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  • 特別展「発表120年記念『吾輩ハ猫デアル』」の見どころ

    10月11日より特別展「発表120年記念『吾輩ハ猫デアル』」を開催しています。
    展示の目玉は何と言っても、漱石の直筆原稿「吾輩は猫である」です。



    9章「主人は痘痕面である。…」
    11章「床の間の前に碁盤を中に据ゑて迷亭君と独仙君が対坐して居る。…」
    「吾輩は猫である」の直筆原稿は、全11章のうち、
    9・10・11の3章分が現在その所在が知られています。
    10章は、今年4月の報道で天理大学天理附属天理図書館が入手したことが発表され、
    5~6月と10~11月に天理ギャラリー及び天理参考館で展示されました。
    当館の特別展「発表120年記念『吾輩ハ猫デアル』」では9章と11章の、
    それぞれ冒頭6枚と末尾6枚を、兵庫県芦屋市の虚子記念文学館様よりお借りし、
    会期の前期と後期に分けて展示しています。
     漱石のペン書き原稿は、24行24字詰の松屋製の原稿用紙。
    橋口五葉デザインの漱石オリジナルの漱石山房原稿用紙はまだ存在していません。
    漱石による文字の訂正や挿入、朱字の校正記号も見え、
    発表誌の雑誌『ホトトギス』への入稿原稿であることを示唆しています。
    9章は『ホトトギス』9巻4号(明治39年3月10日発行)、
    11章は『ホトトギス』9巻11号(同年8月1日発行)に掲載されました。
    雑誌の編集に当たっていた高浜虚子が所蔵していたものでしょう。
    自筆資料を底本とする『定本漱石全集』1巻(岩波書店、2016年)は当然この原稿から翻字しています。
    「まるで書生の字」とも評される若々しい漱石のペン字。
    一方、展示では筆で認められた6通の漱石書簡も展示してありますので、
    その違いもじっくり味わって下さい。
    漱石の直筆原稿は、11月10日に展示替えをし、前期に9章を、
    後期(11月11日~12月7日)からは最終章の11章の原稿を展示します。
    「吾輩は死ぬ。死んで此太平を得る。太平は死なゝければ得られぬ。
    南無阿弥陀仏、々々々々々。難有い々々々。」(11章の末尾)
                        (学芸員 今野慶信)

    テーマ:吾輩ブログ    2025年11月10日
  • 中学生の職場体験 商品POP作りに挑戦!

    漱石山房記念館では新宿区内の中学校の
    職場体験学習を受け入れています。
    施設見学から始まり、実際に職員が日々行っている庶務業務のお手伝い、
    図書室の整理や夏目漱石の本を紹介するPOPの作成など、
    さまざまな仕事を体験してもらっています。

    今回は、9月初旬に職場体験を実施した中学生4人による、
    ミュージアムショップの商品POPをご紹介したいと思います。
    中学生の皆さんには、漱石山房で販売している約70種類のオリジナルグッズの中から
    自分がPOPを作りたいと思う商品を選ぶところから始めてもらいました。
    選ばれたのは、
    ・オリジナル鉛筆3本セット
    ・ブックカバー『吾輩は猫である』
    ・漱石山房שYura Kouhi イラストアクリルキーホルダー
    ・オリジナルマスキングテープ
    の4種類でした。
    (奇しくも、どれも今年度から新発売の商品ばかり……!
     ミュージアムグッズ担当もほくそ笑んでおります)

    ▼実際のPOP掲示の様子

    作ったPOPをそれぞれミュージアムショップに設置してもらった後は、
    「ミュージアムグッズの企画書を書こう!」というワークにも挑戦してもらいました。
    どういう商品が魅力的だと感じるのか、自分が感じている魅力を他の人に伝えるにはどうしたら良いか……。
    商品POP作成に取り組んだ後だからこそ、
    より多角的な視野で企画書を書くことができたかと思います。
    私たち職員一同も、生徒たちに書いてもらった商品POPや企画書を回覧し、
    その仕上がりのクオリティや着想の斬新さに感嘆しています。

    皆さまも漱石山房記念館へご来館の折には是非ミュージアムショップにお立ち寄りいただき、
    中学生が作成した商品POPをご覧になってください。
    思わず手に取ってみたくなること間違いなしです!

    テーマ:吾輩ブログ    2025年09月25日
  • 漱石作品販売冊数ランキング~漱石山房記念館ミュージアムショップ調べ~

    燃えるような暑い日が続いています。
    連日の炎天下を逃れ、涼しい室内で漱石作品を手に取ってみよう…と
    お考えの方もいらっしゃるのではないでしょうか。

    さて、漱石山房記念館のミュージアムショップでは、
    当館オリジナルグッズだけでなく、漱石の著作の販売も行っています。
    当館ミュージアムショップにおける、開館から現在までの
    漱石作品の販売冊数ランキングを作成してみました。
    夏目漱石を代表する『吾輩は猫である』が圧倒的なのか、
    国語の教科書で馴染み深いの『こころ』か、はたまた『坊っちゃん』『三四郎』か……。
    みなさんの予想はいかがでしょうか?
    1~10位を発表します!

    第1位は『硝子戸の中』でした!
    表の中で青い印を付けている箇所は、
    該当タイトルをピックアップした展示会を行っています。
    「《通常展》テーマ展示 『硝子戸の中』と漱石のみた東京」が開催された令和5年度には、
    展示をきっかけに『硝子戸の中』を購入されたお客様が特に多いことが分かります。
    また、『吾輩は猫である』が563頁、『こころ』が300頁に対し、
    『硝子戸の中』は138頁と、手に取りやすい厚さであることも理由の一つでしょうか。
    (頁数参考:岩波文庫)

    現在開催中の「《通常展》テーマ展示 そうせきとどうぶつたち」が終了すると、
    10月11日(土)より「《特別展》発表120年 『吾輩ハ猫デアル』」がはじまります。
    もしかすると、今年度中に『吾輩は猫である』がトップに躍り出るかもしれません。
    どうぞ、ご来館の折には当館のミュージアムショップにも立ち寄ってみてください。

    テーマ:吾輩ブログ    2025年08月13日
  • 吾輩は新人である。学芸員ではまだない。(?) バルーンフォトスポット編

    4月から漱石山房記念館に着任しました新人職員です。

    まだまだひよこではありますが、初めての吾輩ブログ、

    お付き合いいただけますと幸いです。

     

    さて、序盤の序盤、タイトルから嘘をついてしまいました。

    学芸員資格は学生時代に取得しました。

    が、まだまだ学芸員としては半人前ともいかない0.01人前…

    伸びしろしかありません、ご期待ください。

     

