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吾輩ブログ 一覧

  • 越後の哲学者 松岡譲  その5

    「越後の哲学者 松岡譲」展のみどころをご紹介するブログの第5回目の最終回は、
    松岡の趣味と晩年についてみていきたいと思います。

    松岡譲は若い頃から体が大きく、運動神経も良かったようで、
    長岡中学時代には水泳と野球を、一高時代には大弓をやっていました。
    成人してからは趣味として登山もするスポーツマンでした。
    渾身の長編小説『法城を護る人々』の最終巻(下巻)を刊行後、
    次なる長編小説「憂鬱な愛人」と、
    漱石未亡人・鏡子からの聞き取りをもとにした「漱石の思ひ出」の2本の連載を持ち、
    岩波から配本が始まった『漱石全集』の月報に毎月のように小文を寄稿し、
    文筆家として最も脂の乗っていた昭和3(1928)年の秋、
    37歳の松岡は原因不明の腹痛に襲われ、以後2年ほど静養につとめ創作から離れます。

    この闘病中に松岡は主治医の勧めでテニスと出会い、のめり込んでいきました。
    もとよりスポーツが得意だったため、すぐに腕を上げ、日本のテニス界の盛り上げにも奔走しました。
    昭和8(1933)年には、社会人のテニス愛好者を対象とした月刊誌『テニスフアン』を創刊し、
    編集人として発行を軌道に乗せたあと退きました。
    昭和9(1934)年には、東京田園調布にテニス・クラブ「田園倶楽部」も設立しています。
    『テニスフアン』や新聞に、テニス界の批評を毎月寄稿する様子は、
    まるでスポーツ・エッセイストになったかのようでした。
    そんな松岡を、周囲の人々は本業が疎かになっていると心配します。
    しかし当人は、
    「幸か不幸か、私はいろいろなものに興味を持つよう生まれついて来た。
    文学はもとよりの事、宗教、哲学、歴史、美術、考古学、スポーツなど、
    (中略)さういふものについて、自分は自分としての恩返へしがしたい。
    それには私が著述家としての職分から尽くす外ない」(注:1)と述べて、
    スポーツ記事に筆を揮いました。

    松岡譲原稿

    展示会では、秩父宮記念スポーツ図書館のご協力を得た『テニスフアン』創刊号の写真や、
    大正9(1920)年のアントワープ五輪のテニスで銀メダルを獲得した
    熊谷一弥(くまがい いちや)との交流を紹介し、松岡のテニスに傾けた情熱に迫ります。

    ところで皆さんは、近代オリンピックに
    「芸術競技」という種目があったことをご存じでしょうか。
    「芸術競技」とは、スポーツを題材とした建築や彫刻、
    絵画、文学、音楽の作品の優秀作を競うオリンピック競技で、
    1912年の第5回ストックホルム大会から
    1948年の第14回ロンドン大会までの限られた期間に行われました。
    昭和15(1940)年の第12回オリンピック東京大会でも、
    詩・戯曲・散文などからなる「文芸競技」が構想されていました。
    スポーツを愛好する松岡はこれを喜び、
    「この国の文壇に、スポーツ文学といった新しい領土が開拓される」
    と書いています(注:2)。
    しかしながら、第12回東京大会は時局の悪化により幻となり、
    松岡の出場の機会も失われてしまいました。

    戦後、日本が再びオリンピックの開催地に決定すると、
    松岡のスポーツ熱は、郷土の考古愛とともに再燃します。
    松岡は、昭和39(1964)年の東京オリンピックの聖火台を、
    地元の長岡市で出土した火焔土器をかたどったものにすべく、
    IOC委員の高石新五郎に相談します。
    続いて東京都知事に火焔土器の模型を贈り、
    大会事務総長の田畑政治には1時間に及ぶ説明を行い、
    火焔土器聖火台プロジェクトの実現に向けて精力的なアピール活動を展開しました。
    しかしながらこの活動も、松岡が働きかけた田畑ら大会中枢部の辞任により、
    立ち切れになってしまいました。
    松岡は新たに大会組織委員会会長となった安川大五郎に火焔土器の模型を贈り、
    自らの慰めにしたといいます。

    松岡の火焔土器愛好は、オリンピックを機に突然芽生えたのでなく、
    長岡市で仮住まいしていた蒼柴(あおし)神社社務所のある悠久山公園の一角に、
    昭和26(1951)年8月、火焔土器を展示する長岡市立科学博物館が開館したことに始まります。
    昭和38(1963)年には博物館の裏手に転居し、そこを終の棲家とした松岡は、
    「御自慢中の御自慢大名物の火焔型土器」を展示する「お山の博物館」に、
    多い時には日に3度も通い、長岡を訪れる著名人を案内しました。
    昭和32(1957)年に松岡の案内で博物館を訪れた、
    文化財専門審議会専門委員の染織史家・明石染人(せんじん)は、
    火焔土器の前で両手を挙げて「おお、素敵」と叫んだといいます。
    松岡はその後、明石と何通もの長文の書簡をやりとりし、
    百十数枚の写真原版を揃えて豪華版の縄文土器写真集の出版話を進めました。
    残念なことに、この企画も、明石の急死と出版社社長の病により実現には至りませんでした。
    展示会には、写真集刊行に向けた熱い思いがほとばしる「明石染人 松岡譲宛書簡」も展示します。
    松岡の火焔土器への情熱は、明石の死後、東京オリンピックの聖火台運動へと継承されていきます。
    生前最後に発表された随筆は、この縄文土器写真集と火焔土器型聖火台運動の顛末を記した
    「「火焔土器」の模型」(『學鐙』66(6)、昭和44(1969)年6月)でした。
    松岡は「著述家としての職分」を尽くし、趣味のスポーツに加え、
    晩年に情熱を注いだ考古学にも恩返しをしました。

    展示会では、小説に加えて、テニスや縄文土器のコーナーを設け、松岡の多面的な活動を紹介します。
    長岡市立科学博物館のご許可を得て展示した
    「松岡譲「お山の博物館」『長岡市立科学博物館館報 NKH』創刊号(昭和33(1958)年9月)」は、
    こちらの長岡市立科学博物館WEBページ よりPDFデータでお読みいただけます。
    ご来館の前にぜひご一読ください。

