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吾輩ブログ 一覧

  • 《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造のみどころ(その1)

    漱石山房記念館2階資料展示室では令和5年7月9日(日)まで、
    《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造を開催しています。
    会場は「第1章 修善寺の大患」、「第2章 森成さんと漱石さん」の2章立てで構成しています。

    明治43(1910)年6月、「門」の連載を終えた漱石は長与胃腸病院に入院し、
    長年患っていた胃潰瘍の本格的な治療を開始します。
    退院後の8月6日には、医師の許可を得て、静養先の修善寺を訪れます。
    同地に滞在予定の門下生・松根東洋城との句作や謡を楽しみにしていた漱石ですが、
    到着の3日後には体調が悪化し、床に就いてしまいます。
    そして、8月24日には、500グラムもの大吐血の後に人事不省に陥ります。
    この出来事は「修善寺の大患」として知られています。
    胃潰瘍の漱石にとって、この修善寺滞在には、
    心理的な不安要素がいくつも重なっていました。
    まず、修善寺行ですが、新橋駅で待ち合わせのはずの東洋城に会えず、
    御殿場で下車して二時間遅れの後続列車を待ち、三島で伊豆鉄道への乗り継ぎを40分待ち、
    終着駅の大仁(おおひと)駅では雨で車(人力車)が捕まらず、
    出発から8時間経てようやくたどり着いた宿には空きがなく、
    交渉してなんとか一泊だけ部屋を都合するなど、病後の体に負担をかけた旅でした。
    漱石の病状悪化の報は、東洋城によって各所に発せられますが、
    おりしも関東は8日から続く大雨で、土砂災害により鉄道は不通になり、
    電信や電話も混乱をきたしていました。
    漱石は、「思ひ出す事など」(明治43年10月29日~明治44年2月20日『東京朝日新聞』連載)のなかで、
    宿にかかってきた電話の相手が暴風雨の雑音で妻の鏡子とわからずに、
    「貴方(あなた)といふ敬語を何遍か繰返した」(「思ひ出す事など 十」)と書いています。
    そして水害の新聞報道を見て、
    「東京と自分とを繋ぐ交通の縁が当分切れ」「多少心細いものに観じない訳に行かなかつた。」
    (「思ひ出す事など 十」)とも記しています。
    第1章のコーナーには、漱石が初日に一泊した「菊屋別荘」と
    修善寺の大患の舞台となった「菊屋」(本館)の描かれた
    明治37(1904)年発行の「豆州修善寺温泉場改図」や、
    漱石が乗車した、丹那トンネル開通以前の東海道線と伊豆方面の路線図、
    水害の様子を伝える新聞記事などを展示しています。
    ぜひ会場で、大患前夜の漱石の心情に浸ってみてください。
    皆さまのご来館をお待ちしております。

    次回のみどころ(その2)は、8月24日、大患当日の記録について迫ります。

    テーマ:漱石について    
  • どうする漱石-家康家臣・夏目広次との関係-

    現在、放映中のNHK大河ドラマ「どうする家康」に登場している
    徳川家康の家臣・夏目広次(系図等では吉信)(1518-1572)は、
    夏目漱石の先祖と言われていますが本当でしょうか。
    夏目広次は、武田信玄に敗北を喫した元亀3(1572)年の三方ヶ原の戦いで、
    家康の身代わりとなって討死したことで知られます。
    もともと三河譜代の家臣で、永禄6(1563)年三河一向一揆では一揆側に加担したものの、
    家康から許されています。
    広次の子孫は江戸幕府の旗本として続き、
    幕府編纂の系図集『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』には同族10家の夏目家が載っています。
    同書によれば、夏目氏は清和源氏で多田満仲の弟・満快の8代国忠が源頼朝から
    奥州藤原氏追討の勲功賞として信濃国夏目村(比定地不明)を拝領したことに始まると言います。
    その後、南北朝時代に三河に移り、
    そして安城松平家(のちの徳川家)に仕えることになったとしています。
    さて、漱石は慶応3(1867)年、江戸牛込馬場下横町の町名主(なぬし)の
    夏目小兵衛直克の子として生まれました。
    馬場下横町の名主夏目家は、元禄15(1702)年、四兵衛直情(なおもと)が
    初めて幕府から名主役を仰せ付けられたといい、5代続いて幕末まで至っていますが、
    先祖を旗本夏目氏と同じとしています。

    漱石の祖父・夏目小兵衛直基像(『漱石写真帖』部分)


    漱石の家系について詳しく言及しているのは、漱石の門下生・小宮豊隆です。
    小宮の『夏目漱石』によれば、漱石の夏目家は旗本夏目家とルーツは同じものの、
    三河に移らずそのまま信濃に残った家系で、室町時代の中頃には守護小笠原持長に仕え、
    その後甲斐の武田信昌から信玄・勝頼まで5代の武田家に仕え、
    八代郡夏目原村(現山梨県笛吹市御坂町)に居住したといいます。
    武田家滅亡の後、小田原北条氏重臣で岩付城(さいたま市岩槻区)主の太田氏房に仕え、
    北条氏滅亡後は、家康家臣で岩槻城主の高力清長・氏正へと主君を変えたといいます。
    これらは漱石の兄直矩(なおのり)の夏目家本家の家系図に拠ったもので、
    もちろん史料的な裏付けが必要ですが、漱石家の家伝として重視しなければならないでしょう。
    漱石自身もこれらは認識しており、
    「僕の家は武田信玄の苗裔(いえすじ)だぜ。えらいだらう。」
    (漱石の談話「僕の昔」明治40年)と発言しています。
    信玄の子孫というのは不正確ですが、漱石と市谷小学校の同級生だった篠本二郎も
    同じ武田旧臣の家柄だったということで漱石と口喧嘩をした思い出を語っています(同「腕白時代の夏目君」昭和10年)。
    すなわち、漱石の夏目家は、旗本夏目氏とルーツは同じものの三河に移住した系統ではないので、
    家康家臣の夏目広次を先祖に数えるのは正しくないことがわかります。
    江戸の町名主の家に生まれた江戸っ子漱石が、
    徳川家康に親近感を抱いていたのは確かだと思いますが、
    漱石の家系は家康を震え上がらせた武田信玄の家臣だったようです。
    (漱石山房記念館学芸員 今野慶信)

    テーマ:漱石について    
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