    と、いうことで。初めての吾輩ブログのテーマは、

    現在漱石山房記念館に登場中のバルーンフォトスポットと夏目漱石についてです。

     

    まずはお写真、こんな感じです。

     

    現在開催中の企画展示「そうせきとどうぶつたち」に合わせたバルーンを
    7月20日から設置しています。

     

    登場しているどうぶつたちは以下のとおり:

    ネコ、イヌ、サカナ、ウマ、ウシ、サル、トリ

     

    すこぶる華やかなバルーンどうぶつ達ですが、漱石山房に登場したのには意味があります。

     

    ・ネコ

    夏目漱石といえば猫!と思われる方も多いのではないでしょうか。

    象徴的な黒猫が、中央で皆さまをお待ちしています。

    ・イヌ

    実はこの漱石山房でもヘクトーという犬が飼われていました。

    漱石も愛した犬のバルーンも待て!をしています。

    ・サカナ

    漱石作品の装丁で多用されていた魚、バルーンとして登場しました。

    『硝子戸の中』のなかにも登場しています。

     

    その他のどうぶつ達も以下の表のとおり、作品に登場しています。

    実物のバルーンと表を見比べて探してみてください!

     

    7月17日から《通常展》テーマ展示「そうせきとどうぶつたち」が始まっています。

    初版本の装丁に隠れているどうぶつたちや、漱石自身とどうぶつたちの関係についても迫っています。

     

    夏も盛りで、毎日疲弊する暑さです。

    みなさまご自愛ください。

     

    漱石山房記念館にてお待ちしております🎐

    テーマ:吾輩ブログ    2025年08月11日
  • 「豊隆」の読みはトヨタカ?ホウリュウ?

    4月に開幕した「外国語になった漱石作品」展も残すところ1か月を切りました。
    タイトルのためか、いつもよりも外国の方が多く来られている印象です。
    今回は、展示のみどころをご紹介します。
    本展示第一章は、「翻訳への想い」と題して、
    漱石が自作の翻訳についての考えを示した手紙や、翻訳者の資料を展示しています。
    その中に、「草枕」や「坊っちゃん」の英訳者・佐々木梅治の資料があります。
    明治6(1873)年生まれの梅治は、東京府開成中学校で長く英語教師を勤めました。
    「草枕」の英訳本、『Kusamakura and Bunchō』(挿絵:平福百穂、岩波書店、1927年)の訳者序文には、
    「私はその翻訳に丁度3年間を費やした。教師の仕事の後の夕方、
    私は机に座って翻訳を再開することを幸せに思った。
    本の翻訳が終盤に差し掛かると、私は人が遠い土地に行く友にさよならを言うときの気持ちのように悲しくなった。
    (中略)言わば、この3年間は私の無上の楽しみだった。」
    (※原文は英語)
    と書いています。
    漱石作品の英訳作業は、梅治にとってかけがえのない時間だったのでしょう。
    この序文の梅治自筆の草稿も展示しています。
    梅治は漱石と同時代の翻訳者ですが、翻訳書は漱石の没後に刊行されています。
    原著者が存命中であれば翻訳者は翻訳上の不明点を作家本人に訊ねることができるでしょう。
    しかし、梅治の場合はそうはいきませんでした。

    今回の展示資料に、漱石の娘婿・松岡譲が梅治に宛てた葉書があります。
    松岡は、梅治の「文鳥」の翻訳を面白く読んだと書き、続けて、
    「文中、豊隆は「トヨタカ」が本当かも知れませんが、
    あの人達の仲間では「ホウリユウ」と音で読み下してゐます。
    其の方が音の響からも、ローマ字に写した目もいゝかと思ひます。」

    と書いています。
    梅治が送った「文鳥」の英訳原稿を読んだ松岡のアドバイスと思われます。
    「文鳥」の初出の人名ルビを確認してみると、大阪朝日新聞では「トヨタカ」、
    単行本『四篇』では「ホウリユウ」でした。
    梅治はどちらの読みを採用したと思いますか?
    答えは『Kusamakura and Bunchō』の中に!
    Hōryuと書いてあります!梅治はホウリュウを採用したのです。
    早稲田の漱石山房での漱石と門下生との関係をよく知る松岡の意見が、
    翻訳に反映されたのです。
    このハガキは佐々木梅治のご遺族から近年当館に寄贈されました。
    展示は7月13日までです。
    ぜひ会場で漱石作品の翻訳者の想いに触れてください。

    テーマ:吾輩ブログ    2025年06月19日
  • 梅雨に咲く花~紫陽花~

    しとしとと降り注ぐ梅雨。
    この時期、私たちの目を楽しませてくれるのが紫陽花(あじさい)です。
    雨に濡れてなお鮮やかに咲くその姿は、梅雨の憂鬱さを忘れさせてくれます。
    漱石山房記念館でもこの時期、たくさんの紫陽花が花を咲かせてくれます。

    漱石公園に咲く紫陽花



    紫陽花の魅力は何といってもその色の多様さ。
    青や紫、ピンク、白など、土壌のpHによって花の色が変わるという性質を持ち、
    まさに「自然が描くグラデーション」。
    一株でも様々な色合いが見られるのが面白いところです。
    紫陽花は日本原産のガクアジサイが母種となって改良された園芸品種で、
    古くは奈良時代の『万葉集』にも登場します。
    「言(こと)問はぬ 木すら味狭藍(あじさい) 諸弟(もろえ)らが
    練(ねり)の村戸(むらと)に あざむかえけり」 大伴家持(おおとものやかもち)
    現代語に訳すると「ものをいわない木でさえ、紫陽花のように移り変わりやすい。
    (ことばをあやつる)諸弟(もろえ)たちの巧みな言葉に、わたしはすっかり騙されてしまった。」
    ここでも移り変わりやすさの象徴として紫陽花が使われています。
    その後、紫陽花が広く親しまれるようになったのは江戸時代以降のこと。
    園芸文化の発展とともに多くの品種が生まれ、
    浮世絵や俳句にも登場するようになりました。
    その後、ヨーロッパに渡り、
    品種改良を経てよりバラエティに富んだ「Hydrangea(ハイドランジア)」として世界に広まったと言われています。
    色を変える紫陽花は、
    「移り気」「無常」といった少し切ない花言葉も持ちますが、
    一方、花期が比較的長く、一生懸命咲き続けているように見えることから
    「辛抱強さ」という花言葉もあるそうです。
    雨の音に包まれながら、紫陽花の静かな美しさに心を預ける。
    そんな梅雨の楽しみ方も、悪くないものです。
    参考文献:金田初代・金田洋一郎『四季別 花屋さんの花カラー図鑑』西東社、1995年
         岩槻秀明『散歩の花図鑑』新星出版社、2012年