    これまで5回にわたり、松岡譲展の内容と、松岡の魅力についてお伝えしてきました。
    しかしながらこのブログでは実際の展示の魅力をとても伝えきれません。
    皆様にご来館いただける日が来ることを、漱石山房記念館スタッフ一同心待ちにしています。
    これまでお読みくださり、ありがとうございました。
    (越後の哲学者 松岡譲 おわり)

    注:
    1 松岡譲「スポーツ・ジャーナリズム」『テニスフアン』2巻9号 1934年10月
    2 松岡譲「文学オリンピツクなど」『文藝春秋』1937年3月

    ※「火焔土器」とは昭和11(1936)年に長岡市の馬高(うまたか)遺跡で
    最初に発見された1個の土器につけられたニックネームで、
    類似した土器は「火焔型土器」と呼び、考古学上区別されています。

    テーマ:その他    
  • 越後の哲学者 松岡譲  その4

    「越後の哲学者 松岡譲」展のみどころをご紹介するブログの第4回目は、
    「岳父 漱石へのまなざし」と題し、松岡の漱石研究についてみていきたいと思います。

    松岡の作品のなかで最もよく読まれているのは、
    『漱石の印税帖』(朝日新聞社 昭和30(1955)年)ではないでしょうか。
    本作は、漱石の婿として夏目家に7年間同居した松岡ならではの随筆集です。
    また、義母である夏目鏡子から聞き取った漱石の話を筆録した
    『漱石の思ひ出』(改造社 昭和3(1928)年)も、
    家族から見た漱石のありのままの姿を伝える作品として、高く評価されています。

    漱石関係の松岡著書

    松岡の漱石研究の多くは随筆のかたちで発表されました。
    それは、大正6(1917)年3月の第四次『新思潮』〈漱石先生追悼号〉の
    「其後の山房」にみられるように、漱石の死の直後から始まっています。
    「其後の山房」は、漱石の〈お骨上げ〉から始まる5章仕立てのエッセイです。
    昭和9(1934)年には、「漱石座談会でおしゃべりをして居るような気持ちで」編んだ随筆評論集、
    『漱石先生』(岩波書店)も刊行しています。
    生前最後の単行本、『ああ漱石山房』(朝日新聞社 昭和42(1967)年)も、
    漱石にまつわる随筆集でした。
    これらは、漱石の門下生としてその謦咳に接し、
    漱石没後は遺族として生きた彼にしか書きえない貴重な情報が満載された、魅力的な作品です。

    松岡の漱石研究のもう一本の柱に、
    自ら「漱石文学の奥秘をひらく一つの鍵」という、漱石の漢詩があります(注:1)。
    松岡は、戦時中の昭和18(1943)年2月から約4か月間、瀬戸内海の大崎下島などに滞在し、
    漱石の漢詩に親しみました。
    その研究成果は戦後の昭和26(1946)年9月に刊行した『漱石の漢詩』(十字屋書店)に結実します。
    不安な時局にもかかわらず、その原稿は瀬戸内海の島、東京、越後の実家と肌身離さず持たれ、
    戦争末期に疎開先の長岡で最後の稿が書き上げられています。
    松岡は、晩年に新版『漱石の漢詩』(朝日新聞社 昭和41(1966)年)を出しますが、
    その「まえがき」に、旧著は戦争末期の疎開騒ぎのなかろくな辞書もなしに執筆したもので、
    「見るも無残な誤りに充ち満ちたいわば悪書だ。」
    「無いものとして無視し、そうして進んで破棄して頂ければ幸いだ」と書いています。
    しかしながら、漱石の漢詩世界への憧憬に満ちた旧著は、
    戦後すぐの荒廃した時代に、多くの人々の心を潤したものと思われます。
    巣鴨プリズンに収監されていた漱石門下生・赤木桁平(あかぎこうへい・本名:池崎忠孝)
    から松岡に送られた手紙には、
    「近来こんな気持ちのよい本を読んだことはなく、実に感激し、
    また陶然として、先生(漱石)その人の心情にふれた。心から君に感謝する。」
    と書かれています(注:2)。

    松岡は、昭和9(1934)年という彼の作家人生の早い時期に、
    「先生が亡くなられて(中略)、その間の事については、多少私に語るべき義務と責任があるやうに思ふ。」
    と述べています(注:3)。その義務と責任は80点にも及ぶ漱石関連の作品によって果たされました。

    最晩年の門下生として、長女の夫として、
    松岡は二重の関係で夏目漱石とつながり、生涯を通じて向き合ってきたのです。
    越後の哲学者 松岡譲 その5に続く)

    注:
    1 松岡譲『夏目漱石 文學読本 春夏の巻』第一書房 1936年
    2 松岡譲「「明暗」の原稿その他」永井保 編『池崎忠孝』池崎忠孝追悼録刊行会 1962年
    3 松岡譲『漱石先生』岩波書店 1934年

    テーマ:その他    
  • 越後の哲学者 松岡譲  その3

    「越後の哲学者 松岡譲」展のみどころをご紹介するブログの第3回目は、
    松岡の代表作、『法城を護る人々』に注目します。

    松岡の約50年間にわたる作家人生は、
    第四次『新思潮』の同人として活躍した20代半ば、
    結婚をめぐる事件により断筆後、活動を再開させ最も脂が乗っていた30代、
    2年間の病気療養から復帰した40代以降の、3期に分けることができます。
    松岡は寡作の作家、非文壇作家と評されますが、
    新聞や雑誌への寄稿は多く、随筆も含めれば500点近い作品を残しています。

    短編小説では、『九官鳥』(大正11(1922)年)、『地獄の門』(大正11(1922)年)、
    『田園の英雄』(昭和3(1928)年)、『白鸚鵡(しろおうむ)』(昭和22(1947)年)
    の4冊の小説集を刊行しています。
    しかし、松岡が書きたいと願っていたのは、本格的な長編小説でした。
    自らの素質を短編よりも長編に向くと信じ、「長篇を書く味が忘れられない」、
    「誰が何といつたつて一生長篇を書かうと堅く決心してゐる」と語っています(注:1)。
    これには、若い日に師の漱石から「或いは器用な短篇より長篇の方に向くかもわからない」
    と言われたことが影響しているのかもしれません(注:2)。

    松岡の長編小説は、現状否定の強烈な批判精神に貫かれ、深刻さに満ちています。
    加えて、漢語の多用により重厚感に溢れています。
    その中で『法城を護る人々』上・中・下(大正12(1923)~大正15(1926)年)は代表作と言えます。

