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  • ≪通常展≫テーマ展示「松岡譲の漱石研究‐岳父への想い‐」開幕しました

    漱石山房記念館に隣接する漱石公園の桜の花びらが舞い散る中、
    ≪通常展≫テーマ展示「松岡譲の漱石研究-岳父への想い-」が開幕しました。

    松岡譲の漱石研究看板

    松岡譲は、『漱石の印税帖』や『ああ漱石山房』など、
    夏目漱石に関する数多くの著作で親しまれている作家です。
    漱石とのはじめての出会いは大正4(1915)年、
    漱石山房で開かれていた文学サロン「木曜会」の時で、
    漱石と松岡の交流は約1年という短いものでしたが、
    漱石はその後の松岡の作家活動に大きな影響を与えました。
    生涯を通じて漱石研究に没頭した松岡が、岳父・漱石について記した文章をとおして、
    松岡からみた漱石像に迫ります。

    今回は平成29(2017)年に松岡の娘で漱石の孫にあたる半藤末利子氏から寄贈された
    「松岡・半藤家資料」を中心に展示しています。
    松岡譲『漱石先生』(岩波書店 昭和9年)に収録された「猫の墓」の原稿は、
    今回初めてお披露目する松岡譲の直筆資料です。
    その横には夏目漱石が門下生で俳人の松根東洋城に宛てた、
    「吾輩は猫である」のモデルとなった猫の死亡を知らせたはがきを展示しています。

    「猫の墓」とはこの猫の十三回忌にあたる大正9(1920)年に、
    夏目家で飼われた生き物たちを供養するため、
    漱石の長女・筆子の夫・松岡譲が造らせたものです。(注1)
    なお、このはがきは5月7日(金)以降はレプリカを展示予定ですので、
    実物をご覧になりたい方は5月5日(水)までにお越しください。

    また、新収蔵品のコーナーには、
    令和2年度に新しく収蔵した松岡譲≪漱石山房図≫(昭和18(1943)年 紙本着色)をはじめ、
    夏目家旧蔵の着物や、漱石が使用していた硯など、漱石ゆかりの資料を初公開しています。

    漱石公園猫の墓

    漱石公園の桜はそろそろ葉桜になりそうですが、新緑が美しい季節になりました。
    お散歩がてらぜひご来館ください。

    (注1)現在、漱石山房記念館に隣接する漱石公園にある猫の墓(猫塚)は、
    昭和20(1945)年の空襲で損壊した残欠を再興したものです。

    テーマ:お知らせ    
  • ボランティアレポート7 「硝子戸の中」について(後編)

    漱石山房記念館では、ボランティアガイドが漱石の書斎の再現展示室の展示解説を行っていましたが、
    現在は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、休止しています。
    そこで、この吾輩ブログではボランティアガイドによるレポートをお届けしてまいります。

    夏目漱石「硝子戸の中」は漱石が晩年に住んだ早稲田の漱石山房の書斎で書いたものです。
    この小品に出て来るお寺、神社、建物、地名等は今でも残っています。
    前編の記事はこちらをクリック

    当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人家のない茶畠とか、
    竹藪とかまたは長い田圃路とかを通り抜けなければならなかった。
    買物らしい買物は大抵神楽坂まで出る例になっていたので、
    そうした必要に馴らされた私に、さした苦痛のあるはずもなかったが、
    それでも矢来の坂を上って酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出ようという、
    あの五、六町の一筋道などになると、昼でも陰森として、大空が曇ったように始終薄暗かった。
    (夏目漱石「硝子戸の中」二十より)

    牛込馬場下横町(現、新宿区喜久井町)辺りに住む人達の買い物は神楽坂へ行くのですが、
    矢来の坂を上り小浜藩酒井若狭守の屋敷の横を通って寺町を抜けるのです。
    幕府から拝領した屋敷は竹矢来で囲われたことから、現在の矢来町の名の由来となっています。

