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  • 《特別展》「永遠の弟子 森田草平」見どころ紹介

    現在開催中の《特別展》「永遠の弟子 森田草平」の見どころをご紹介します。
    展示の詳細はこちらをクリック
    夏目漱石の門下生の一人、森田草平(本名米松)は、今年で生誕140年を迎えました。
    草平の作品の中に「自叙小伝」(『明治大正文学全集』第29巻、春陽堂、昭和2年)
    というものがあります。
    草平の半生が彼自身の言葉で簡潔にまとめられ、資料的にも貴重なことから、
    文章の抜粋を展示パネルに多用しました。
    このため前半は草平の「一人語り展示」の趣きを持たせました。

    展示風景

    第1章「文学者としてのスタート」
    草平は、早くから文学を志しましたが、東京帝国大学英文学科に入学した明治36(1903)年、
    たまたま選んだ本郷区丸山福山町(現文京区西片町)の下宿が、
    樋口一葉が「たけくらべ」を執筆した場所であることを知り、
    文学者としての未来が保証されたかのように有頂天になります。
    図録に掲載することは出来ませんでしたが、会場で展示している「森田草平関係地図」で、
    草平の住居変遷などを確認してください。
    第2章「永遠の師との出会い」
    明治38(1905)年暮れ、草平は、自ら執筆した短篇「病葉(わくらば)」の批評を請うため、
    千駄木の漱石邸を訪問します。
    漱石から12月31日付けで長文の適切な批評をもらい感激した草平は、
    以後漱石の弟子となることを決意し、漱石の下に出入りします。
    明治40(1907)年7月、漱石から新たな筆名「草平」を命名してもらいます。
    展示ではこの筆名の由来となった漢詩七字を記した漱石の葉書(寄託資料)を展示しています。
    草平の短篇「病葉」は、漱石が批評した初出の『芸苑』創刊号(明治39年1月)
    (日本近代文学館蔵)を展示し、図録にも全文掲載しました。
    なお、漱石の書簡などは長文のため釈文が長くなってしまうので、
    会場では釈文プリントを配布しています。
    第3章「煤煙事件の余波」
    明治41(1908)年3月、閨秀文学会の講師だった草平は、
    聴講生だった平塚明(はる。のちのらいてう)と駆け落ち事件を起こします。
    草平の代表作となる「煤煙」は、この心中未遂の顛末を小説にしたもので、
    漱石の奨めによったものでした。
    展示では、事件を報道した『東京朝日新聞』や新聞連載時の「煤煙」の切り抜き、
    単行本となった『煤煙』全4巻の初版本、
    漱石から草平への書簡及び小宮豊隆への草平の葉書(みやこ町歴史民俗博物館蔵)
    などを展示しています。
    なお、草平は『輪廻』などの長編小説の他、
    鈴木三重吉主宰の『赤い鳥』に掲載した「鼠の御葬らひ」などの児童文学、
    そしてイプセンなどの数多くの外国文学の翻訳、
    更に『豊臣秀吉』などの歴史小説も発表しています。
    ここではそれらの未発表原稿も含め、草平作品の一部を展示しています。
    第4章「漱石山房の森田草平」
    草平は、漱石作品の研究の他、漱石の伝記や漱石に関する随筆も多く発表しています。
    著書の『夏目漱石』『続夏目漱石』(以上、甲鳥書林、昭和17・18年)は、
    同門の小宮豊隆による『夏目漱石』(岩波書店、昭和13年)とは
    好対照な内容として評価があります。
    また、本コーナーでは、門下生たちによる草平を追憶した資料を展示紹介しています。
    同門の内田百閒による「実説艸平記」(昭和25年)には
    「いつでも金縁眼鏡を掛けてゐて、銀縁の私にお説教する。
    銀縁はおよしなさい。見つともないだけでなく、
    外した後に黒い形がついたり、さはりが悪い。
    眼鏡は金縁に限つたものですよ。
    体裁ばかりでなく、鼻や耳にあたる工合が柔らかくて、
    矢つ張り金と云うものはいいですなあ。」