    テーマ:吾輩ブログ    2025年06月17日
  • 「吾輩は猫である」の東風君と“榊原健吉”こと剣豪・榊原鍵吉

    漱石の作品には、しばしば実在する人物や食べ物が登場しています。
    たとえば「吾輩は猫である」六で「東風君」が「主人」を訪れてくる場面。
    東風君について語る「吾輩」の言葉の中に、ある歴史上の人物の名前が出てきます。

    「どうも御無沙汰を致しました。暫(しばら)く」とお辞儀をする東風君の頭を見ると、
    先日の如く矢張り奇麗に光つて居る。頭丈で評すると何か緞帳(どんちょう)役者の様にも見えるが、
    白い小倉の袴のゴワゴワするのを御苦労にも鹿爪(しかつめ)らしく穿(は)いて居る所は
    榊原健吉の内弟子としか思へない。
    従つて東風君の身体で普通の人間らしい所は肩から腰迄の間丈である。

    ここで東風君を言い表す言葉として、「緞帳役者」と「榊原健吉の内弟子」の2つが登場します。
    一つ目の「緞帳役者」は、大芝居(歌舞伎)の役者に対して小芝居に出る役者を蔑んだ言い方でした。
    歌舞伎の正式な引き幕を定式幕といい、その使用が許されていた官許三座以外の宮地芝居などでは
    緞帳を使用していたことが由来です。
    「吾輩」はどうやら、東風君のことを揶揄しているようです。
    もう一つの「吾輩」から東風君への評価には「榊原健吉」という人物の名前が使われています。
    これは実在の人物、榊原鍵吉を指していると考えられます。
    東風君が「榊原健吉の内弟子のようだ」と表現されているのは、
    その外見や所作にどこか旧時代的で厳格な雰囲気をまとっていることを猫がからかっているものと考えられます。
    では、この比喩に使った榊原鍵吉とは、一体どのような人物だったのでしょうか。 


    出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像(https://www.ndl.go.jp/portrait/)

    最後の剣客。それが榊原鍵吉を語る際によく用いられる言葉です。
    榊原は天保元(1830)年、江戸の麻布広尾の生まれ。
    漱石より37歳年上、ということになります。
    12歳から直心影流の男谷信友に入門し、19歳で免許皆伝。
    安政3(1856)年に幕府の講武所が開かれた際には、
    男谷の推薦により剣術教授方に登用されています。
    明治政府の世になると、衰退していく剣術を再興させるべく、
    明治6(1873)年に撃剣会を組織しました。
    伝統的な剣術や武術を有料で公開する「撃剣興行」を行い、
    職を失った士族の救済や剣術、武術の存続に奔走しています。


    出典:芳年『〔撃剣会之図〕』,政田屋,明治6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1305821 (参照 2025-05-10)

    亡くなるまで髷を切らなかったという榊原は、
    時代が変わっても武士としての矜持を貫いた人物でした。
    その剣客ぶりを伝えるエピソードの中でも、特に有名なのが天覧兜割りです。
    明治天皇の行幸の際に、弓術、鉢試し、能楽などが催され、鉢割(兜割り)には榊原を含む3名が挑んでいます。
    見事ただ一人兜割りを成功させた榊原の剣豪ぶりと、
    使用した刀・同田貫の切れ味を今に伝える逸話です。
    「吾輩は猫である」に戻ると、重苦しい小倉織の袴をはいた東風君は
    明治の世まで生きた「最後の剣客」の内弟子と例えられているわけです。
    実戦の場がなくなり、
    実践的な役割が失われた剣術が武士のものから一般の人々の目に触れるものへと変わっていく時代に、
    最後まで剣客として生きようとした榊原鍵吉。
    そんな人物の名を、ちょっと毒舌な猫の目と口を借りて登場させたことには、
    何らか漱石自身が感じた時代の移り変わりへの想いがあるのかもしれません。
    なお、榊原鍵吉の墓は、新宿区須賀町の西応寺に今もあります。
    漱石が生まれ、亡くなった早稲田からそこまで遠くありません。
    今年は「吾輩は猫である」発表から120年。
    本を片手に、剣客の眠る地を訪れてみるのはいかがでしょうか。
    (学芸員 朝野)

    テーマ:吾輩ブログ    2025年05月29日
  • 『草枕』の「那美さん」前田卓(つな)の墓

    4月上旬の良く晴れた日、西武バスに乗りました。
    休みの日には、市町村立の地域博物館を見学して回るのが趣味になっています。

    平林寺山門

    搭乗してから、バスが新座市野火止(のびどめ)の古刹・金鳳山平林寺(へいりんじ)を
    通過することを知りました。博物館めぐりのついでに歴史ある神社仏閣を巡ることも小旅行の醍醐味です。
    平林寺は永和元(1375)年、京都天龍寺や鎌倉の円覚寺・建長寺の住持にもなった
    石室善玖(せきしつ・ぜんきゅう)によって岩槻に創建され、寛文3(1663)年川越藩主の松平輝綱によって
    現在地に移転した禅寺です。私事になりますが、学生時代の恩師が平林寺史を編纂しており
    一度は参拝したいと思っていましたので、正に渡りに船でした。
     バス停「平林寺」から少し歩くと、バス通りに面して総門があります。
    入山受付で拝観料をお渡しし、御朱印も頂いて、広い境内に足を踏み入れました。
    平林寺は現在でも臨済宗妙心寺派の修行道場ですので、本堂や僧堂の周囲には立ち入ることは出来ません。
    しかし、境内の大半を占める国指定天然記念物の境内林は、東京ドーム9個分もの雑木林で、
    往時の武蔵野を思わせる大変自然豊かで落ち着いた空間でした。
     入口の大きな「境内案内図」には、武田信玄次女の墓と増田長盛の墓が図示してあります。
    信玄次女は見性院。穴山梅雪の妻で、のちに保科正之を養育したことでも知られます。
    増田長盛は豊臣家の五奉行の一人です。その先には、「智慧伊豆」こと江戸幕府老中の松平信綱と
    その正室を中心とした大河内松平家の墓域や玉川上水の開削に尽力した安松金右衛門の墓もあります。
    見性院と増田長盛の墓にお参りし、大河内松平家の墓地に向かおうと思って、
    改めて墓地の案内板に目をやると、見性院と増田長盛の墓の並びに「前田卓の墓」という記載がありました。