    法城を護る人々

    前回のブログ(越後の哲学者 松岡譲 その2)で触れましたが、
    松岡は大学を卒業した4か月後の大正6(1917)年11月に、
    短編小説の「法城を護る人々」を『文章世界』に発表しました。
    同素材を扱った同名の長編小説『法城を護る人々』(上巻)を刊行したのは、
    それから約6年後の大正12(1923)年6月のことでした。
    先に発表された同名の短編小説は、
    第二創作集『地獄の門』(玄文社、大正11(1922)年10月)に収録される際、
    「護法の家」と改題されています。
    長編小説の『法城を護る人々』は、上・中・下巻に別れて刊行されましたが、
    総原稿数は4,500枚にものぼります。
    僧侶の生活批判と人間のエゴイズムの追求を根本的なテーマとする作品ですが、
    それはまた、雪深い北国の寺に生まれ、信仰深い父と度々対立した松岡の、
    自伝的長編小説でもありました。

    この執筆を支えたのは、第一書房の社主・長谷川巳之吉(みのきち)です。
    長谷川は、これはと見込んだ松岡の渾身の長編小説『法城を護る人々』で、
    自身の出版社・第一書房を旗揚げしました。
    当時としては斬新な広告戦略もあり、本書は100版を軽く超えるベストセラーとなりました。
    昭和に入ると普及版が出版されるほど版を重ねますが、
    文壇の評価はというと、黙殺に近いものでした。
    『評伝 松岡譲』を著した関口安義氏は、
    作者の態度が宗門人に対する冷酷な批判に終始している点や、
    問題解決が個の範囲にとどまり社会的に広がらなかった点など、
    作品自体の欠点を指摘しつつも、文壇による完全なる黙殺の要因は、
    久米正雄の『破船』によって作り出され尾を引いていたアンチ松岡の空気にあったといい、
    「大々的宣伝で登場した『法城を護る人々』は、文壇人のねたみと嘲笑の対象以外の何物でもなかった。」
    と記しています(注:3)。

    発表当時、数は少ないながら本作に注目した評論もありました。
    長谷川如是閑(にょぜかん)は、現在の事実を忠実に描写しているといい、
    「ドキュメント」、「宗教界の自然主義的創作」として評価しました(注:4)。
    また、哲学者の土田杏村(きょうそん)は、本作の革命的な気概を評価し、
    芸術的な価値を認め、20枚にも及ぶ書評を書いています(注:5)。

    展示会では、漱石が見抜き、本人が最も望んだ長編小説家としての松岡の一面を紹介する
    「代表作「法城を護る人々」「敦煌物語」」のコーナーを設けています。
    新型コロナウイルス感染症が収束し、
    皆様にご覧いただける日が来るのを楽しみにしています。
    越後の哲学者 松岡譲 その4に続く)

    注:
    1 松岡譲「長篇小説一家言」『読売新聞』1927年12月
    2 松岡の処女小説「河豚和尚(ふぐおしょう)」を漱石が批評した中で使われた言葉。
    松岡譲「人間漱石」『正岡子規 夏目漱石 柳原極堂』生誕百年祭実行委員会 1968年
    3 関口安義『評伝 松岡譲』小沢書店 1991年
    4 長谷川如是閑「宗教的アナーキズム」『我等』1923年9月
    5 土田杏村「非文壇作家」『詩と音楽』1923年10月

    参考文献:
    関口安義『評伝 松岡譲』小沢書店 1991年
    林達夫ほか編著『第一書房 長谷川巳之吉』日本エディタースクール出版部 1984年

    テーマ:その他    
  • 越後の哲学者 松岡譲 その2

    「越後の哲学者 松岡譲」展のみどころをご紹介するブログの第2回目は、
    松岡の「青年時代から忍従の日々」について見ていきたいと思います。

    東京帝国大学の哲学科に籍を置いた松岡は、
    特に親しくしていた久米正雄と芥川龍之介の手引きにより、
    大正4(1915)年12月に東京早稲田南町の夏目漱石宅「漱石山房」を訪れます。
    その後松岡は、多忙な漱石のために木曜の午後と決めて門人たちが集った、
    漱石山房の「木曜会」に毎週欠かさず出席するようになります。
    鈴木三重吉や小宮豊隆らの世代からすると、
    それよりも少し若い芥川や松岡たちは、次の世代と言えましょうか。
    文学を志す新たな若い弟子たちに対して漱石は真摯に接しました。

    大正5(1916)年2月、松岡、久米、芥川、成瀬正一、菊池寛の5人は、
    漱石を第一の読者に想定した文芸雑誌、第四次『新思潮』を創刊します。
    松岡の本格的な文学活動は、この雑誌の創刊とともに始まりました。
    松岡は意欲的に文筆活動に励み、ほぼ毎月1作品を同誌に発表しました。
    なかでも10月に発表した「青白端渓」は、芥川の創作意欲を大いに刺激しました。

    芥川龍之介松岡宛書簡

    芥川は松岡の「青白端渓」を読んで松岡に宛てたはがきの中で
    「あれは大へんいい、ぐづぐづしてはゐられないと云ふ気が痛切にした
    殊に僕は今書けなくってまゐってゐる あしたから勉強だ」と書いています。
    本資料は「越後の哲学者 松岡譲」展に展示します。
    また、『漱石山房記念館だより第2号』(令和元年12月15日発行)の
    「漱石山房記念館所蔵資料の紹介No.2」に読み下し文を掲載し、
    詳しく紹介していますので、本ブログと合わせてぜひご覧ください。
    『漱石山房記念館だより第2号』のPDFデータはこちらからお読みいただけます。

    第四次『新思潮』は、大正5(1916)年12月9日の漱石の死により第一の読者を失い、
    大正6(1917)年3月に「漱石先生追悼号」を出したのちは続かず、終刊に至ります。
    漱石と第四次『新思潮』の同人たちとの交流は一年ほどでしたが、
    漱石の人格と深い学識はそれぞれに強い影響を与えました。