    とある草平愛用の金縁の丸眼鏡を、草平の生まれ故郷岐阜市の森田草平記念館からお借りし、
    展示しています。
    第5章「朝日文藝欄」
    漱石が主宰で、草平が編集を担当した朝日新聞の文芸欄について紹介しています。
    朝日文芸欄は、漱石・草平を始め漱石の門下生による文芸批評を中心に多種多彩な文芸記事を掲載しました。
    しかし、漱石と草平、編集を補助した小宮豊隆らの考えに距離が生じたこともあり、
    草平の「自叙伝」をきっかけとして1年11ヶ月で廃止となりました。
    中止するに至った心情を吐露した漱石の小宮宛の書簡(みやこ町歴史民俗博物館蔵)などを展示しています。

    展示は11月9日(火)から一部展示替えを行い、
    会場では担当学芸員による「オンラインギャラリートーク」の動画(約20分)を上映しています。
    草平は、晩年に至るまで、漱石の弟子であることを宣言し、
    「私は、いわゆる門下生の中でも一番よく先生を知っていたとは言われない。
    一番多く先生から可愛がられたとは、なおさら言われない。
    が、一番深く先生に迷惑をかけたことだけは確かである。
    迷惑をかけたということは一向自慢にはならない。
    ただ、そういう自覚を持った時、私は一番先生に接近するような気がする。」
    (「先生と私」)と述べています。
    漱石「永遠の弟子」を自称した作家・森田草平に迫った展示会です。
    どうぞご来館下さい。

    テーマ:漱石について    2021年11月05日
  • 漱石とお菓子

    涼やかな気候となり秋を迎えつつありますね。
    秋はスポーツの秋、読書の秋、芸術の秋など、いろいろな「~の秋」と呼ばれています。
    今回は食欲の秋に着目して、漱石とお菓子についてご紹介します。

    本記事でご紹介するお菓子が登場する漱石の作品
    (右から岩波文庫『吾輩は猫である』
    『草枕』『虞美人草』『思い出す事など 他七篇』岩波書店。
    当館ミュージアムショップにて販売中)

    漱石は医者に止められるほど大の甘党で、作品には随所にお菓子が登場します。
    東京朝日新聞の連載終了から今年110年を迎えた「思ひ出す事など」からお菓子の記述を探してみると、
    干菓子について触れていました。
    漱石はこのころ、胃を悪くし療養生活を送っていました。
    病室に生けてあったコスモスを眺めて漱石はこう綴っています。

    「桂川(かつらがわ)の岸伝いに行くといくらでも咲いているというコスモスも
    時々病室を照らした。コスモスは凡(すべ)ての中(うち)で最も単簡(たんかん)で
    かつ長く持った。余はその薄くて規則正しい花片(はなびら)と、空(くう)に浮んだように
    超然と取り合わぬ咲き具合とを見て、コスモスは干菓子(ひがし)に似ていると評した。」
    (「思ひ出す事など」より)

    当時病身だった漱石は、部屋に生けてあったコスモスから
    お菓子を連想してしまうほど甘いものを欲していたのでしょう。

    そのほかにお菓子の記述を探してみると、
    漱石は「草枕」の主人公の口を借りて羊羹(ようかん)の魅力についてたっぷりと語らせています。

    「あの肌合(はだあい)が滑(なめ)らかに、緻密(ちみつ)に、
    しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。
    ことに青味を帯びた煉(ねり)上(あ)げ方は、玉(ぎょく)と蠟石(ろうせき)の雑種の様で、
    甚だ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、
    青磁のなかから今生れたようにつやつやして、思わず手を出して撫(な)でて見たくなる。
    西洋の菓子で、これ程快感を与えるものは一つもない。
    クリームの色はちょっと柔かだが、少し重苦しい。
    ジェリは、一目(いちもく)宝石の様に見えるが、ぶるぶる顫(ふる)えて、
    羊羹程の重みがない。
    白砂糖と牛乳で五重の塔を作るに至つては、
    言語道断の沙汰(さた)である。」
    (「草枕」より)