    前田卓・利鎌墓

    そうでした。漱石「草枕」(明治39年・1906)に登場する那美さんのモデルとして知られる前田卓(つな)の墓も
    ここ平林寺にあったのです。このこと自体は知っていましたが、ここに来るまで全く思い出さず、
    危うくお参りしそこねるところでした。墓には詳しい「解説板」もありました
    (入山受付で配布されているパンフレットには「十墓巡礼」としてきちんと紹介されています)。
     前田卓(つな)(1868-1938)は、熊本県玉名郡小天の自由民権家・前田案山子(かがし)の
    次女として生まれました。案山子は熊本における自由民権運動の中心的人物であり、
    明治23(1890)年の第1回衆議院選挙で国会議員になっています。卓はそのような環境で成長し、
    熊本の自由民権家と結婚しますが離婚し、小天村に戻り、案山子の温泉付き別邸だった旅館で暮らしていました。
    熊本五高の教師だった漱石が訪れたのはそうした時のことです。案山子の死去後、明治38(1905)年、卓は上京し、
    この年に結成されたばかりの中国同盟会の機関誌を発行する民報社に住み込みで働き、
    ここに集う革命家や中国人留学生の世話をし、中国革命を支援したことで知られます。
    墓石は正面左に卓の戒名「雪庭院然松慧卓大姉」。その右に「甚快院南泉利鎌居士」という
    男性の戒名があります。これは30歳下の異母弟で、のちに自らの養子にした前田利鎌(とがま)(1898-1931)
    のことです。小天温泉を訪れた漱石に頭を撫でられたこともあったといいます。
    利鎌は東京の小学校に転校後、千駄木の郁文館中学に進みます。
    この頃、早稲田穴八幡宮で漱石と再会しています。卓も一緒だったかもしれません。
    大正4(1915)年、第一高等学校に進学。卓の養子となりました。
    そして、大正5(1916)年4月頃から漱石山房に出入りするようになります。
    漱石逝去の8ヵ月前のことでした。すなわち利鎌は漱石最晩年の弟子であり、
    おそらく最も若い門下生だったと言えます。大正8(1919)年、東京帝国大学文学部哲学科に進学。
    のち東京工業大学教授となり、学生と共に熱心に平林寺に参禅しましたが、32歳の若さで病死。
    代表作に『臨済・荘子』『宗教的人間』があります。東大哲学科の先輩でもある
    漱石長女の夫・松岡譲と交際したことでも知られます。
     二人の墓は刻銘により、利鎌逝去の年の昭和6(1931)年4月11日に卓が建立したものであることがわかります。
    墓石左側面には利鎌の忌日(1月17日)が刻まれていますが、卓の命日は刻まれていません。
    通常は夫婦の墓石となるのでしょうが、二人とも独身のまま亡くなったため、このような形になったのでしょう。 
    晩年の卓は東京市養育院板橋分院に勤め、孤児に慕われつつ、昭和13(1938)年、
    71歳で亡くなりました。二人の評伝は、安住恭子著『『草枕』の那美と辛亥革命』(白水社、2012年)、
    同著『禅と浪漫の哲学者・前田利鎌』(白水社、2021年)に詳しく紹介されています。
                                  (学芸員 今野慶信)

    テーマ:吾輩ブログ    2025年04月26日
  • 漱石公園のサクラが満開です!


    長雨が上がり、朝のすがすがしい空気の中で満開の桜を見ていたら、
    ボアンボアンと枝が一本だけ動いています。
    近づいてよく見たら、
    朝ごはんに夢中のヒヨドリがいました。

    ヒヨドリは「果実」や「昆虫」に加えて、「花の蜜」も食べるそうです。
    漱石の小説では「鵯」と漢字1字で書かれ、「門」や「明暗」に登場します。
    「朝は崖上の家主の庭の方で、鵯が鋭い声を立てた。」(「門」六の一)
    「すぐ崖の傍へ来て急に鳴きだしたらしい鵯も、
    声が聴える丈で姿の見えないのが物足りなかつた。」
    (「明暗」百七十九)
    現代の早稲田は崖や藪が開け、ヒヨドリを見つけることは容易ですが、
    漱石が小説を書いていた100年前は、藪も多く、姿よりも声が印象的な鳥だったのでしょう。
    桜はもう少し見られそうです。
    ぜひお花見にいらしてください。

    テーマ:吾輩ブログ    2025年04月04日
  • 漱石と五葉の出会い

    巡回展「橋口五葉のデザイン世界」が、2025年4月5日より足利市立美術館(栃木県)を皮切りに、
    府中市美術館(東京都)、碧南市藤井達吉現代美術館(愛知県)、久留米市美術館/石橋正二郎記念館(福岡県)と
    12月まで巡回で開催されます。そしてこの巡回展には当館所蔵の資料も展示されます。
    橋口五葉(1881-1921)本名清は、明治大正期を代表する装丁家であり新版画の先駆者です。
    夏目漱石の初の小説『吾輩は猫である』上編の装丁からはじまり、多くの漱石本を手掛けています。
    そんな漱石と五葉が出会ったきっかけは何だったのでしょうか。
    それは橋口五葉の兄、貢が漱石の第五高等学校時代の教え子だったことです。
    貢は東京帝国大学へ進み、漱石はイギリスへ留学したため一時疎遠になっていたようですが、
    帰国後交流が再開し、絵はがきでのやり取りを多く行っています。
    そんなやり取りを行っている中で
    「・・・又或る時、私が廣い砂漠の夕暮の靑色の沖に
    ぼんやりとほの白く駱駝が立つてゐる繪葉書を畫いて送つたところ、
    偶然その夏目先生の御宅に來てをられた高濱虚子氏がそれを見て、
    なかゝゝ旨いと感心し、誰が畫いたのかと尋ねられ、私(貢)が畫いたのだといふと、
    是非ホトゝギスへ口繪を畫いて貰ひたいといふので、私のところへ来られたことがあった。
    實はその時私も突然だつたし、又私は何も繪を専門にやるのでもないしするので、
    どうもそれはといつて辭退し、私の弟の當時美術學校へ通つてゐた五葉を紹介し、
    これは繪を専門にやるものだから、今は未だ無名であるが、
    どうか引き立ててやつて貰ひたいと頼んで、ホトゝギスへは五葉が口繪を畫くことになつたこともある。・・・」

    (橋口貢「夏目先生の畫と書」『漱石全集 月報第11号』(昭和4年)より抜粋)
    とあります。貢が漱石に送った絵はがきがきっかけで、
    高濱虚子が主宰する『ホトトギス』に五葉の挿絵が掲載されることが決まり、
    明治37(1904)年10月10日発行の『ホトトギス』に掲載されました。