    第四次『新思潮』の終刊から3か月後の大正6(1917)年6月、
    出自に深く悩んでいた松岡は、
    僧侶を連想させる本名の善譲(ぜんじょう)を「譲」(ゆずる)一字に改名します。
    その翌月には大学を卒業して、いったん帰省しますが、
    入寺問題で父と対立してしまい、両親の制止を振り切り再び上京します。
    この上京は自活が条件でしたので、松岡は、漱石の妻・鏡子未亡人の勧めもあり、
    子どもたちの家庭教師として夏目家に身を寄せました。

    この後、数か月は創作意欲に満ち溢れ、
    芥川の斡旋で『文章世界』に力作の「兄を殺した弟」を送り、
    この作品が発禁の恐れから棚上げになると、
    代わりに短編の「法城を護る人々」(『文章世界』大正6年11月号掲載)を一気に書き上げています。
    新進作家として前途を期待されていた松岡ですが、
    漱石亡き後の夏目家と深いかかわりを持つなかで、思いがけず恋愛事件の当事者となってしまいます。

    このころ第四次『新思潮』の同人で、松岡の一校からの親友でもある久米正雄は、
    漱石の長女筆子に想いを寄せていました。
    しかしながら、筆子は松岡に惹かれていました。
    松岡は筆子の気持ちを受け入れ、大正7(1918)年4月に二人は結婚します。
    これにより久米の恋は失恋に終わるのですが、
    久米はこの顛末を「破船」を代表とする数々の失恋小説に書いて世間に公表し、
    同情を集め、人気作家となりました。
    松岡はこの状況に際し、創作の筆を折り、沈黙を守ったのです。
    松岡がこの事件をモデルにした小説「憂鬱な愛人」を発表し、
    自身の立場を明らかにするのは、約10年後の昭和2(1927)年のことです。

    筆子との結婚により、難しい立場に置かれた松岡は、しばらくは夏目家を支え、
    漱石山房の書斎で読書と思索に没頭する日々を送ります。
    そして、大正10(1921)年6月に「遺言状」(改作)を『新小説』に発表して、
    再び創作活動に復帰するのです。
    越後の哲学者 松岡譲 その3に続く)

    参考文献:
    関口安義『評伝 松岡譲』小沢書店 1991年
    関口安義「松岡 譲 再評価される人と文学」関口安義編『EDI叢書 松岡 譲 三篇』イー・ディー・アイ 2002年
    関口安義「松岡譲と芥川龍之介」『Penac』32号 2007年

    テーマ:その他    
  • 越後の哲学者 松岡譲 その1

    新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のため、
    「越後の哲学者 松岡譲」展は開幕を延期しております。
    楽しみにしてくださっていた皆様、資料の借用などにご協力くださいました皆様には、
    ご迷惑をおかけしております。
    担当学芸員も、皆様に展覧会をご覧いただくことができず、歯がゆい思いでおります。
    そこで、このブログを通じて、松岡譲の魅力に迫り、
    本展の内容を少しずつご紹介していきたいと思います。

    第1回目は、松岡の生い立ちから学生時代について見ていきましょう。

    松岡譲は明治24(1891)年9月24日、
    新潟県古志郡石坂村(現・長岡市)の真宗大谷派、
    松岡山本覚寺に父善淵(ぜんえん)、母ルエの長男として生まれました。
    後に自ら改名することになりますが、両親の付けてくれた名前は善譲(ぜんじょう)です。
    父の善淵は、9歳のときに父を亡くし、10代から住職として寺を守ってきたこともあり、
    気難しく、子どもの教育に厳しかったそうです。
    小学校時代の松岡は、算数と図学・習字に秀でていました。
    習字がうまかったのは、部屋に軟禁されてまで特訓した成果です。
    厳格な父をもち、封建的な寺院の長男であるという出生は、
    物心が付き始めた頃から松岡に寺への反抗心を抱かせるようになりました。
    「私の半生の歴史は、既成宗教に対する小さい抗争で貫かれたといつていい」(注:1)
    と本人が語るように、父と寺への批判と対立は、大学を卒業する大正6(1917)年頃まで続きます。

    本覚寺山門

    明治37(1904)年3月には新潟県立長岡中学校(現・長岡高等学校)に入学し、
    後に詩人となる堀口大学と5年間同じクラスで机を並べて勉強しました。
    堀口は、長岡中学校時代の松岡を回想し、
    「お寺の教育の影響であらう、少年松岡には、少年らしい所が少しもなく、
    妙に大人びた哲学者、宗教家といつた重厚さが年々に加はり、
    いよいよ無口になつて行くのだつた。」(注:2)
    と記しています。

    明治42(1909)年3月、松岡譲は長岡中学校を卒業しました。
    家族は京都の宗門学校へ進学させるつもりでしたが、
    それを拒否して高等学校への進学を希望します。
    父は高等学校への進学を希望するのであれば、
    難関の第一高等学校(現・東京大学教養学部の前身、以下「一校」と称す)
    を受験するように言い渡しました。
    その結果、「小便の色の変わるまで勉強した」(注:3)松岡は、
    翌年の入試を試験入学者21名中8番の成績で突破し、
    はれて明治43(1910)年9月に一校の文科に進学します。
    同級には、第三次『新思潮』の同人となる芥川龍之介、菊池寛、久米正雄、成瀬正一らがいました。
    松岡は一校の自由な雰囲気に浸り学生生活を謳歌しますが、一方で自己の生い立ちに深く悩み、
    強度の神経衰弱に陥り、大正2(1913)年5月には休学して故郷に帰っています。
    大正3(1914)年9月号の『新思潮』に掲載された「この頃」という作品に、
    そのときの苦悩を読み取ることができます。
    この頃松岡は、漱石の「こころ」や思想家のキュルケゴールを愛読し、影響を受けました。
    大正3(1914)年7月には出席日数が足りず落第してしまいますが、
    ただちに東大文科の選科を受験し合格、翌年試験を受けて本科に転じ、哲学を専攻しました。
    「越後の哲学者」の下地はこうして作られていったのです。
    越後の哲学者 松岡譲 その2に続く)

    注:
    1.松岡譲『宗教戦士』序 大雄閣 1932年
    2.堀口大学「松岡譲の事など」『新潮』 1935年3月
    3. 松岡譲「耳疣の歴史」『田園の英雄』第一書房 1928年

    参考文献:
    関口安義『評伝 松岡譲』小沢書店 1991年
    関口安義「松岡 譲 再評価される人と文学」関口安義編『EDI叢書 松岡 譲 三篇』イー・ディー・アイ 2002年