    今私の住んでいる近所に喜久井町という町がある。
    (中略)この町は江戸といった昔には、多分存在していなかったものらしい。
    江戸が東京に改まった時か、それともずっと後になってからか、
    年代はたしかに分らないが、何でも私の父が拵えたものに相違ないのである。
    私の家の定紋が井桁に菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという話は、
    父自身の口から聴いたのか、または他のものから教わったのか、何しろ今でもまだ私の耳に残っている。
    (中略)私が早稲田に帰って来たのは、東京を出てから何年ぶりになるだろう。
    (中略)私は昔の早稲田田圃が見たかった。しかし其所はもう町になっていた。
    私は根来の茶畠と竹藪を一目眺めたかった。しかしその痕跡はどこにも発見することが出来なかった。
    多分この辺だろうと推測した私の見当は、当たっているのか、外れているのか、それさえ不明であった。
    (夏目漱石「硝子戸の中」二十三より)

    漱石が十数年振りに生家のあった喜久井町を訪れると町は大きく変わっていて、
    根来(現・新宿区弁天町)の方まで拡がっていました。
    根来は江戸時代に幕府の鉄砲隊「根来組」の屋敷があった所です。
    喜久井町は夏目家の定紋が「井桁に菊」(正式には「平井筒に菊」)なのでそれにちなんで町名とし、
    更に近くの坂にも夏目の名をつけました。
    両方ともこの地域の区長を勤めていた、夏目漱石の父・夏目直克が付けたのです。
    夏目漱石誕生の地

    まだ鶯が庭で時々鳴く。春風が折々思い出したように九花蘭の葉を揺かしに来る。
    猫がどこかで痛く嚙まれた米嚙を日に曝して、あたたかそうに眠っている。
    先刻まで庭で護謨風船を揚げて騒いでいた小供たちは、みんな連れ立って活動写真へ行ってしまった。
    家も心もひっそりとしたうちに、私は硝子戸を開け放って、
    静かな春の光に包まれながら、恍惚とこの稿を書き終るのである。
    そうした後で、私はちょっと肱を曲げて、この縁側に一眠り眠るつもりである。
    (夏目漱石「硝子戸の中」三十九より)

    冬の始めに書き始めた随筆も、春先の長閑な庭先を眺めながら終わります。
    早稲田南町の家の跡地には現在、新宿区立漱石山房記念館(新宿区早稲田南町7番地)が建っています。

    漱石山房記念館

    参考文献:『夏目漱石全集 9』1971年 筑摩書房
    ※引用文の表記は岩波文庫『硝子戸の中』(1933年初版、1990年改版)に従いました。

    (漱石山房記念館ボランティア:立脇清)

     

    テーマ:その他    
  • ボランティアレポート6 「硝子戸の中」について(前編)

    漱石山房記念館では、ボランティアガイドが漱石の書斎の再現展示室の展示解説を行っていましたが、
    現在は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、休止しています。
    そこで、この吾輩ブログではボランティアガイドによるレポートをお届けしてまいります。

    「硝子戸の中から外を見渡すと、霜除をした芭蕉だの、
    赤い実の結った梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、
    その他にこれといって数え立てるほどのものは殆んど視線に入って来ない。」

    と冬の庭の景色から始まる小品「硝子戸の中」は
    漱石が晩年に住んだ早稲田の漱石山房の書斎で書いたものです。
    この小品に出て来るお寺、神社、建物、地名等は今でも残っています。

    ヘクトーは元気なさそうに尻尾を垂れて、私の方へ脊中を向けていた。
    (中略)彼がいなくなって約一週間も経ったと思う頃、一、二丁隔ったある人の家から下女が使に来た。
    その人の庭にある池の中に犬の死骸が浮いているから引き上げて頸輪を改ためて見ると、
    私の家の名前が彫り付けてあったので、知らせに来たというのである。
    (中略)私は下女をわざわざ寄こしてくれた宅がどこにあるか知らなかった。
    ただ私の子供の時分から覚えている古い寺の傍だろうとばかり考えていた。
    それは山鹿素行の墓のある寺で、山門の手前に、旧幕時代の記念のように、古い榎が一本立っているのが、
    私の書斎の北の縁から数多の屋根を越して能く見えた。
    (夏目漱石「硝子戸の中」五より)