    橋口貢宛漱石自筆水彩絵はがき(明治37年10月2日付)


    その前の10月2日の漱石から貢に宛てた絵はがきに
    「昨日はほとゝぎすの挿画御送被下難有存候 早速虚子の所へやり申候御多忙中嘸(さぞ)かし御迷惑の事と存候
    あの画はほとゝぎ(す欠)流の画に候明星流に無之面白く存候・・・・」

    と五葉の描いた口絵が漱石を通して虚子に届けられたことがわかります。
    一般的に兄が上手いからと言って、弟が上手いとは限りません。
    しかし、橋口家の兄弟は、父が書画を好み少年時代より美術に関して
    見ること、談ずること、絵を描くことに熱心であり長けていたようです。
    こののち、五葉は今年発表120年を迎える漱石の小説家デビュー作『吾輩は猫である』
    の装丁から『虞美人草』『草合』『三四郎』『彼岸過迄』などの多くの装丁を手がけました。
    とても美しくこだわり抜かれたデザインです。
    また、漱石のほかにも門下生など日本近代文学を代表する作家の装丁を手がけました。
    五葉は、兄が漱石の教え子であったことから漱石と知り合い、
    雑誌の挿絵を描き、漱石の装丁を手掛けるまでにその芸術性を買われ、
    芸術家として歩みはじめました。
    漱石と五葉の出会いをみると、きっかけというのは不思議な偶然からできていると思いました。
    参考文献:岩切信一郎『橋口五葉の装釘本』沖積舎、1980年 
    (学芸員 嘉山)

    テーマ:吾輩ブログ    2025年03月28日
  • 漱石山房の植栽

    漱石が暮らしていた当時の漱石山房には
    多種多様な植物が見られたそうです。
    サクラやヒノキ、アオギリなどの大木から季節の山野草、
    敷地境の生垣や裏庭の花壇まで、漱石やその家族、
    門下生の残した記録などから20種類以上の植物が確認できます。
    大正5(1916)年6月9日の日記には
    「鳳仙花(ほうせんか)・わすれな草・孔雀草(くじゃくそう)・小桜草(こざくらそう)・
    われもこう・葉鶏頭(はげいとう)・菫(すみれ)・新菊(しんぎく)・おいらん草・
    おしろい草・百合(ゆり)・カンナ・虎の尾・きりん草」とあり、
    色や開花状況なども記されています。
    なかでも玄関脇のバショウと前庭のトクサは、
    漱石山房を象徴する植物で、現在の記念館にも植えられています。
    この寒い時期はバショウもトクサも元気がありませんが、
    きれいな花を咲かせている植栽もいくつか見られます。

    もうすぐ漱石公園の大きなサクラの木が花を咲かせるでしょう。
    寒い日々が続きますが、この時期ならではの漱石山房記念館へ足をお運びください。

    テーマ:吾輩ブログ    2025年03月05日
  • 人間万事漱石の自転車

    新しい年になり、新たな挑戦をされている方も多いのではないでしょうか。
    今回は、漱石が行った新たな挑戦、自転車のエピソードを『自転車日記』からご紹介します。
    漱石の挑戦の舞台はロンドン、渡英中の1902年のことでした。
    下宿先(クラパム・コモン、ザ・チェースのリール家)のお婆さんの「命に従つて」、
    下宿を同じくしていた犬塚武夫を「監督兼教師」として、自転車に乗ることになりました。
    犬塚の女性用がいいという薦めを断り、訪れた自転車屋で漱石が購入したのは老朽した男性用自転車。
    下宿近くの人通りの少ない馬乗場で、「乗つた後の事は思ひやるだけに涙の種」と評した
    不具合だらけの自転車との悪戦苦闘が始まりました。
    いざこぎ出そうとするとひっくり返る漱石の自転車を犬塚は支え、
    押し出しますが、漱石は何度も自転車から落ちてしまいます。
    なかなかうまく乗れないので、漱石と犬塚は坂を一気に自転車で駆け降りることを試みます。
    非常に危険なので真似してはいけませんが、
    犬塚の合図で下り始めた自転車の疾走ぶりはぜひとも『自転車日記』で
    その描写を読んでいただきたいところです。
    こうしてどうにか自転車に乗ることができるようになった漱石。
    自転車自体に問題があったこともあるのでしょうが、曲がりたい方向の反対に進んだり、
    角で急回転して驚いた後ろの人を落車させることもありつつ、
    各所に自転車で出かけたことが記されています。
    タイトルの「人間万事漱石の自転車」はその一節で登場する言葉で、
    「自分が落ちるかと思ふと人を落とすこともある、そんなに落胆したものでもない」と続いています。
    自転車に挑戦したのは、「夏目狂セリ」の電報が文部省に届いた、
    神経衰弱が深刻な時期でしたが、『漱石の思い出』で、妻の鏡子はロンドンの漱石の様子を
    「人通りの少い郊外なんぞを悠々と乗りまわしてゐるうちに、
    余程気分も晴れやかになつたと見えて」としており、
    自転車によって気分が晴れたようです。
    良い影響のあった自転車ならば、帰国後も乗ったのでは?と感じます。
    漱石の自転車監督兼教師・犬塚から帰国後の漱石に宛てた手紙は当館が所蔵しています。

    犬塚武夫書簡 K.Natsume(夏目金之助)宛て 明治36(1903)年11月26日 「松岡・半藤家資料」


    ※写真は書簡2枚目
    「自転車は是非共御励み申候、尤本邦は道路悪しく遠乗ニハ困難ニ御坐候」とあります。
    「或る時は立木に突き当たつて生爪を剥がす」ほど苦心した自転車ですが、
    乗ったのは短い期間ということになります。
    挑戦には痛手や失敗が続き、さらには環境が変わってやめてしまうことがあるかもしれませんが、
    「人間万事漱石の自転車」の言葉をつぶやきつつ、
    あまり気に病まないことも大事かもしれません。
    (学芸員 朝野)

    テーマ:吾輩ブログ    2025年02月19日
  • 復刊!『法城を護る人々』と松岡譲

    夏目漱石の門下生で、漱石の長女筆子と結婚した松岡譲(1891-1969)の代表作『法城を護る人々』が
    昨年の11月15日に京都の出版社法蔵館より上中下の文庫本として復刊されました。