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  • 8万人目のお客様をお迎えしました

    令和2年2月16日(日)有料観覧8万人目のお客様をお迎えしました。
    お休みの日に当館のお近くから遊びに来られた、
    村上智彦様、ひな子さんです。
    当館主任学芸員(写真一番左)よりささやかな記念品をお贈りしました。

    来館8万人記念写真

    開館してから多くのお客様にお越しいただき、誠にありがとうございます。
    今後も皆様に親しまれる、魅力的な記念館になるよう運営してまいります。
    何卒よろしくお願いいたします。

     

    テーマ:お知らせ    
  • 一日館長イベントを開催しました

    令和2年1月12日(日)に直木賞作家の出久根達郎先生を
    漱石山房記念館の一日館長としてお迎えしました。
    最初に地下1階の講座室で一日館長任命式を行った後、
    当館の鈴木館長の案内で館内の展示を視察いただきました。
    1日館長任命式

    1日館長館内視察
    漱石山房記念館の正面玄関では、
    来館者の皆さま一人ずつに名刺を手渡してお出迎えもしていただきました。
    皆さまにお渡しした名刺は、出久根先生に書いていただいたものです。

    一日館長お出迎え

    また、講演会では「漱石先生の魅力」というテーマでお話しいただきました。
    子どもの頃に移動図書館で漱石全集に出会い、
    手紙の書き方や人との話し方を学んだことや、
    漱石には文豪、スポーツマン、俳人、詩人、画家、市井人、作家の7つの顔があるとして、
    それぞれの魅力を語っていただきました。

    1日館長講演会

    台風の影響で10月開催の日程が変更になってしまったにもかかわらず、
    大変多くの方にご参加いただき、誠にありがとうございました。

    1日館長館内視察

    テーマ:イベント    
  • 《通常展》テーマ展示 高浜虚子没後60年 漱石と高浜虚子 ‐「吾輩は猫である」が生まれるまで‐ の見どころ(令和元年12月3日~令和2年2月24日)

    令和元(2019)年12月3日(火)~令和2年2月24日(月・休)漱石山房記念館 2階展示室にて
    《通常展》テーマ展示 高浜虚子没後60年 漱石と高浜虚子 ‐「吾輩は猫である」が生まれるまで‐を開催しています。
    展示の詳細は以下のページをご覧ください。
    当館の展示情報 > 《通常展》テーマ展示 高浜虚子没後60年 漱石と高浜虚子‐「吾輩は猫である」が生まれるまで‐

    漱石と高浜虚子展示の様子

    令和元年は、俳人、小説家として知られる高浜虚子の没後60年にあたります。

    今回の展示では、虚子と漱石の関わりについて、
    特に両者の関係が最も親密である、漱石が「吾輩は猫である」を発表するまでの時期に注目しています。

    展示資料では、現存する漱石自筆の「吾輩は猫である」原稿にご注目ください。
    第9回、第11回の冒頭と、ネコがカメに落ちて成仏する最後の部分を展示しています。

    この他にも、漱石が虚子にあてた厳しくも愛情あふれる手紙も見逃せません。
    「吾輩は猫である」誕生に関わった虚子と漱石の関係をたどりながら二人の業績を紹介します。

    ギャラリートーク(担当学芸員による展示解説)

    日時:令和2年1月11日・25日/2月8日・22日の各土曜日 14時~(20分程度)
    会場:漱石山房記念館2階展示室
    申込:不要 ※小中学生無料。高校生以上は観覧券が必要です。

    図録

    漱石と高浜虚子_図録
    《通常展》テーマ展示 高浜虚子没後60年 漱石と高浜虚子 ‐「吾輩は猫である」が生まれるまで‐
    図録(A4判 42頁)500円(税込)は、ミュージアムショップにて販売中です。

    皆さまのご来館をお待ちしております。

     

    テーマ:お知らせ    
  • 新宿の職人技で作った活版印刷メモ帳「夢十夜」を発売しました

    漱石山房記念館のある早稲田から江戸川橋にかけての一帯には、
    新宿区の地場産業の一つである、印刷業の会社が多くあります。

    この地域に印刷業の会社が集まり始めたのは、明治時代。
    日本初の国産洋装本を印刷するなど、日本の印刷業の先駆者だった秀英社が、
    明治19(1886)年に市ヶ谷加賀町に工場を開設したのがきっかけと言われています。
    明治40(1907)年には日清印刷が榎町に工場を開設、
    その後、この2つの会社が合併し、現在の大日本印刷となりました。
    下請けとして支える中小の印刷業者も次々とこの地域に集まり、今に至ります。
    (参考:一般社団法人新宿区印刷・製本関連団体協議会 Webページ)

    漱石山房記念館のすぐ近く、榎町にある有限会社佐々木活字店は大正6(1917)年創業。
    日清印刷鋳造部の責任者をしていた佐々木巳之八さんが、活字鋳造販売業を始めたのだそうです。

    佐々木活字店
    新宿区の地域文化財にも登録されている佐々木活字店では、
    現在も活字の鋳造から文選、植字、印刷の全行程を手がけており、
    四代目の佐々木勝之さんは『デザインのひきだし』や
    『BRUTUS』などの雑誌にも紹介されている、注目の職人さんです。
    佐々木活字店の詳細はこちらのページをご覧ください。

    佐々木活字店

    佐々木活字店

    そんな佐々木さんに、新宿区にある漱石山房記念館ならではの、
    特別なミュージアムグッズを作りたいと相談して出来上がったのが、活版印刷メモ帳「夢十夜」
    夏目漱石の作品「夢十夜」から「百年待つてゐて下さい」の言葉が印象的な第一夜の一部分を、
    表紙と中のメモ用紙に活版印刷であしらっています。

    活版印刷メモ帳_白

    活版印刷メモ帳_青

    白と青の2色で、各色500円。
    商品の詳細はミュージアムショップのページをご覧ください。

    特に表紙は「夢十夜」が収録された『四篇』の初版本をもとにした旧字旧仮名遣い総ルビ、
    漢字と仮名で文字の大きさを変えてデザイン性を高めていますが、
    この活字組版はとても手の込んだ仕事です。
    手に取ってみると「本当に活版印刷?」と思ってしまうくらい、凹凸の少ない仕上がり。
    活版印刷といえば印刷面の凹凸が特徴と思われる方も多いと思いますが、
    紙をなるべく凹まさず、ムラなく綺麗に仕上げるのが「キス・インプレッション」と呼ばれる職人技。
    紙にキスをするように、必要最小限の圧力でインクをのせるのが職人の腕の見せ所です。

