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漱石の夏休み
6月も半ばを過ぎ最高気温が30度となる日も出てきました。
梅雨を飛び越え夏が来てしまったかのようです。
現在ほど高温ではなかったにせよ、暑い夏、漱石はどのように過ごしていたのでしょうか。
予備門時代の漱石の友人・太田達人が本郷の真砂町に下宿していた頃の夏の一幕があります。
その下宿まで、夏になると、夏目君は毎日のやうに早稲田からてくてく歩いて来て、
私を誘ひ出した上、又二人で一緒にてくつて、両国の水泳場まで通つたものでした。
(太田達人「予備門時代の漱石」より)漱石は少し遠回りになるものの、
太田達人の下宿に寄ってから一緒に水泳場に向かっていたようです。
江戸牛込馬場下横町(現・喜久井町)にあった漱石の生家から出発するこのルート、
どのくらいの距離でしょうか。
太田達人の下宿のあった真砂町は現在文京区本郷4丁目、
両国の水泳場を両国橋付近と、
ざっくりとした位置で直線距離を測ってみると、漱石の生家から本郷4丁目までが約3.1㎞、
徒歩で約1時間。そこから両国橋が約3.7㎞、徒歩で約1時間10分。全行程で約6.8㎞、
およそ2時間10分の道のりです。
これだけの徒歩移動、それも夏となれば、泳ぐ前に疲れてしまいそうです。
「予備門時代の漱石」によれば、漱石は帰りも「又わざわざ真砂町の下宿へ立ち寄つて、
さんざ話してから戻つて行く。」とあり、
学生時代の夏を共に過ごす二人の仲の良さが感じられます。
二人が泳いだ両国の水泳場は夏場に墨田川に設けられた水練場のことで、
『明治東京歳時記』に詳細が記されています。
「七月はじめに隅田川筋、築地川近傍の水練場が開場し」
「七月末までには千住大橋から新大橋までの隅田川の河岸に十七ヵ所、
なかでも浜町河岸には九ヵ所の水練場ができ」とあります。
二人が水練の場を毎日のように訪れたのは7月に入り予備門も夏季休暇であった頃のようです。
また、水練場には日本に古来の游泳術・日本泳法の流派による教場があり、
隅田川には「向井流」による隅田川浜町の向井流教場、
「水府流太田派」の隅田川浜町河岸における水府流太田派道場があったそうです。
ただし、漱石がこれらの水練場で泳いでいたのかは定かではありません。
来月から夏休みという方もいらっしゃるかと思います。
現在では隅田川で泳ぐことはできませんが、
漱石の水泳づくしの夏休みに思いをはせながら夏を過ごしてみるのもいいかもしれません。テーマ:漱石について 2024年6月25日 -
《通常展》テーマ展示 『門』―夏目漱石の参禅―のみどころ
漱石山房記念館2階資料展示室では令和6年7月7日(日)まで、
《通常展》テーマ展示『門』-夏目漱石の参禅-を開催しています。
展示は3章立てで構成しています。
第3章「若き雲水との交流」のコーナーには、
大正3(1914)年から文通をはじめ、自宅に泊めるまで親しくなった
神戸の20代の二人の雲水(修行僧)に宛てた漱石の手紙を展示しています。
この時の雲水の一人・富沢敬道(珪堂)は、後に、
漱石が明治27(1894)年に円覚寺に参禅した際に止宿した円覚寺塔頭・帰源院の
住職になり、敬道宛の漱石の手紙が帰源院に伝わっています。
今回の展示では、帰源院からそのうちの4通をお借りしています。
展示替え後の現在は
富沢敬道宛漱石書簡、4通全てをご覧いただけます。
「私は五十になつて始[初]めて道に志ざす事に気のついた愚物です」
と告白する大正5(1916)年11月15日付の漱石の書簡は、
展示替え前は一部分しかご覧いただけませんでしたが、
現在は広げて展示していますので、
巻紙に筆で書かれた2メートル以上もの手紙全文を
お読みいただけます。
「啓饅頭を沢山ありがたう。
みんなで食べました。
いやまだ残つてゐます。
是からみんなで平げます。」
からはじまり、俳句、漢詩、自身の修業についてと続くこの長い手紙は
徒然なるままに流れるように書かれており、
心を許した二人の関係が読み取れます。
漱石の心の動きを感じ取ることができるこれらの書簡は、
ほとんど公開されることがなく、
実物を確認できる貴重な機会です。
展示会期は7月7日(日)までです。
ぜひ会場にお越しください。テーマ:漱石について 2024年6月20日