    最後にでてくる「白砂糖と牛乳で五重の塔」とは
    デコレーションケーキのことです。なんともユーモア溢れる表現です。
    「草枕」の主人公は画工という設定上、
    優れた観察力があるということを強調するためにあえて事細かに書いた文章かもしれませんが、
    それにしても羊羹の色合いの深さや形態を的確に捉えており、
    漱石の羊羹に対する思い入れの深さが伝わります。
    羊羹は「草枕」以外にも「吾輩は猫である」や「虞美人草」などにも登場するので、
    お好きだったのでしょう。

    今回ご紹介したお菓子以外にも、漱石作品には多くのお菓子が登場します。
    漱石が描くお菓子に着目しながら作品を読んでみるのも一興ではないでしょうか。

    ※引用文の表記は岩波文庫『思い出す事など 他七篇』(1986年)、
    岩波文庫『草枕』(1929年初版、1990年改版)に従いました。

    テーマ:漱石について    2021年10月05日
  • 漱石と印税

    今回は漱石と印税についてお話しさせていただきます。
    まず、漱石が日本で初めて「印税」を定着させた作家ということを
    ご存じでしょうか?
    漱石以前の作家は本を出版しても原稿料のみで、
    いくら増刷されても追加収入はありませんでした。
    雑誌『ホトトギス』に掲載された
    「吾輩は猫である」で人気作家の仲間入りをした漱石でも、
    原稿料は原稿1枚50銭と
    作家だけで食べていくことは難しい時代でした。
    そこで漱石は英国留学の経験から、
    初版一割五分、二版以降二割、六版以降三割(後に四版以降三割、初版は一千部)
    の印税契約を出版社と取り交わし、
    日本における「印税」の普及に貢献しました。

    松岡譲著『漱石の印税帖』(文春文庫、2017年)

    それでは、漱石の生前の印税収入はどれくらいだったのでしょうか?
    漱石の娘婿・松岡譲著「漱石の印税帖」(『文春文庫
    漱石の印税帖―娘婿がみた素顔の文豪』文藝春秋、2017年)には、
    「全部引っくるめて二万五千円から二万七千円程度の
    ものではなかったかと想像出来る。」
    「法外な高率と言われた印税をもってしても、
    年に平均すると二千円前後」
    とあります。
    東京帝国大学講師を辞めて朝日新聞入社後は
    月二百円+賞与で年三千円あまりの給与所得がありましたので、
    意外にも平均すると印税よりも給与の方が高かったようです。

    テーマ:漱石について    2021年08月10日
  • 「夏目家の人びと、漱石の家族」見どころ紹介

    令和3年10月3日(日)まで開催の
    《通常展》テーマ展示「夏目家の人びと、漱石の家族」の見どころを紹介します。

    展示の詳細はこちらをクリック
    皆さんは、漱石の子ども時代をご存じですか。
    また、夫や父親としての漱石について、どのような印象をお持ちですか。
    本展示は、「第一章:僕の昔」、「第二章:妻君(さいくん)」、
    「第三章:小供(こども)たち」の三章立てで、家族の視点から漱石を読み解いていきます。

    漱石は生まれてすぐに里子に出され、その後養子に出されて、
    養父母の不仲により生家に連れ戻されます。
    一時は実の父母を祖父母と言われて育ち、
    夏目姓への復籍には生家と養父の間で行われた金銭のやり取りに立ち会うなど、
    「家庭の幸福」とは縁遠い少年時代を過ごしています。
    自伝的小説の『道草』で、成人した主人公・健三のもとに、
    金銭目的で養父の島田が近づく場面などは、実体験に基づくものでした。
    漱石の子供時代は、
    明治40(1907)年に雑誌『趣味』に掲載された「僕の昔」という題名の談話や、
    大正4(1915)年の随筆『硝子戸の中』に記されています。
    「第一章:僕の昔」では、漱石の復籍や離縁に関わる文書の複製と、
    当館所蔵の『道草』直筆草稿を展示するほか、
    実母や一番上の兄など、漱石が愛した家族にも注目して、
    関係資料を展示しています。
    また、複雑な家系図も写真入りのパネルで展示していますので、ぜひ会場でご覧ください。