    活版印刷メモ帳

    中のメモ用紙には一枚一枚、活版印刷で
    「百年待つてゐて下さい」の一文が印刷されている贅沢なつくりです。
    佐々木活字店で使われている飾り罫の中から、
    漱石山房記念館の前庭に植えられているトクサに似たものを選びました。

    活版印刷メモ帳

    新宿の職人技を感じられる活版印刷メモ帳「夢十夜」は、
    11月より漱石山房記念館のミュージアムショップのみで販売しています。
    各色限定500部の販売ですので、どうぞお早めにお求めください。

    テーマ:お知らせ    
  • ミニトート『吾輩は猫である』好評販売中です

    10月から漱石山房記念館のミュージアムショップに、
    ミニトート『吾輩は猫である』が仲間入りしました。

    ミニトート『吾輩』(ナチュラル)

    ミニトート『吾輩』(ネイビー)

    ナチュラルとネイビーの2色で、価格は各800円。
    詳細はミュージアムショップのページをご覧ください。

    内ポケットとキーホルダーなどがつけられるループがついていますので、
    お財布や携帯電話を入れて、ちょっとしたお出かけに便利です。

    お弁当箱とマイボトルがちょうど入るサイズですので、
    ランチタイム用のサブバッグとしてもぴったりです。

    缶バッジやキーホルダーをつけて、自分好みにアレンジするのもオススメ。

    プリントしてあるイメージは、
    『吾輩ハ猫デアル』初版本上編表紙(橋口五葉装丁)からデザインしました。
    特に、ナチュラルは初版本の雰囲気が出せるよう、
    完成までに何度も色味を調整しました。

    ネイビーとナチュラルでは素材感が少し異なりますので、
    ぜひミュージアムショップの見本を手に取ってご覧ください。

    テーマ:お知らせ    
  • 《特別展》救い出された文学コレクション‐亘理町・江戸家資料の世界‐ の見どころ(令和元年9月18日~11月24日)

    令和元(2019)年9月18日(火)~11月24日(日)漱石山房記念館 2階展示室にて
    《特別展》救い出された文学コレクション‐亘理町・江戸家資料の世界‐ を開催しています。
    展示の詳細は以下のページをご覧ください。
    当館の展示情報 > 《特別展》救い出された文学コレクション‐亘理町・江戸家資料の世界‐

    救い出された文学コレクション展示の様子
    今回は、宮城県亘理町荒浜地区で、
    江戸時代から続く豪商・江戸清吉が集めた「江戸家資料」を展示しています。
    江戸清吉は、単にコレクターだけではなく、
    作家本人、あるいは、作家に近しいお弟子さんに連絡を取り、
    手に入れた資料が本物かどうか鑑定してもらうことに寸暇を惜しみませんでした。
    そんな熱心なやり取りの手紙やはがきをご覧いただけます。

    展示の資料で目玉は、
    夏目漱石が漱石山房原稿用紙を使用して執筆した作品のなかで、現存するもっとも古い原稿「文鳥」です。
    橋口五葉によって龍がデザインされた一行19文字の草色罫線の原稿用紙に書かれた原稿18枚が、
    きっちりと1冊のスクラップ帖にまとめられています。

    漱石関連資料以外でも、貴重な資料が集められており、
    国木田独歩の熱い思いが伝わる長文の恋文や森鷗外の「北條霞亭(ほうじょうかてい)」の原稿、
    新宿ゆかりの文学者である泉鏡花・田山花袋の原稿、
    そして、幕末の重要人物・勝海舟の書状も見どころの一つです。

    これらの資料は、地震や津波で被災しました。
    しかし、文化財レスキューの活動によって展示できるまでになりました。
    この活動がなければ、この展示はなかったといっても過言ではありません。
    普段、なかなか知ることができない
    文化財レスキューという活動もあわせてご紹介しています。

    ギャラリートーク(担当学芸員による展示解説)

    日時:10月19日/11月2日・16日/12月14日の各土曜日 14時~(30分程度)
    会場:漱石山房記念館2階展示室
    申込:不要 ※小中学生無料。高校生以上は観覧券が必要です。

    リーフレット

    救い出された文学コレクションのリーフレット
    《特別展》救い出された文学コレクション‐亘理町・江戸家資料の世界‐
    リーフレット(A4判 28頁)200円(税込)は、ミュージアムショップにて販売中です。

    皆さまのご来館をお待ちしております。

     

    テーマ:お知らせ    
  • 《通常展》テーマ展示「そうせきさんってどんな顔?」終了しました

    令和元年7月9日(火)から始まった
    《通常展》テーマ展示「そうせきさんってどんな顔」も、
    夏の終わりとともに、令和元年9月8日(日)で終了しました。

    期間中はたくさんの方にご来館いただき、
    漱石の顔を描いていただいたワークシートは、525枚になりました!
    毎朝、皆様の作品を展示することがスタッフの楽しみでした。
    作品で華やかになった展示室の様子がこちらです。

    そうせきさんってどんな顔?展示風景

    そうせきさんってどんな顔?展示風景

    そうせきさんってどんな顔?展示風景

    そうせきさんってどんな顔?展示風景

    ご来館、ワークシートのご参加、誠にありがとうございました。

    次回の特別展までの期間(令和元年9月10日(火)~16日(月))は、
    展示準備のため2階の展示内容を縮小して開館しています。
    ご来館の際はご注意ください。

    テーマ:お知らせ    
  • 漱石山房記念館の夏休みイベントレポート

    漱石山房記念館では夏休み向けにイベントを開催しました。
    その様子をレポートします。

    オリジナルしおりづくり 令和元年7月21日(日)14:00~17:00

    オリジナルしおりづくりを開催しました。
    おひとりやグループ、親子連れなど、
    小さなお子さまからご年配の方までたくさんの方にご参加いただきました。
    皆さん、夏目漱石の言葉の入った、自分だけのオリジナルしおりづくりに集中していました。