    松岡譲画《桐図》 令和5年度新収蔵資料
    復刊『法城を護る人々』上巻のカバーに使用


    松岡譲は、明治24(1891)年、新潟県長岡市の真宗大谷派の松岡山本覚寺の長男として生まれました。
    当然のことながら将来、寺を継ぐことになっていたのですが、松岡はそれに反発。
    文学者の道を志します。
    大正4(1915)年12月、東大の同窓生 久米正雄・芥川龍之介の紹介で
    漱石山房の木曜会に出入りするようになり、翌大正5(1916)年2月、
    芥川らと第四次『新思潮』を創刊したことは皆様ご存知の通り。
    「法城を護る人々」はそのような松岡譲の自伝的小説であり、
    今回の法蔵館文庫本は、昭和56(1981)年に刊行された『法城を護る人々』上中下(法蔵館)を底本としています。
    もともと大正6(1917)年11月1日に『新小説』誌上に発表された
    短篇の「法城を護る人々」を長編小説に改作し(それに伴い、短篇は「護法の家」と改称)、
    発表したのが、『法城を護る人々』全3巻(第一書房、大正12~昭和元年)です。
    実は、現在開催中の《通常展》「夏目漱石と漱石山房 其の二」(4月20日まで)では、
    この松岡譲「法城を護る人々」に関する資料を何点か展示しています。
    今回はそのなかから、芥川龍之介が松岡に宛てたはがき(「松岡・半藤家資料」)を紹介します。
    大正6(1917)年10月25日、「法城を護る人々」の掲載にも奔走したらしい芥川は、
    次の一文を記しています。
    「早く法城を守る人々の顏が見たいな、ボクにあの小説を書かせればこんな挿画をかくよ」

    芥川が挿画として提案したスケッチ(いささかキリスト教的ですが、
    天空に届かんとする堅固な塔というイメージでしょうか)がなかなか上手です。
    芥川も松岡作品が仏教界へ与える衝撃を期待している節が窺えます。
    松岡自身、本作は1か月そこそこで書き上げた苦心作でもあり、
    自伝的内容もあって本作への思い入れはひとしおのものがあったはずです。
    今回の復刊も、松岡が生きていれば大変喜んだに違いありません。
    もっとも、自分の作品には常に手を入れながら、
    旧稿を発表する度に改訂を重ねていく松岡のことですから、
    あるいは中身が相当変わった『法城』が刊行されていたかもしれませんが。
    (学芸員 今野慶信)

    テーマ:吾輩ブログ    2025年01月25日
  • 中学生の職場体験学習

    今年も新宿区内の中学生が
    当館で職場体験学習を行いました。
    プログラムの一つに、
    図書室の本を紹介するポップ制作をお願いしているのですが、
    このポップが、来館者の皆様に大変ご好評いただいております。

    わたしたちスタッフも、毎年楽しみにしています。
    今回は、作ってくださった学生さんと先生に了解を取り、
    こちらに紹介させていただきます。


    これを読んだらみなさんも、紹介された本を読んでみたくなりませんか?
    地下1階の図書室は10時から18時まで無料でお入りいただけます。
    ご来館の折には、ぜひ図書室のポップにも注目してみてください。

    テーマ:吾輩ブログ    2024年12月08日
  • 小宮豊隆の肖像画

    令和6年度の特別展「『三四郎』の正体 -夏目漱石と小宮豊隆-」も
    終了まで残りわずかとなってきました。
    今回の出品資料の中に、小宮豊隆の肖像画(みやこ町歴史民俗博物館所蔵)があります。
    この肖像画を描いたのは、
    大正から昭和にわたって近代洋画の中心的存在だった安井曾太郎(1888-1955)です。

    安井は、明治21(1888)年京都生まれ。
    明治37(1904)年聖護院洋画研究所に入所し、浅井忠、鹿子木孟郎らに師事しました。
    明治40(1907)年には津田青楓とともにヨーロッパに留学し、
    フランスではアカデミー・ジュリアンに学び、大正3(1914)年に帰国し、
    翌年には二科会第2回展覧会に滞欧作44点を出品しました。
    昭和9(1934)年には、新宿区に自宅とアトリエを新築し
    作品制作を行っていた、新宿区にもゆかりが深い作家です。
    漱石山房記念館に再現されている書斎から二間続きとなっている客間に
    飾られた『麓の街』(複製;原資料は神奈川県立近代文学館、
    大正2(1913)年)は、フランス留学中の安井曾太郎の作品です。
    二科会第2回展覧会で特別陳列された作品のひとつで、
    この特別陳列が実現したのには、津田青楓と小宮豊隆の尽力が大きかったようです。
    夏目漱石は、亡くなる前年に小宮豊隆の勧めで
    二科展会場の三越呉服店を訪れ、額縁込みでこの作品を購入しました。
    以降、『麓の町』は、書斎に座る漱石の視線の先にあったことになります。
    漱石は安井の作品について、
    「おれの小説の描写の密度と安井の画の描写の密度は丁度似てゐるので、
    安井の画はとても自分にピツタリ来る」
    と語ったといいます。
    小宮の肖像画は、安井が新宿から湯河原に居を移したのちに制作され、
    自身が創立に関わった一水会の第12回展にも初出品されました。
    湯河原のアトリエは、夏目漱石も逗留したことのある旅館・天野屋の敷地内に、
    日本画家の竹内栖鳳が住居と画室を建て使っていたもの。
    小宮は昭和24(1949)年8月11日から9月1日まで、
    このアトリエを訪れ肖像を描いてもらっています。
    モデルとなるのは初めてで、
    「それでなくても私は、人から注目される事に堪えない、
    弱い神経しか持ち合わせてゐない。相手が安井だから楽な気持でゐられる」
    と思ったそうですが、結局終始落ち着かない時間が続いたようで、
    「安井の眼にこの心の散乱が捕へられずにゐる筈がない。
    それがありのままにかかれるとすれば、私は少々困るのである。」
    と述べています。
    絵画に対しても非常に強い興味を持っていた夏目漱石は
    安井を高く評価し、自身で気に入った『麓の街』の購入を決めました。
    安井はヨーロッパ留学では同郷で先輩の津田青楓に同行し、
    小宮とは親しい交流が続きました。
    そういった意味では、漱石山房にとって
    安井曾太郎は重要な関係者と言えるのではないでしょうか。

    テーマ:吾輩ブログ    2024年12月04日
  • 「わたしの好きな初版本」結果発表!

    「漱石山房記念館 初版本コレクション」展が
    10月6日に無事に終了しました。
    ご来館いただいたみなさま、ありがとうございました。
    会場内で好きなデザインの初版本にご投票いただいた
    「わたしの好きな初版本」の結果を発表します!

    スタート!