    早稲田南町の家で飼っていた犬のヘクトーがいなくなって一週間程経つと、
    寺の傍に住む女性が池に犬が浮いていると知らせてくれたのです。
    この寺は新宿区弁天町にある曹洞宗宗参寺のことです。
    境内には国の指定史跡「山鹿素行墓」と東京都指定史跡「牛込氏墓」、
    そして乃木希典の遺愛の梅「春日野」があります。
    宗参寺「春日野」

    彼は昔し寺町の郵便局の傍に店を持って、今と同じように、散髪を渡世としていたことが解った。
    「高田の旦那などにも大分御世話になりました」その高田というのは私の従兄なのだから、私も驚いた。
    (中略)「あのそら求友亭の横町にいらしってね、……」と亭主はまた言葉を継ぎ足した。
    「うん、あの二階のある家だろう」
    「ええ御二階がありましたっけ。あすこへ御移りになった時なんか、
    方々様から御祝い物なんかあって、大変御盛でしたがね。
    それから後でしたっけか、行願寺の寺内へ御引越なすったのは」
    この質問は私にも答えられなかった。
    (夏目漱石「硝子戸の中」十六より)

    漱石が未だ子供の頃、従兄が牛込肴町(現、新宿区神楽坂5丁目)にある
    行元寺(原文、行願寺)の傍に住んでいました。
    行元寺は鎌倉時代からある天台宗の寺で、牛込氏の信仰を受けていましたが、
    明治40年に区画整理のため品川区西五反田4丁目へ引っ越しました。
    神楽坂にあった行元寺の跡地は花街となり、
    さらに現在は「寺内公園」という小さな公園になっていて、詳しい説明板があります。
    寺内公園

    私の旧宅は今私の住んでいる所から、四、五町奥の馬場下という町にあった。
    (中略)それから坂を下り切った所に、間口の広い小倉屋という酒屋もあった。
    (中略)堀部安兵衛が高田馬場で敵を打つ時に、此処へ立ち寄って、
    枡酒を飲んで行ったという履歴のある家柄であった。
    (中略)半町ほど先に西閑寺という寺の門が小高く見えた。
    赤く塗られた門の後は、深い竹藪で一面に掩われているので、
    中にどんなものがあるか通りからは全く見えなかったが、
    その奥でする朝晩の御勤の鉦の音は、今でも私の耳に残っている。
    ことに霧の多い秋から木枯の吹く冬へ掛けて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音は、
    何時でも私の心に悲しくて冷たい或物を叩き込むように小さい私の気分を寒くした。
    (夏目漱石「硝子戸の中」十九より)

    漱石の生れた家は晩年に過ごした早稲田南町から四五町(500m)さきの
    牛込馬場下横町(現、新宿区喜久井町)にありました。
    跡地には門下生の安倍能成の揮毫した碑が立っています。
    江戸時代この辺りは辺鄙な所で西側の下高田村に「墨引」があったのです。
    「墨引」とは江戸御府内のおおよその境界を示すもので、
    絵図に黒色の線がひかれていて、幕府が定めたものでした。
    それでも土蔵造りの家が三四軒あり、生家の近くに酒屋があって、
    堀部安兵衛は助太刀に行く途中にこの店で枡酒を飲んだのです。
    そこから少し西に行くと高田八幡神社(穴八幡宮:新宿区西早稲田2丁目)があります。
    漱石が癇癪を起すと妻の鏡子が虫封じの札を貰ってきた神社です。
    その横が八幡坂で以前やっちゃ場がありました。
    「やっちゃ場」は青物市場の通称で、言葉の由来は「野菜場」ではなく、競り人の掛け声からきたものです。
    近くにあるもう一つの坂、夏目坂を少し上ると誓閑寺(原文、西閑寺:新宿区喜久井町)があります。
    浄土宗のお寺で境内には新宿区指定有形文化財に指定されている区内最古の梵鐘がありますが、
    漱石が「硝子戸の中」で書いている「御勤の鉦」とはこの梵鐘のことではありません。
    後編へつづく

    参考文献:『夏目漱石全集 9』1971年 筑摩書房
    ※引用文の表記は岩波文庫『硝子戸の中』(1933年初版、1990年改版)に従いました。

    (漱石山房記念館ボランティア:立脇清)