    20190721_しおりづくり

    オリジナルしおりづくりの様子

    20190721_しおりづくり_02

    オリジナルしおりづくりの様子

    子ども向けアルバムづくり教室 令和元年7月27日(土)10:30~12:00

    手製本家のアビコノコ氏(abc bookbinding class主催)を講師にお迎えして
    子ども向けアルバムづくり教室を開催しました。

    展示中の「そうせきさんってどんな顔?」に出品されている『漱石寫眞帖』にちなみ、
    平紐綴じの技法を学びながら、和紙や針と糸を使って写真帖(アルバム)を手づくりしました。
    当館での本格的な工作教室は初めての開催でしたが、
    小さなお子さまも、保護者の方やボランティアと協力して和やかな雰囲気で手づくりに挑戦していました。

    20190727_アルバムづくり教室

    子ども向けアルバムづくり教室の様子

    俳句入門講座 令和元年7月28日(日)10:30~12:30

    俳人の大西朋氏(俳人協会幹事・俳句結社「鷹」同人)を講師にお迎えして、
    俳句を初歩から学べる俳句入門講座を開催しました。

    小学生から年配の方まで、幅広い年齢層の方にご参加いただきました。
    講師の先生と俳句の題材を求め、漱石山房記念館館内や漱石公園を散策したり、
    充実した講座だったとご感想をいただきました。

    20190728_俳句入門講座

    俳句入門講座の様子

    20190728_俳句入門講座

    俳句入門講座の様子

    夏休み朗読会 令和元年7月21日(日)、8月17日(土)各日とも11:00~11:45

    ふみのしおり(新宿歴史博物館ボランティア朗読会)に協力していただき、
    「夢十夜(第一夜、第三夜)」、「吾輩は猫である」、「永日小品(猫の墓、柿)」の朗読会を開催しました。
    猛暑日にもかかわらず、多くの方に参加いただきました。
    今回の朗読会は両会ともイントロ当てクイズ(作品の冒頭部分を朗読し、作品名を当てるクイズ)を行い、
    小学生の方も積極的に参加して、活気のある朗読会となりました。
    さらに、イントロ当てクイズで使用する作品の初版本の名著復刻版を朗読会場(地下1階講座室)に展示し、
    朗読会終了後に実際に手に取ってご覧いただきました。
    漱石作品が発表された当時の雰囲気を味わえたとご好評でした。

    201907-08_夏休み朗読会

    夏休み朗読会の様子

    ブックトーク 令和元年8月18日(日)14:00~15:00

    西落合図書館司書の高橋氏と東氏を講師にお迎えし、ブックトークを開催しました。
    夏目漱石をテーマにクイズを交えながら、楽しく読書をすすめる方法をお話しいただきました。
    親子連れから大人の方までご参加いただき、
    西落合図書館からお持ちいただいたおすすめの本を実際に手に取ってご覧いただきました。

    20190818_ブックトーク

    ブックトークの様子

    ミステリークエスト~夏目漱石からの挑戦状~ 令和元年7月21日(日)~8月24日(土)

    西落合図書館と漱石山房記念館を舞台にした謎解きゲームイベントを開催しました。
    小中学生から大人の方まで、夏目漱石をテーマにした謎解き冊子を手に持ち、
    ミステリークエストにチャレンジしていました。

    テーマ:イベント    
  • 漱石山房記念館へは都営バスも便利です

    漱石山房記念館へのアクセスは地下鉄のほか、都営バスもご利用いただけます。
    JR新宿駅や新宿歴史博物館、JR目白駅や西落合図書館からお越しになる際は、
    「都営バス白61系統」に乗っていただき、
    「牛込保健センター前」の停留所で降りていただくと便利です。

    白61系統の路線図は都営バスのウェブページからご覧ください。
    https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/bus/

    JR新宿駅や新宿歴史博物館方面からは「白61 練馬駅・練馬車庫行」のバス、
    JR目白駅や西落合図書館方面からは「白61 新宿駅西口行」のバスに乗り、
    「牛込保健センター前」の停留所で降りて下さい。
    停留所は牛込保健センターの目の前にあります。

    バス停

    バスを降りると外苑東通りです。
    「牛込保健センター」の信号まで進んでください。
    ※草間彌生美術館や防衛省とは逆方向です。

    外苑東通り

    「牛込保健センター」の信号の左脇に
    「漱石山房記念館」と「漱石山房通り」の案内板があります。
    「漱石山房通り」へ進んでください。

    案内板

    漱石山房通り

    住宅街を進むと右側に漱石山房記念館が見えます。

    漱石山房記念館

    停留所から徒歩2分ほどで漱石山房記念館へ到着します。

    記念館入口

    暑い日が続きますので、公共交通機関を上手にお使いいただき、
    体調には充分お気をつけてご来館ください。
    みなさまのご来館を心よりお待ちしております。

    テーマ:その他    
  • 7万人目のお客様をお迎えしました

    本日、有料観覧7万人目のお客様をお迎えしました。
    当館館長(写真右)よりささやかな記念品をお贈りしました。

    来館7万人記念写真

    猛暑が続くなかでも多くのお客様にお越しいただき、誠にありがとうございます。
    今後も皆様に親しまれる、魅力的な記念館になるよう運営してまいります。
    何卒よろしくお願いいたします。

     

    テーマ:お知らせ    
  • 「ミステリークエスト~夏目漱石からの挑戦状~」に参加しよう!(令和元年7月21日~8月24日)

    ミステリークエストポスター
    「ミステリークエスト~夏目漱石からの挑戦状~」は、
    西落合図書館と漱石山房記念館を舞台にした謎解きゲームイベントです。
    今回は夏目漱石をテーマにした謎解き冊子を配布。
    西落合図書館漱石山房記念館に来館すると
    答えやヒントになっているものがわかるような問題を提示します。
    漱石山房記念館では、謎解き冊子を受付で配布しています。

    すべての謎を解いて西落合図書館に冊子を持って行くと
    記念品(缶バッチ)がもらえます!