    8月中旬ごろ


    第1位 『道草』
    第2位 『吾輩は猫である』下編
    第3位 『こころ』
    『道草』は会期当初から、常に1位または2位という支持を受けていた、
    津田青楓による美しい装丁です。
    2位は、当館オリジナルグッズのトートバッグにもなっている
    『吾輩は猫である』下編。
    数多くの漱石の書籍の装丁を手がけた橋口五葉によるものです。
    そして、『こころ』は漱石が自ら装丁を行い、
    現在も岩波文庫のカバーに使われている
    おなじみのデザインです。
    4位以降は『虞美人草』『吾輩は猫である』上編と続いていきます。
    ご投票いただいた作品は上位になったでしょうか。
    総数約3,000票の投票がありました。
    上位作品は、投票シールを貼る用紙が2枚目に突入!

    最終結果


    会期中少しずつ増えていくシールを見るのが、
    スタッフ一同とても楽しみでした。
    ご投票いただいたみなさま、ありがとうございました。

    テーマ:吾輩ブログ    2024年10月21日
  • 漱石山房通り

    漱石山房記念館がある新宿区早稲田周辺には夏目漱石ゆかりの通りが2箇所あります。
    1箇所目が漱石の生家があったあたりを通る「夏目坂通り」です。
    残念ながら漱石の生家は現存していませんが、
    『硝子戸の中』で漱石は
    「父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に
    是非とも登らなければならない長い坂に、
    自分の姓の夏目という名を付けた。
    不幸にしてこれは喜久井町ほど有名にならずに、
    ただの坂として残っている。
    しかしこの間、或人が来て、地図でこの辺の名前を調べたら、
    夏目坂というのがあったといって話したから、
    ことによると父の付けた名が今でも役に立っているのかも知れない。」

    と夏目坂について紹介しています。
    もう1箇所が漱石山房記念館の前を通る「漱石山房通り」です。
    夏目坂のようなエピソードは特にありませんが、
    江戸時代の地図で同じような場所に道があったことが
    確認できます。(現在の漱石山房通りとは違います)

    漱石山房通りの標識


    漱石山房通りでは漱石山房記念館までの案内を至る所で目にします。
    今回は東京メトロ東西線早稲田駅方面から漱石山房記念館までの道筋を
    案内板を目印にしてご紹介します。
    漱石山房通りは外苑東通りから早稲田通りに抜ける一方通行の道路で、
    東京メトロ東西線早稲田駅からは
    1番出口を出て右手すぐの横断歩道を渡ったところにあります。
    (日本橋方面からは1番後方の車両、中野方面からは1番前方の車両が最寄りです)

    早稲田駅1番出口階段を出た正面の案内板

    早稲田駅1番出口を出て右手にある横断歩道を渡ります。


    漱石山房通りの入り口には漱石山房記念館の案内表示があります。
    左手方向にまっすぐ一本道を進むと
    漱石山房記念館に到着します。

    横断歩道を渡った先にある案内板

    漱石山房通りの入口。車はこちらからの侵入不可。


    漱石山房通りの入り口から150mくらい進んだ左手に早稲田公園があります。
    そこから少し先の右手に早稲田小学校があります。
    早稲田小学校は明治33(1900)年開校ですので、
    漱石が早稲田南町の家に引っ越してきたときにはすでに開校していました。

    早稲田公園に設置された案内板

    早稲田小学校前に設置された案内板


    早稲田小学校を過ぎてしばらくすると、
    漱石山房記念館の近代的な建物が突如現れます。
    案内表示以外にも漱石山房通りでは道路タイルと街灯のネコが道案内をしてくれます。

    道路タイルでの案内

    街灯での案内


    漱石山房記念館までの道のりをネコを数えながら散策するのも
    楽しいのではないでしょうか。
    ※余所見しながらの歩行は危険ですので、車や自転車、歩行者にご注意ください。

    テーマ:吾輩ブログ    2024年09月26日
  • 漱石とおみくじ

    夏休み。多くの方が夏祭りや旅行で神社仏閣に行かれることがあるかと思います。
    最近では、神社仏閣を訪れる旅行中の海外の方も多く目にします。
    本殿・本堂への参拝、授与所等でお守りをチェックしたり、最近流行りの御朱印を拝受したり。
    そして、目につくのはさまざまな種類のおみくじです。
    おみくじの役割は、神仏のお告げを私たちに橋渡しすることです。
    恋みくじ、水に浸すと文字が現れる水みくじ、木製のだるまの中からおみくじが出てくるだるまみくじ、
    インバウンドの訪問に対応するため、多言語で書かれたおみくじもあります。
    おみくじは、江戸時代に比叡山中興の祖である元三大師にあやかった「元三大師御籤」が大流行し、
    寺院で配るおみくじのほかに、おみくじがまとめられた本も発行され、明治以降になっても多く売り出されました。

    『元三大師御鬮判断 全』東都浅草観音境内 近江屋太吉/江戸末期(個人蔵)

    「元三大師御籤」は、1番から100番まであり、それぞれのおみくじに五言四句の漢詩が書かれ、
    そして、多くの方が一喜一憂する吉凶禍福が書かれています。
    そんなおみくじですが、漱石作品の中でも見ることができます。
    明治45(1912)年に全119回にわたって朝日新聞に連載された「彼岸過迄」の第15回に
    「善光寺如来の御神籤を頂いて第五十五の吉といふのを郵便で送つて呉れたら、
    其中に雲散じて月重ねて明らかなり、といふ句と、花発いて再び長栄といふ句があつたので・・・」

    とあります。
    この内容は、元三大師御籤の第五十五番が当てはまります。
    元三大師御籤の第五十五番は吉です。
    また、五言四句は「雲散月重明 天書得誌誠 雖然多阻滞 花発再重栄」です。
    漱石は、この内の第1句と第4句を用いたようです。
    漱石の日記をみると、明治44(1911)年6月に妻の鏡子と善光寺を訪れています。
    おみくじを引いたという記録はありませんが、
    善光寺の第五十五番のおみくじを目にすることがあったのではないでしょうか。
    現在も善光寺には、様々なおみくじの中に、元三大師御籤も引くことができます。
    ちなみに2句は、「天書誌誠を得たり」3句は、「然も阻滞多しと雖も」です。
    続いて、大正5(1916)年に188回までで未完となった、
    漱石最後の作品「明暗」の第46回に
    「継子は長さ二寸五分幅六分位の小さな神籤箱の所有者であつた。
    黒塗の上へ篆書の金文字で神籤と書いた其箱の中には、象牙を平たく削つた精巧の番号札が、
    数通り百本納められてゐた。
    彼女はよく「一寸見て上げませうか」と云ひながら、小楊枝入を取り扱ふやうな手付で、
    短冊型の薄い象牙札を振り出しては、箱の大きさと釣り合ふ様に出来た文句入の折手本を繰りひろげて見た。
    (中略)お延が津田と浅草へ遊びに行つた時、玩具としては高過ぎる四円近くの代価を払つて、
    仲見世から買つて帰つた精巧なこの贈物は、来年二十一になる継子に取つて、
    処女の空想に神秘の色を遊戯的に着けて呉れる無邪気な装飾品であつた。
    彼女は時として帙入の儘それを机の上から取つて帯の間に挟んで外出する事さへあつた」