    テーマ:その他    
  • ボランティアレポート5 木曜会の人びと

    漱石山房記念館では、ボランティアガイドが
    漱石の書斎の再現展示室の展示解説を行っていましたが、
    現在は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、休止しています。
    そこで、この吾輩ブログではボランティアガイドによるレポートをお届けしてまいります。

    漱石山房記念館ボランティアガイドの解説場所の一つが、1階にある漱石の書斎の再現展示室です。
    「山房」とは書斎を意味し、当時のままに再現されたそこはまさに記念館の心臓とでもいうべき場所です。
    ここに着いたお客さまは必ず立ち止まり、説明キャプションを読み、音声案内に耳を傾けます。
    書斎の対面には津田青楓画「漱石山房と其弟子達」のパネルが飾ってあります。
    この部屋は、当時も漱石に会いにたくさんの人びとが訪れていた客間でした。

    漱石山房記念館再現展示室

    漱石のもとを訪れたのは熊本時代や東京帝大での教え子だけでなく、画家や実業家などさまざまでした。
    門下生の一人、小宮豊隆は著書『夏目漱石 中』(岩波書店、昭和13年初版)の「門下生」の中で、
    訪問者に対する漱石の態度を
    「地位だの名声だのではなく、純粋に「人」だけを愛し愛されることを欲した漱石は(中略)
    純粋に漱石の「人」だけを慕って来る客を喜び」
    と書いています。
    さらに小宮は同書で、漱石が明治37(1904)年7月20日に野間真綱に宛てた書簡から
    「脵野大観先生卒業。彼いふ。訪問は教師の家に限る。かうして寐転んで話しをしてゐても小言を言はれないと。
    僕の家にて寐転ぶもの、曰く脵野大観曰く野村伝四。半転びをやるもの、曰く寺田寅彦曰く小林郁。
    危坐するもの曰く野間真綱曰く野老山長角」
    という一節をひいて、
    「漱石は人を心置きなく寐ころばせるようなものを持っていたのである」
    と書いています。
    この手紙は漱石山房に転居する前のものですが、
    漱石のもとを訪れた人々はまったく津田青楓の画のようにリラックスしていたのではないでしょうか。
    私には漱石が「作家」としてというよりも「教師」として、
    いやもはや「家族」として人々を受け入れていたように思えてなりません。

    しかし、あまりの来客の多さに明治39(1906)年、
    鈴木三重吉の発案で木曜日午後3時以後を面会日と定め「木曜会」が発足します。
    ところが漱石人気は衰えず、木曜日にも人が来ればそれ以外にも来て、
    結局は同じだったと、笑い話のようなエピソードも残っています。
    この木曜会は明治40(1907)年に早稲田南町の漱石山房に転居した後も続きました。

    さて、皆さまは「木曜会の人びと」の作品をご存じでしょうか?
    新宿歴史博物館ボランティアガイドで結成された朗読の会「ふみのしおり」では、
    ただ今「木曜会の人びと」をテーマとした朗読会を企画中です。

    ふみのしおり

    高浜虚子「丸の内」、寺田寅彦「団栗」、鈴木三重吉「ぶしょうもの」、
    芥川龍之介「蜜柑」、久米正雄「虎」、菊池寛「勝負事」、松岡譲「モナ・リザ」など。
    「名前は知っているけれど作品の内容は忘れてしまった……」
    とおっしゃる方に朗読でご紹介したいと思っています。

    場所は漱石山房記念館の講座室。
    今からおよそ120年前、ここ漱石山房の客間で交わされていた
    「木曜会の人びと」の会話が聞こえてくるかもしれません。

    日時が決まりましたら漱石山房記念館のWebサイトや、
    ふみのしおりのWebサイト(https://fuminoshiori.jimdosite.com/)でお知らせする予定です。
    どうぞお楽しみに。

    ※朗読会「木曜会の人びと」の開催日時が決定しました。詳細はこちらをクリック(4月1日追記)

    (漱石山房記念館ボランティア:岩田理加子)

    ※新宿区立漱石山房記念館再現展示室
    書斎内の家具・調度品・文具は、資料を所蔵する県立神奈川近代文学館の協力により再現。
    書棚の洋書は東北大学附属図書館の協力により、同館が所蔵する「漱石文庫」の蔵書の背表紙を撮影し、製作された。