    夏目漱石『道草』草稿

    続いて、妻を扱った、第二章ですが、
    こちらのタイトルは同じ読みの「細君」ではなく、漱石が書簡で用いた「妻君」を採用しました。
    明治29(1896)年に結婚した、10歳年下の妻の鏡子は、
    『吾輩ハ猫デアル』の苦沙弥先生の妻のように自分の意見をはっきりと主張する女性で、
    しばしば夫妻は言い合いました。
    また、裕福な家庭に育った鏡子と漱石の間には軋轢が生じて、
    漱石が不信感を表すこともありました。
    鏡子は、漱石の神経衰弱の被害にあいましたが、
    それが病気によるものとわかると受け入れ、最後まで漱石の創作活動を支えました。
    このコーナーには英国留学中の漱石が妻に送った書簡を展示しています。
    留学中の漱石は寂しさからか、妻に手紙を寄越すよう何度も催促しました。
    しかし幼子を抱えて、加えて筆不精でもあった鏡子は、
    なかなか手紙を書こうとしません。
    何か書くことを、と探した鏡子が思いついたのは、
    2歳の娘・筆子の一日の行動を書いた「筆の日記」でした。
    漱石からの書簡には、筆の日記が面白かったのでまた送ってほしいと書かれています。
    妻の手紙を心待ちにする漱石の様子がうかがえます。

    夏目金之助 夏目鏡子宛書簡 
    明治35(1902)年3月10日付

    続いて、子どもたちを扱った第三章ですが、
    こちらのタイトルも「こども」の表記に関して、
    漱石が日記や書簡で用いた「小供」を採用しました。
    長女や長男、次男が後に記した文章には、
    漱石は急に怒り出す怖い父親として記されています。
    しかし、病気でないときの漱石は、子どもたちと相撲をとったり、
    一緒に散歩に出かけ、好きなものを買い与えるやさしい父親でした。
    このコーナーには、漱石が娘たちに宛てた葉書を展示しています。
    それぞれの年齢にあわせて絵葉書の絵柄を選んでいるところに、
    父親の愛情が感じられます。

    夏目父 夏目筆子宛葉書 
    大正元(1912)年8月10日付

    会場の最後には、漱石が家族や知人に宛てた書簡と漱石の日記から、
    家族に関する事項を抽出した年表を展示しています。


    実はこの3倍以上の分量があったのですが、
    残念ながら会場の都合により重要事項を選んでいます。
    こちらをお読みいただくと、漱石が妻や子どもたちをどう思っていたのかがわかります。
    おいしい頂き物をすると必ず子供たちに食べさせていることも、
    ほほえましいです。
    会場ではぜひ、この年表にも注目してください。
    今回の展示を通じて、漱石は育った家庭では得られなかった「家庭の幸福」を、
    自身で築いた子沢山のにぎやかな家庭によって、
    得られたのではないかと感じています。
    文豪漱石の家族の一員としての顔に触れることのできる展示です。
    皆様のご来場をお待ちしております。

    テーマ:漱石について    2021年07月19日
  • 吾輩は犬派である-野村胡堂の証言-

    夏目漱石と言えば、何と言っても猫ですが、実は犬の方が好きだったというのは、
    銭形平次で有名な作家・野村胡堂(1882-1963)の証言です。
    このことは、昭和34(1959)年に刊行された
    『胡堂百話』(角川書店)に載っているものです。