    【イベント実施期間】2019年7月21日(日)~8月24日(土)
    【記念品引換期限】2019年8月31日(土)まで
    【記念品引換場所】西落合図書館のカウンター

    ミステリークエスト問題集
    謎解き冊子は3種類!
    問題自体は変わりませんが、ヒントの数などが違います。

    〔初級編〕小学校低学年~中学年向け ヒント2つ・ふりがなあり
    〔中級編〕小学校中学年~高学年向け ヒント1つ・ふりがなあり
    〔上級編〕中学生~高校生向け    ヒントなし・ふりがななし

    参加対象は小学生以上の児童とその保護者ですが、どなたでも、ご参加いただけます。

     

    【漱石山房記念館の観覧料】
    一般……300円
    ミステリークエスト期間中の中学生以下……無料
    ミステリークエストに参加する高校生……150円

    【漱石山房記念館の開館時間と休館日】
    10:00~18:00(入館は17:30まで)
    休館日:月曜日(月曜日が休日の場合は、直後の休日でない日)
    くわしい休館日は、漱石山房記念館年間スケジュールページの開館カレンダーをご覧ください。
    ご利用案内 > 年間スケジュール > 開館カレンダー

    【西落合図書館の開館時間と休館日】
    火曜日~金曜日 9:00~19:00
    土曜日・日曜日・祝日・休日 9:00~18:00
    休館日:月曜日(祝日・休日の場合は翌日)、館内整理日(第3木曜日。祝日・休日の場合は翌日。)
    くわしくは西落合図書館のウェブサイトをご覧ください。
    https://www.library.shinjuku.tokyo.jp/facility/nishiochiai.html

    【イベントに関するお問合せ】
    新宿区立西落合図書館(新宿区西落合4-13-17)電話 03-3954-4373

    テーマ:イベント    
  • 《通常展》テーマ展示「そうせきさんってどんな顔?」の見どころ(令和元年7月9日~9月8日)

    令和元(2019)年7月9日(火)~9月8日(日)漱石山房記念館 2階展示室にて
    《通常展》テーマ展示 そうせきさんってどんな顔?を開催しています。
    展示の詳細はこちらをクリック

    今回は夏休み期間ということで、小中学生の方にも楽しんでいただけるように、
    漱石の写真や肖像画をたくさん集めました。

    子どもの頃の漱石の写真から始まり、お見合い写真や弟子に送った猫耳の自画像、
    切手やお札、デスマスク(複製)まで、時代によって髪型やひげの形が変わったり、
    描く人によって印象がガラリと変わったり、いろいろな漱石に出会えます。

    展示室の奥には夏目漱石人形が座っています。
    この人形は、平成19年(2007)に制作した映画「ユメ十夜」のプロモーション用として、
    日活株式会社が製作したもので、同社よりNPO法人漱石山房の所有を経て、
    新宿区に寄贈されました。

    2階展示室は通常、写真撮影禁止となっていますが、
    8/10(土)と17(土)のギャラリートーク時のみ、
    夏目漱石人形の写真撮影をしていただけます。
    ご来館の記念写真にいかがでしょうか?

    ギャラリートーク(担当学芸員による展示解説)
    小中学生向けにワークシートを用いながら、展示内容を解説します。
    日時:8月10日・17日の各土曜日 14時~(20分程度)
    会場:漱石山房記念館2階展示室
    申込:不要 ※小中学生無料。高校生以上は観覧券が必要です。

    小中学生は7月23日(火)~8月23日(金)および土日祝日は入館料が無料です。
    夏休みはぜひ親子で漱石山房記念館へお越しください。

    テーマ:お知らせ    
  • 駅社員がおススメの銭湯と沿線スポット巡りスタンプラリー(令和元年6月17日~7月21日)

    山道を登りながら、こう考えた。
    智に働けば角が立つ。
    情に掉させば流される。
    意地を通せば窮屈だ。
    とかくに人の世は住みにくい

    この書き出しで有名な夏目漱石の作品「草枕」は、温泉が舞台となります。
    ちょうど良い湯加減の湯船につかると、思わず声が出るくらい幸せな気分になりますね。

    ただいま、東京地下鉄株式会社(東京メトロ)では、
    東西線落合駅から飯田橋駅間にて、
    東京メトロ駅社員がおススメの銭湯・沿線スポットを紹介し、
    東西線沿線の新たな魅力をお伝えする、
    まだ見ぬ東西線の旅!~落合から飯田橋~
    「駅社員がおススメの銭湯と沿線スポット巡りスタンプラリー」
    2019年7月21日(日)まで実施中です。

    当館(漱石山房記念館)は、スタンプラリー達成賞の交換所です。
    スタンプラリー達成賞として、東京メトロオリジナル手ぬぐいを、先着5,000名様にお渡ししています。
    達成賞交換期限は、2019年7月23日(火)までです。

     

    テーマ:イベント    
  • 漱石公園のアジサイが見頃です

    漱石山房記念館に隣接している漱石公園のアジサイが見頃をむかえています。
    猫塚のうしろに白と青と紫の3種類の色のアジサイが咲いているほか、
    公園の入り口付近にはガクアジサイもあります。
    雨の日は漱石山房記念館の地下1階にある多目的スペースからも、
    ガラス越しに鮮やかなアジサイをご覧いただけます。

    アジサイ

    ガクアジサイ

    漱石公園の入り口では、バショウが花をつけています。
    2メートルを超えるほど高くのびて、力強く葉を広げているバショウの姿は、
    漱石山房記念館内に再現されたベランダ式回廊からもご覧いただけます。
    青々とした初夏の庭の景色をお楽しみください。

    バショウの花

    バショウ

    テーマ:お知らせ    
  • 猫たちのご案内

    夏目漱石作品の中にはがたくさん登場します。

    「吾輩は猫である」には、
    我輩は波斯(ペルシャ)産の猫のごとく黄を含める淡灰色に漆のごとき斑入りの皮膚を有している。

    「硝子戸の中」の中でも、
    ある人が私の家の猫を見て、「これは何代目の猫ですか」と訊いた時、
    私は何気なく「二代目です」と答えたが、あとで考えると、
    二代目はもう通り越して、その実三代目になっていた。
    初代は宿なしであったにかかわらず、ある意味からして、だいぶ有名になったが、
    それに引きかえて、二代目の生涯は、主人にさえ忘れられるくらい、短命だった。(中略)
    その後へ来たのがすなわち真黒な今の猫である。

    そんな様々な猫たちが、漱石山房記念館の展示順路をご案内しています。

    猫の足跡

    再現展示入り口の猫

    猫塚の方を見る猫

    階段を上る猫

    展示をご覧になりながら、この猫たちにも会いに来てください。
    そして、夏目漱石作品の中の猫探しもしてみてはいかがでしょうか。

    テーマ:漱石について    
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