    テーマ:その他    
  • 夏目漱石誕生記念オンライン朗読会、配信中

    当館では毎年、館内で活動している朗読団体にご協力いただき、
    新暦2月9日の漱石の誕生日を記念した朗読会を開催して参りました。
    しかし、今年は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、
    朗読動画をインターネット上で配信する、
    オンライン朗読会という形で実施することにいたしました。

    毎年ご協力いただいている朗読団体の皆様から、
    動画にご出演いただける方を募ったところ、
    4団体8名の方にご協力いただけることになりました。
    撮影は2020年11月の休館日を使って行いました。
    せっかくの機会ですので、朗読作品の内容に合わせて、
    通常はイベント会場として使用していない、
    館内の様々な場所で朗読をしていただき、
    バリエーション豊かな6本の朗読動画が出来上がりました。

    朗読の撮影風景

    朗読の撮影風景

    撮影風景

    朗読の動画はYouTubeチャンネル「レガスちゃんねる by新宿未来創造財団」で配信しています。
    以下からどなたでもインターネットで視聴できますので、ぜひご覧ください。

    【漱石山房記念館夏目漱石誕生記念オンライン朗読会】

    ・夏目漱石「草枕」四より 神楽坂朗読サロン 鈴木千秋・堀悠子
    ↓こちらの画像をクリック

    ・「漱石先生の書簡」野間脩平編纂 近代文学をたずねて~沙羅の木~ 野間脩平・浪久圭司
    ↓こちらの画像をクリック

    ・夏目漱石「虞美人草」十八、十九より フォーエバーリーディング 野口孝枝
    ↓こちらの画像をクリック

    ・夏目漱石「こころ 上 先生と私」三十、三十一より フォーエバーリーディング 葉月のりこ
    ↓こちらの画像をクリック

    ・夏目漱石「永日小品」より「火鉢」ふみのしおり(新宿歴史博物館ボランティアガイド朗読の会)中井芙美子
    ↓こちらの画像をクリック

    ・夏目漱石「夢十夜」より「第九夜」ふみのしおり(新宿歴史博物館ボランティアガイド朗読の会)新見成子
    ↓こちらの画像をクリック

    テーマ:お知らせ    
  • 12月9日は漱石忌です

    明日12月9日は漱石忌です。
    夏目漱石は大正5(1916)年12月9日に、
    現在は新宿区立漱石山房記念館が建つ、
    ここ早稲田南町の家で49歳で亡くなりました。
    今年(2020年)は没後104年になります。

    当館では昨年に続いて、漱石のお墓がある
    雑司ケ谷霊園の文学さんぽを予定していましたが、
    新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、
    残念ながら今年はイベントの開催を見送り、
    お墓掃除をしてまいりました。

    漱石のお墓

    漱石山房記念館から雑司ケ谷霊園へは、
    「牛込保健センター前」バス停から都バス白61系統「練馬車庫行」に乗り、
    「鬼子母神前」バス停で下車する行き方が便利です。
    詳細は漱石山房記念館の受付でもご案内いたしますので、
    ご来館の際にお問合せください。

    テーマ:漱石について    
  • ボランティアレポート4 漱石山房への小路

    漱石山房記念館では、ボランティアガイドが
    漱石の書斎の再現展示室の展示解説を行っていましたが、
    現在は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、休止しています。
    そこで、この吾輩ブログではボランティアガイドによるレポートをお届けしてまいります。

    いつも見慣れた景色が、ある日ある時、見違えるほどきれいだった……とは、
    誰もが経験されることでしょう。

    私たち一家は2010年4月、ここ早稲田へ当時6歳の愛犬とともに越してきました。
    それから昨年5月までのほぼ毎日、
    宗参寺から漱石山房記念館を回る小路を愛犬と散歩しました。

    昨年の麗らかな春の午後でした。
    いつも見慣れた漱石山房記念館への坂道が、春の日差しに輝いていました。
    毎日散歩する路がまるで違っていたのです。
    思わずそこを進みました。

