収蔵されていることも紹介されていました。

    この新聞記事をお読みになった方から、
    漱石山房記念館にお問合せを多くいただいています。
    当館には漱石の書斎の再現展示室があり、
    文房具をはじめとした漱石の身の回りの品が再現されています。
    「再現展示」ですので、書斎内の展示品は全てレプリカで、
    硯もありますが、これは今回の新聞記事で紹介されたものではありません。

    今回の新聞記事で紹介された硯は、
    昭和20(1945)年5月、山の手空襲により漱石山房が焼失した後、
    焼け跡から出土したものの1つです。
    添書の内容から「蓮の花の上に蛙が乗っていた」意匠が施されていたようですが、
    戦災による欠損のため、現在は確認できない状態です。

    漱石の硯の写真

    写真をご覧いただくと、確かに硯の縁に蓮の茎のような部分があり、
    先の方が折れて欠損しているような様子が見られます。
    この欠損した部分に蓮の花と蛙がついていたのでしょうか。

    漱石の硯の写真

    この硯は常設での展示は行っておりませんが、
    令和4(2022)年12月1日(木)~令和5(2023)年4月9日(日)に開催の
    《通常展》テーマ展示 ああ漱石山房 で展示する予定です。
    ご興味を持たれた方はぜひこの機会に、実物をご覧いただければと思います。

    テーマ:漱石について    2022年11月22日
  • テーマ展示「夏目漱石「草枕」の世界へ」のみどころ

    「草枕」に登場する英国作家、ジョージ・メレディス

    「草枕」の中には、詩や小説など、いくつかの英国文学が引用されています。
    そのなかでジョージ・メレディス(1928~1909年)は、
    漱石が影響を受けた作家のひとりです。
    メレディスの作品としては、「ビーチャムの生涯」、
    「シャグパットの毛剃り」が「草枕」中で引用されています。
    展示している『漱石文学瑣談』(大正6〈1917〉年7月15日)にある
    「ジョオジ・メレデイス」は、明治42(1909)年にメレディスが亡くなったことを受け、
    同年5月21日、22日に「国民文学」(『国民新聞』紙上)に掲載された、
    漱石と門下生の野上臼川(豊一郎)とのメレディスに関する対談「メレディスの訃」を
    まとめたものと思われます。

    展示中の『漱石文学瑣談』

    その中で漱石は、メレディスの「シャグパットの毛剃り」を高く評価しており、
    「よくあんなに盛んな想像力が続かれるものだと思ふ」と記しています。
    東北大学附属図書館に所蔵されている漱石の旧蔵書の中にあるメレディスの作品は、
    メレディスの全集(The Works of George Meredith)の他3点確認できます
    (東北大学附属図書館『漱石文庫目録』1971年)。
    また蔵書への書き込みは、『定本漱石全集』第27巻によれば
    10点確認できます。中でも「草枕」第9章に引用されている「ビーチャムの生涯」の末尾部分には、
    「カヽル結末は容易になし。余音(韻)と云ふは此事なり」と記し、
    作品の結末について感嘆する書き込みが記されています。
    漱石は野上臼川との対談でメレディスの作品は
    「大抵皆読んだ。そうして大へんエライと思ってる」としています。
    蔵書への書き込みから推測すると、
    漱石はメレディスの全集を読んだのではないでしょうか。
    現在、メレディスの作品は、代表作として知られる『エゴイスト』の他、
    『リチァード・フェヴェレルの試練 父と息子の物語』、
    「シャグパットの毛剃」(『ゴシック名訳集成2 暴夜幻想譚』)、
    「喜劇論」など数点が翻訳されていますが、多くの作品は翻訳されていません。
    漱石が影響を受けたメレディスの作品がどの様なものであったのか、
    「草枕」に引用されている以外の作品についても興味が尽きません。
    (漱石山房記念館前館長 鈴木靖)

    テーマ:漱石について    2022年09月01日
  • 万年筆という選択

    約四半世紀前になりますが、入社時に支給された文房具の中に
    電卓と並んで事務用万年筆がありました。
    当時は殆どの書類を手書きまたはワープロで作成していたからです。
    文書や年賀状もパソコンで手軽に作成できるようになった今では、
    手書きの機会が大幅に減ったという方も多いのではないでしょうか。
    私自身、手書きのものは書き手の存在を
    身近に感じられるような気がしています。
    そのため数年前に「手書きの機会を増やしてみよう」と思い立ち、
    万年筆を購入しようと考えました。
    万年筆を選択した理由は、持ち主の書き癖により書き味が変化するため
    「育てるもの」と言われていることから、
    使えば使うほど書きやすくなって、
    無くてはならない一本になってくれればと期待したからです。
    そこでインターネットで万年筆を調べたところ、
    その種類(需用?)の多さに驚きました。
    デザインだけでなく、素材や文字幅の種類など多岐に渡り、
    最初はどれを選べばいいのか全く見当がつきませんでした。
    同様に驚いたのがインクの種類の多さです。選ぶ楽しみが増えると思う一方で、
    このままでは絞り切れずに幾つも買ってしまうのではないかとの不安を覚えました。
    その不安は的中し、現在は複数の万年筆とインクが手元にあります。

    漱石山房再現展示室より

    漱石は「余と万年筆」(『定本 漱石全集 第十二巻』岩波書店、2017年)の中で
    「余の如く機械的の便利には夫程重きを置く必要のない原稿ばかり書いてゐるものですら、
    又買ひ損なつたか、使ひ損なつたため、万年筆には多少手古擦(てこず)つてゐるものですら、
    愈(いよいよ)万年筆を全廃するとなると此位の不便を感ずる所をもつて見ると、其他の人が
    価の如何(いかん)に拘(かか)はらず、毛筆を棄てペンを棄てゝ此方に向ふのは向ふ必要があるからで
    財力のある貴公子や道楽息子の玩具に都合のいゝ贅沢品だから売れるのではあるまい。」
    と万年筆の実用性を認めています。

    また「酒呑が酒を解する如く、筆を執る人が万年筆を解しなければ
    済まない時期が来るのはもう遠い事ではなからうと思ふ。
    ペリカン丈の経験で万年筆は駄目だといふ僕が
    人から笑はれるのも間もない事とすれば、
    僕も笑はれない為に、少しは外の万年筆も試してみる必要があるだらう。」
    とも書いています。
    手書きの機会が減った今、
    その貴重な時間をより良く楽しむためのアイテムとして、
    万年筆を選択してみては如何でしょうか。

    テーマ:漱石について    2022年08月24日
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