    私が、はじめて夏目漱石氏の書斎を訪ねた時、漱石邸には猫はいなかった。(中略)
    「どうも、すっかり有名になっちまいましてね。
    (中略)私は、実は、好きじゃあないのです。
    世間では、よっぽど猫好きのように思っているが、犬の方が、ずっと、好きです」(中略)
    私は、はっきりと、この耳で聞いた。

    野村胡堂、本名野村長一(おさかず)は、岩手県紫波郡彦部町出身で、
    東京帝国大学法科大学を退学後、報知新聞記者となり、
    昭和6(1931)年より銭形平次を主人公とする
    数多くの長短篇を発表した時代小説家です。
    『胡堂百話』は、胡堂77歳のときの書き下ろしのエッセイ集ですが、
    胡堂の記憶は本当なのでしょうか。
    実は、胡堂が漱石邸を訪問したときの模様が、
    『報知新聞(夕刊)』大正4(1915)年8月25・26日号の連載コラム「楯の半面」に、
    「夏目漱石氏 猫の話絵の話」として掲載されています。
    当時、漱石は朝日新聞に「道草」を連載中。
    胡堂は33歳の報知新聞記者としての取材でした。

    気爽(きさく)に、
    「何でも問ふて下されば、お話しませう」と之には一寸困つた
    「お好なものは、時々お書きになる物にも出て来るやうですが、例へば猫とか文鳥とか……」と云へば
    「イヤ猫は飛んだ有名なものになりましたが、好きではありませんよ」と笑はれる。
    尤も決してお嫌ではないが、何方(どちら)かと云へば先生は犬がお好き、
    猫は夫人の方がお好なのだと云ふ、
    「アノ猫から三代目のがツイ此間まで居りました」と語る、
    遺憾ながら「吾輩の猫」の令孫にお目にかゝる事は出来なかつた。

    この記事は、無署名原稿だったため、これまであまり注目されてきませんでしたが、
    先の『胡堂百話』と内容がほとんど同じで、
    間違いなく胡堂が書いた記事であることがわかります。
    漱石の生存中に書かれた新聞記事として大変貴重なものです。
    なお、荒正人氏の『漱石研究年表』では、記者名を特定していませんが、
    8月16日(月)から18日(水)までの取材と推定しています。
    この前年10月31日には、漱石自ら命名した犬のヘクトーが死んでいます。
    「硝子戸の中」には、初めてもらわれてきた夜のこと、
    ジステンパーにかかって入院させたときのこと、犬の遊び仲間のことなどが、
    漱石のやさしい筆致で書かれています。
    3代目の猫も「硝子戸の中」に登場し、
    皮膚病から回復した真っ黒な猫でしたが、
    胡堂の取材までに亡くなったことがわかります。
    普通、鏡子夫人は猫嫌いだったとされ、本人の証言もありますが、
    漱石の目からは、自分よりは猫好きに見えたのかもしれません。
    胡堂による漱石への取材は、この後、絵画の話などに発展し、
    5分の取材予定が、1時間以上になり、胡堂は恐縮しながら辞去したと書いています。
    50年後、胡堂はこのときのことを思い返したのでしょう。

    「私は、ひょっとしたはずみで、猫の孫にも逢わず、漱石門下にも加わらなかったが、
    あの風格は、忘れ難いものがある。」

    胡堂が感じた強烈な印象と貴重な証言。夏目漱石は、犬派でした。
    (漱石山房記念館学芸員 今野慶信)