    漱石山房への小路

    漱石山房記念館は小さな丘の上にあります。
    行こうとすれば、どこからでも坂道を上ることになります。
    上ると通りから一歩、控えた場所にあり、謙虚な佇まいです。
    漱石が住んでいた当時の山房も、芥川龍之介の「漱石山房の秋」に
    「門をくぐると砂利が敷いてあつて(略)
    砂利と落葉とを踏んで玄関へ来ると(略)
    蔦の枯葉をがさつかせて、呼鈴(ベル)の鈕(ボタン)を探さねばならぬ」
    とあり、やはり奥まっていたということでしょう。
    夏目漱石もそんな控えめな人だったのでは、と思わせます。

    かつて、多くの人々が漱石を訪ねました。
    漱石のもとに行けば何かある……と、誰もが何かを求めて坂道を上ったことでしょう。
    その時の坂道は、私が見たように輝いていたのではないでしょうか。

    麗らかなその日、坂の上で私が見たのは、
    漱石山房記念館の隣、漱石公園にひっそりと咲く桜でした。
    誰に見られずとも、咲く時が来たので……という飾らぬ姿でした。
    しばし、その可憐で清らかな美しさを眺めていると、
    心の中に、ぽぅっと灯るものがありました。
    これを教えたくて、山房への小路が輝いていたのだ、と思ったのでした。
    ほのぼのとした気持ちで坂を下り、家へ帰りました。
    山房に漱石を訪ねた人々もきっと同じ。
    漱石という人に接し、心に何かが灯り、
    温かな気持ちを抱えて坂道を帰っていったことと思います。

    猫の街燈

    漱石山房記念館は静かに住宅街に溶け込んでいます。
    そこへの小路は人や車の往来も少なく、のんびりと散策すれば、
    あなたの心にも何か温かいものが灯るかも……。
    夕暮れには猫の街灯が優しく導いてくれますよ。

    ※漱石山房記念館のある漱石山房通りには、
    平成29年度から新宿区道路課によって猫のモチーフの街燈が設置されています。

    (漱石山房記念館ボランティア:井上公子)

    テーマ:その他    
  • ボランティアレポート3 千駄木の家

    漱石山房記念館では、ボランティアガイドが
    漱石の書斎の再現展示室の展示解説を行っていましたが、
    現在は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、休止しています。
    そこで、この吾輩ブログではボランティアガイドによるレポートをお届けしてまいります。

    本郷区駒込千駄木町57番地(現在の文京区向丘2丁目)。
    この地に明治23(1890)年~25(1892)年までは森鷗外、
    そして明治36(1903)年3月~39(1906)年12月までは夏目漱石が住んでいました。
    現在、この家は愛知県犬山市にある博物館明治村に移築されています。

    戦火を免れたこのあたり一帯は、古い木造の家が残りました。
    私が幼い頃、そんな中のひとつを指して「なつめそうせきの家」と教えられたその家は、
    ひと気もなくひっそりとしていて薄暗く、ただ苔むして緑色になった塀だけが印象に残り、
    幼い記憶ではありますが今も思い浮かべることができます。

    今は日本医科大学の橘桜会館、
    済生学舎ギャラリーの前に「夏目漱石旧居跡」の碑が残っています。
    橘桜会館の塀には猫のオブジェが乗り、
    中へ入れば猫の足跡に導かれるように木製の「夏目漱石旧居跡」が残されています。

    本郷通りと並行する漱石旧居跡前の道は「人力」こそ通りませんが、今も比較的静かです。
    「道草」の主人公・健三は物語の冒頭で、
    毎日定刻に家を出て千駄木から追分へ出る通りを本郷の方へ歩いています。
    健三が歩いた通りはこの漱石旧居前の道だと思いますが、
    漱石旧居跡を後にして右手に進むと、現在の日本医大前の四つ角に出ます。
    その右角にある和菓子店「一炉庵」は明治36(1903)年の創業です。
    朝、店の前へ差し掛かると小豆を炊く良い香りが漂ってきます。
    健三も、いや漱石もこの同じ香りを嗅いでいたのではないだろうか。
    想像すれば、昔も今も変わらぬ良い香りが共有できたようでなんとなくうれしくなります。