    と出てきます。
    二寸五分幅六分とは、高さが約7.5センチ、幅が約2センチ(一寸が約3センチ、一分が約3ミリ)の小さな箱です。
    その中に100本の番号札が納められています。
    振って出た番号とおみくじの折本(じゃばら折りの本)を照らし合わせてお告げを見るのです。
    そして、帯に挟んで持ち歩けるくらい小さな携帯用の本と書かれています。
    継子が持っていたおみくじ本は、袖珍本(しゅうちんぼん)とよばれる携帯用の小型本になると思われます。
    幕末には、どこでも実際に御籤が引ける携帯用のおみくじ本が売り出されていたようです。
    このおみくじ本は折本状で、この折本と同じ大きさのおみくじ箱と1組になって専用の袋に入っていました。
    さらに購入した浅草の仲見世と言えば、天台宗の古刹(現在は観世音宗)で元三大師とも縁のある浅草寺です。
    写真で紹介している元三大師御籤は、幕末に浅草観音境内で売られていたおみくじ本です。
    漱石の時代にも浅草寺の仲見世には、玩具店や本屋がありました。
    「彼岸過迄」「明暗」ともに小説の一説ですが、漱石がおみくじ・おみくじ本を見るなり、
    聞き及ぶなりしたのではないかと想像できます。
    占い、迷信好きであった鏡子と一緒にみていたかもしれません。
    さらには、漱石も寺社に出かけた折には神仏のお告げをいただいていたのかもしれません。
    かの新井白石も娘の縁談に際して、おみくじによって可否を決していたといいます。
    発展目まぐるしい現代でも様々な種類のあるおみくじが引けることをみてみると、
    今も昔も変わらず神仏に聞いてみたくなることがあるようです。
    参考文献:大野出『元三大師御籤本の研究-おみくじを読み解く-』思文閣出版、2009年

    テーマ:吾輩ブログ    2024年09月03日
  • 「漱石山房記念館 初版本コレクション」のみどころ

    現在、2階資料展示室では「漱石山房記念館 初版本コレクション」を開催中です。
    漱石の初版本の装丁は橋口五葉、津田青楓、そして漱石自らが手がけました。
    『吾輩は猫である』の斬新なデザイン、表紙に漆を使った『草合』、
    表紙から裏表紙までぐるりと繋がったデザインの『虞美人草』など
    趣向を凝らした装丁の美しさは圧巻です。
    漱石の初めての小説、初めての単行本、うつくしい本を出したいという
    漱石の思いが詰まった『吾輩は猫である』上編から『明暗』まで初版本21冊を展示しています。
    ここでは2番目に発行された単行本で、「倫敦塔」や「カーライル博物館」等7篇の短編小説を収めた
    『漾虚集(ようきょしゅう)』(明治39(1906)年)をご紹介します。



    装丁は橋口五葉、題簽(だいせん)、挿絵は中村不折。
    表紙は木綿の藍染の布地に収録作品名が書かれた絹の題簽、
    開くと五葉による美しい扉絵と短編それぞれの中扉があり、
    各話では漱石をうならせた不折による挿絵に出会えます。
    発刊準備を進めていた明治39年3月2日に、
    漱石は不折と五葉に宛ててそれぞれ次のように書き送っています。

    〈不折宛〉
    今迄のさし画に類なき精巧のものにて出来の上は定めし人目を驚かすならんと嬉しく存候。
    (中略)
    倫敦塔の図の如きは着色の点に於いて慥(たし)かに当今の画家をあつと云はしむるにたる名品と存候。

    〈五葉宛〉
    あの様な手のこんだものをかいて頂くのは洵(まこと)に難有仕合(ありがたきしあわせ)に御座候。
    御蔭にて拙文も光彩を放ち威張つて天下を横行するに足ると存候。
    (中略)
    小生の尤も面白しと思うふは大兄と不折の画が毫も趣味に於て重複せざる点に有之候(これありそうろう)。

    漱石は趣が異なる二人の作風を「面白し」と肯定的にとらえて評価しています。
    藍色の表紙をめくると、次々とあらわれる美しい図案は、読み進めるうえで視覚的にも楽しませてくれます。

    展示風景

    図書室の復刻本書棚

    会場では初版本を開いて展示することはできませんが、漱石がこだわった扉や奥付、
    挿絵等は一部をパネルにて紹介しています。
    また、地下1階図書室には復刻本を配架しています。
    『吾輩は猫である』のアンカット(小口と地が裁断されておらず袋とじの状態)、
    漱石自ら装丁した『こころ』の扉、各本の見返しの模様も確認することができます。
    図書室にもお立ち寄りいただき、復刻本を手に取ってページをめくってみてはいかがでしょうか。

    テーマ:吾輩ブログ    2024年08月19日
  • 漱石山房記念館の夏休み企画

    7月11日(木)から開催中の《通常展》テーマ展示
    漱石山房記念館 初版本コレクションでは、
    漱石山房記念館が所蔵する夏目漱石の初版本を一挙公開しています。
    美しい初版本の数々から、自著の装丁に深い関心を持っていた
    漱石自身のこだわりが感じられます。
    今回の展示は夏休み期間に重なることから、
    小学生向けワークシートをご用意しました。

    夏目漱石の初版本にふれながら本に関する知識も学ぶことのできる
    書き込み式の楽しいワークシートです。
    小学生はもちろん、大人の方にもお楽しみいただけるのではないかと思います。


    初版本の世界に浸っていただいた最後には、
    お好きな初版本に一票入れていただけるコーナーを設けました。

    今のところ一番人気は『こころ』のようです。

    展示を見学された後は、ぜひミュージアムショップにもお立ち寄りください。
    今回の展示に登場した初版本をモチーフにした
    当館オリジナルグッズを多数見つけていただけるかと思います。
    夏目漱石初版本の世界をご自宅にお持ち帰りされてはいかがでしょうか。

    テーマ:吾輩ブログ    2024年07月20日
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