    写真1:
    熊本での漱石夫妻と愛犬 明治31(1898)年

    写真2:
    ヘクトー墓標

    漱石の俳句「我犬の為に 秋風の聞こえぬ下に埋めてやりぬ」
    が見える。松岡譲『ああ漱石山房』より。

    テーマ:漱石について    2021年06月13日
  • 「松岡譲の漱石研究-岳父への想い-」見どころ紹介

    令和3年6月27日(日)まで開催の
    《通常展》テーマ展示「松岡譲の漱石研究-岳父への想い-」の見どころを紹介します。

    展示の詳細はこちらをクリック
    今回ご紹介するのは、松岡譲筆録・夏目鏡子述の単行本『漱石の思ひ出』です。

    夏目鏡子述、松岡譲筆録『漱石の思ひ出』改造社、昭和3年

    夏目鏡子述、松岡譲筆録『漱石の思ひ出』
    改造社、昭和3年

    漱石没後、鏡子未亡人が語る家庭における漱石の姿を松岡譲が筆録したものです。
    ご覧になったことがあるかたも多くいらっしゃるのではないでしょうか。
    鏡子未亡人の率直な語り口で綴られた本作は、
    漱石の実像が分かる資料として今も高い評価を受けています。
    松岡本人も、本書の刊行を
    「義母に対して最高の孝行をしたと信じて疑わない」
    (昭和43年9月26日付松岡譲個人宛書簡、2階資料展示室にて展示中)
    と後年回想しており、
    自信をもって出版したことが伺えます。
    本書は、雑誌『改造』に13か月にわたって連載された後、
    加筆・訂正され昭和3(1928)年に出版されました。
    その後、岩波書店、菊桜書院などからも出版されています。
    本の構成は、松岡の意図により出版社ごとに異なっています。
    岩波書店から昭和4年に刊行された際は、改造社版にはない、
    松岡の手により編まれた漱石の年譜が付け加えられています。

    夏目鏡子述、松岡譲筆録『漱石の思ひ出』岩波書店、昭和4年

    夏目鏡子述、松岡譲筆録『漱石の思ひ出』
    岩波書店、昭和4年

    夏目鏡子述、松岡譲筆録『漱石の思ひ出』桜菊書院、昭和23年

    夏目鏡子述、松岡譲筆録『漱石の思ひ出』
    桜菊書院、昭和23年

    当館の図書室では、展示室に展示している本と同様の、
    昭和3年に改造社から刊行された『漱石の思ひ出』と
    昭和4年に岩波書店から刊行された『漱石の思ひ出』を配架しております。
    ご興味ある方は、当館が開館しましたら読み比べのためにぜひご来館ください。
    お待ちしております。
    ※緊急事態宣言の発出を受け、
    漱石山房記念館は4月25日(日)から5月31日(月)までの間、臨時休館します。

    テーマ:漱石について    2021年04月30日
  • 12月9日は漱石忌です

    明日12月9日は漱石忌です。
    夏目漱石は大正5(1916)年12月9日に、
    現在は新宿区立漱石山房記念館が建つ、
    ここ早稲田南町の家で49歳で亡くなりました。
    今年(2020年)は没後104年になります。

    当館では昨年に続いて、漱石のお墓がある
    雑司ケ谷霊園の文学さんぽを予定していましたが、
    新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、
    残念ながら今年はイベントの開催を見送り、
    お墓掃除をしてまいりました。

    漱石のお墓

    漱石山房記念館から雑司ケ谷霊園へは、
    「牛込保健センター前」バス停から都バス白61系統「練馬車庫行」に乗り、
    「鬼子母神前」バス停で下車する行き方が便利です。
    詳細は漱石山房記念館の受付でもご案内いたしますので、
    ご来館の際にお問合せください。

    テーマ:漱石について    2020年12月08日
  • 夏目漱石と書

    令和3年1月17日(日)まで開催中の
    《通常展》テーマ展示「所蔵資料展 漱石の書と書簡」のみどころを紹介します。
    展示の詳細はこちらをクリック

    漱石の書と書簡展示風景

    小説によって、西欧流の近代個人主義の確立を目指した夏目漱石は、
    一方では漢詩文を中心とした江戸時代以来の東洋的教養を学んだ人物です。
    明治の文化は、和漢洋の統一を目指しましたが、
    ヨーロッパに見本がない書の世界は、羅針盤を失った、
    いささか不安定な芸術ジャンルとなっていました。
    芸術一般に対して、一家言を持った漱石が晩年好んだ書は、
    江戸時代の僧の良寛や明月などで、言わば書家のものではない書です。
    漱石自身も、身の回りには法帖(ほうじょう・手習いの見本)や
    拓本の類は多数所有していましたが、
    それらを本格的に学んだわけではありませんでした。