    一炉庵

    健三の通勤路と離れて根津裏門坂から根津神社へ。
    乙女稲荷の舞台から社殿を囲む朱と緑の透塀を眺めるといつも清々しい気持ちになります。
    長い鳥居を下りたところには「文豪の石」があり、
    漱石も、鷗外も……色々な人が腰かけたのかも知れません。
    参拝を済ませ、表参道口を右手にS字坂を上れば健三の通勤路に戻ります。
    左へ出て不忍通りを渡って坂を上ればそこは谷中です。
    文学散歩をお楽しみください。
    (漱石山房記念館ボランティア:櫻井眞里子)

    テーマ:その他    
  • 夏目漱石と書

    令和3年1月17日(日)まで開催中の
    《通常展》テーマ展示「所蔵資料展 漱石の書と書簡」のみどころを紹介します。
    展示の詳細はこちらをクリック

    漱石の書と書簡展示風景

    小説によって、西欧流の近代個人主義の確立を目指した夏目漱石は、
    一方では漢詩文を中心とした江戸時代以来の東洋的教養を学んだ人物です。
    明治の文化は、和漢洋の統一を目指しましたが、
    ヨーロッパに見本がない書の世界は、羅針盤を失った、
    いささか不安定な芸術ジャンルとなっていました。
    芸術一般に対して、一家言を持った漱石が晩年好んだ書は、
    江戸時代の僧の良寛や明月などで、言わば書家のものではない書です。
    漱石自身も、身の回りには法帖(ほうじょう・手習いの見本)や
    拓本の類は多数所有していましたが、
    それらを本格的に学んだわけではありませんでした。

    漱石の晩年、漱石山房の客間には、
    明月書の「無絃琴」の扁額が掛けられていました。
    明月は松山の僧です。
    「無絃琴」とは、唐の詩人・陶淵明(とうえんめい)が、
    酔うと弦の無い琴を愛で、心の中で演奏を楽しんだという故事に由来します。
    世俗を超越した境地を示したこの言葉は、
    漱石作品には、早く「吾輩は猫である」や「草枕」に登場しています。

    他に書斎には草書の幅がたくさんぶら下がっていました。
    それは手本とした良寛の書であったり、
    書き上がったばかりの自らの書でした。
    漱石は、揮毫する際、毛氈(もうせん)を引き、唐紙を並べて、
    そばで見ている人に墨を磨らせ、筆を運びました。
    筆は長穂の軟毛を愛用しました。
    非常に長い毛の筆も自在に操ったといいます。
    漱石の東大講師時代の教え子・金子健二の証言によれば、
    筆は高級毛筆の産地である中国湖州産のものだったといいます。
    硯と墨についても関心が高かったようです。
    漱石は一画一画に細心の注意を払いながら、ゆっくりと心静かに書きました。

    漱石は、書が出来上がると留針(ピン)で留めて、
    木曜会で集まった門下生たちに披露しました。
    門下生の重鎮・森田草平によると、
    漱石は、褒められると子どものようにほくほく喜び、
    自分の揮毫(きごう)が表装されたものを見ると、
    これまたにこにこして喜んだといいます。
    しかし、その反面、自らはその出来栄えに満足することはあまりなく、
    何枚も何枚も書き、額に汗を浮かべながら、
    長時間にわたって字を書いていました。
    漱石の純粋さとこだわりがよくわかります。

    漱石は言っています。
    「書画だけには多少の自信はある。敢て造詣が深いといふのでは無いが、
    いゝ書画を見た時許りは、自然と頭が下るやうな心持がする。
    人に頼まれて書を書く事もあるが、自己流で、別に手習ひをした事は無い。
    真の恥を書くのである。」(夏目漱石「文士の生活」)

    展示は、「短冊の書」「作品の書」「書簡の書」の3部構成とし、
    館蔵資料のなかから漱石直筆の資料を展示しています。
    参考資料として、門下生他の漱石の書についての証言も集めました。

    ※11月17日(火)より、一部展示替えを行い、後期展示となります。
    後期の展示では、世田谷文学館より漱石の書軸等をお借りして展示します。
    是非、ご覧下さい。

    テーマ:漱石について    
  • ボランティアレポート2 猫の墓

    漱石山房記念館では、ボランティアガイドが
    漱石の書斎の再現展示室の展示解説を行っていましたが、
    現在は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、休止しています。
    そこで、この吾輩ブログではボランティアガイドによるレポートをお届けしてまいります。

