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どうする漱石-家康家臣・夏目広次との関係-

現在、放映中のNHK大河ドラマ「どうする家康」に登場している
徳川家康の家臣・夏目広次(系図等では吉信)(1518-1572)は、
夏目漱石の先祖と言われていますが本当でしょうか。
夏目広次は、武田信玄に敗北を喫した元亀3(1572)年の三方ヶ原の戦いで、
家康の身代わりとなって討死したことで知られます。
もともと三河譜代の家臣で、永禄6(1563)年三河一向一揆では一揆側に加担したものの、
家康から許されています。
広次の子孫は江戸幕府の旗本として続き、
幕府編纂の系図集『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』には同族10家の夏目家が載っています。
同書によれば、夏目氏は清和源氏で多田満仲の弟・満快の8代国忠が源頼朝から
奥州藤原氏追討の勲功賞として信濃国夏目村(比定地不明)を拝領したことに始まると言います。
その後、南北朝時代に三河に移り、
そして安城松平家(のちの徳川家)に仕えることになったとしています。
さて、漱石は慶応3(1867)年、江戸牛込馬場下横町の町名主(なぬし)の
夏目小兵衛直克の子として生まれました。
馬場下横町の名主夏目家は、元禄15(1702)年、四兵衛直情(なおもと)が
初めて幕府から名主役を仰せ付けられたといい、5代続いて幕末まで至っていますが、
先祖を旗本夏目氏と同じとしています。

漱石の祖父・夏目小兵衛直基像(『漱石写真帖』部分)


漱石の家系について詳しく言及しているのは、漱石の門下生・小宮豊隆です。
小宮の『夏目漱石』によれば、漱石の夏目家は旗本夏目家とルーツは同じものの、
三河に移らずそのまま信濃に残った家系で、室町時代の中頃には守護小笠原持長に仕え、
その後甲斐の武田信昌から信玄・勝頼まで5代の武田家に仕え、
八代郡夏目原村(現山梨県笛吹市御坂町)に居住したといいます。
武田家滅亡の後、小田原北条氏重臣で岩付城(さいたま市岩槻区)主の太田氏房に仕え、
北条氏滅亡後は、家康家臣で岩槻城主の高力清長・氏正へと主君を変えたといいます。
これらは漱石の兄直矩(なおのり)の夏目家本家の家系図に拠ったもので、
もちろん史料的な裏付けが必要ですが、漱石家の家伝として重視しなければならないでしょう。
漱石自身もこれらは認識しており、
「僕の家は武田信玄の苗裔(いえすじ)だぜ。えらいだらう。」
(漱石の談話「僕の昔」明治40年)と発言しています。
信玄の子孫というのは不正確ですが、漱石と市谷小学校の同級生だった篠本二郎も
同じ武田旧臣の家柄だったということで漱石と口喧嘩をした思い出を語っています(同「腕白時代の夏目君」昭和10年)。
すなわち、漱石の夏目家は、旗本夏目氏とルーツは同じものの三河に移住した系統ではないので、
家康家臣の夏目広次を先祖に数えるのは正しくないことがわかります。
江戸の町名主の家に生まれた江戸っ子漱石が、
徳川家康に親近感を抱いていたのは確かだと思いますが、
漱石の家系は家康を震え上がらせた武田信玄の家臣だったようです。
(漱石山房記念館学芸員 今野慶信)

テーマ:漱石について    2023年5月8日
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