    漱石の晩年、漱石山房の客間には、
    明月書の「無絃琴」の扁額が掛けられていました。
    明月は松山の僧です。
    「無絃琴」とは、唐の詩人・陶淵明(とうえんめい)が、
    酔うと弦の無い琴を愛で、心の中で演奏を楽しんだという故事に由来します。
    世俗を超越した境地を示したこの言葉は、
    漱石作品には、早く「吾輩は猫である」や「草枕」に登場しています。

    他に書斎には草書の幅がたくさんぶら下がっていました。
    それは手本とした良寛の書であったり、
    書き上がったばかりの自らの書でした。
    漱石は、揮毫する際、毛氈(もうせん)を引き、唐紙を並べて、
    そばで見ている人に墨を磨らせ、筆を運びました。
    筆は長穂の軟毛を愛用しました。
    非常に長い毛の筆も自在に操ったといいます。
    漱石の東大講師時代の教え子・金子健二の証言によれば、
    筆は高級毛筆の産地である中国湖州産のものだったといいます。
    硯と墨についても関心が高かったようです。
    漱石は一画一画に細心の注意を払いながら、ゆっくりと心静かに書きました。

    漱石は、書が出来上がると留針(ピン)で留めて、
    木曜会で集まった門下生たちに披露しました。
    門下生の重鎮・森田草平によると、
    漱石は、褒められると子どものようにほくほく喜び、
    自分の揮毫(きごう)が表装されたものを見ると、
    これまたにこにこして喜んだといいます。
    しかし、その反面、自らはその出来栄えに満足することはあまりなく、
    何枚も何枚も書き、額に汗を浮かべながら、
    長時間にわたって字を書いていました。
    漱石の純粋さとこだわりがよくわかります。

    漱石は言っています。
    「書画だけには多少の自信はある。敢て造詣が深いといふのでは無いが、
    いゝ書画を見た時許りは、自然と頭が下るやうな心持がする。
    人に頼まれて書を書く事もあるが、自己流で、別に手習ひをした事は無い。
    真の恥を書くのである。」(夏目漱石「文士の生活」)

    展示は、「短冊の書」「作品の書」「書簡の書」の3部構成とし、
    館蔵資料のなかから漱石直筆の資料を展示しています。
    参考資料として、門下生他の漱石の書についての証言も集めました。

    ※11月17日(火)より、一部展示替えを行い、後期展示となります。
    後期の展示では、世田谷文学館より漱石の書軸等をお借りして展示します。
    是非、ご覧下さい。

    テーマ:漱石について    2020年11月02日
  • 猫たちのご案内

    夏目漱石作品の中にはがたくさん登場します。

    「吾輩は猫である」には、
    我輩は波斯(ペルシャ)産の猫のごとく黄を含める淡灰色に漆のごとき斑入りの皮膚を有している。

    「硝子戸の中」の中でも、
    ある人が私の家の猫を見て、「これは何代目の猫ですか」と訊いた時、
    私は何気なく「二代目です」と答えたが、あとで考えると、
    二代目はもう通り越して、その実三代目になっていた。
    初代は宿なしであったにかかわらず、ある意味からして、だいぶ有名になったが、
    それに引きかえて、二代目の生涯は、主人にさえ忘れられるくらい、短命だった。(中略)
    その後へ来たのがすなわち真黒な今の猫である。

    そんな様々な猫たちが、漱石山房記念館の展示順路をご案内しています。

    猫の足跡

    再現展示入り口の猫

    猫塚の方を見る猫

    階段を上る猫

    展示をご覧になりながら、この猫たちにも会いに来てください。
    そして、夏目漱石作品の中の猫探しもしてみてはいかがでしょうか。

    テーマ:漱石について    2019年05月29日
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