    11年飼っていた猫が8月末に亡くなりました。
    突然、具合が悪くなったのではありません。
    1年前、猫は後足に血栓ができ危うく命を落とすところだったのです。
    その後何とか生き延びましたが、今年の暑い夏は越せませんでした。
    私は昨年の4月に、漱石山房のボランティアになりました。
    猫が1年前倒れたとき、漱石の猫の墓のことが頭に浮かびました。
    そして漱石が詠んだ俳句のことも。
    此の下に稲妻起こる宵あらん
    和田利男「漱石の鳥獣悼亡句」(『漱石の詩と俳句』めるくまーる社、1974年)によると、
    「明治41年9月、例の『吾輩は猫である』のモデルにされた猫が死んだ。
    この句はその猫の墓標に漱石が書いてやったものである。
    『永日小品』の中に「猫の墓」という一章があり、
    「早稲田へ移つてから、猫が段々瘠せて来た。」という書き出しで、
    しだいに弱って行って遂に死に至るまでの容態がくわしく描写されている(中略)
    「稲妻」はこの句の季語になっているが、
    実は夜空の電光そのものをいっているのではなく、
    ここでは猫の目の光の比喩として用いたものである」
    とあります。
    この句について和田氏はさらに
    「滅びゆく生命の火花を双の目にともした猫の最期の憐れさが、
    漱石の眸裡にいつまでも焼きついていたに違いない。」
    としています。
    また、大正3(1914)年に漱石は
    ちらちらと陽炎立たちぬ猫の塚
    と詠んでいます。
    「此の下に」の句から6年余の歳月が流れていますが、
    漱石が生死の境を彷徨した修善寺の大患もその間にありました。

    猫の墓

    私の話にもどります。
    猫が1年前、生死の境をさまよっている頃、
    私も漱石のように猫が亡くなったら俳句を作ってみようかと思いました。
    しかし頭に浮かびませんでした。
    ちょうど書道教室に通い始めた頃でしたので、
    かわりに猫を詠んだこの2句を書いてみることにしました。
    その後1年間、猫は家の近くの犬猫病院に通院し、
    この夏再び入院することになりました。
    するとすぐに病院から呼ばれ、駆けつけましたが間に合いませんでした。
    亡くなった亡骸を、タオルケットに包み、両手で抱いて病院を出ました。
    まだ温かく生きているようでした。
    しかし妙に重く感じました。
    そういえば今までこんなに長く抱いたことがなかったことに気づきました。
    猫は抱かれるのが好きではなかったのです。
    人間と同じように四十九日後、両親がねむる墓の中に入れました。
    子猫のときから世話をした妻には、
    漱石山房で買った猫のコーヒーカップを贈ることにしました。

    注1:現在、漱石山房記念館に隣接する漱石公園にある猫の墓(猫塚)は、
    『吾輩は猫である』のモデルとなった猫の十三回忌にあたる大正9(1920)年に、
    夏目家で飼われた生き物たちを供養するため、
    漱石の長女・筆子の夫・松岡譲が造らせたものが、
    昭和20(1945)年に空襲で損壊し、
    その残欠を利用して昭和28(1948)年に再興されたものです。

    (漱石山房記念館ボランティア:松本民司)

    テーマ:その他    
  • ボランティアレポート1 「漱石山房記念館」開館の思い出

    漱石山房記念館では、ボランティアガイドが
    漱石の書斎の再現展示室の展示解説を行っていましたが、
    現在は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、休止しています。
    そこで、この吾輩ブログではボランティアガイドによるレポートをお届けしてまいります。

    今から丁度3年前、平成29年9月24日(日)に、
    夏目漱石没後100年(平成28年)及び生誕150年(平成29年)を記念して、
    早稲田南町に「漱石山房記念館」がオープンしました。
    当日、私はボランティアガイドの為、
    近くのお店でコーヒーを飲みながら研修書を読み直し、
    地階から2階までの展示図をしっかりと頭に入れました。
    その日は朝から天気も良く、9時半頃出陣すると、
    玄関前には既に50人程の入場整理券を手にした人達が並んでいました。
    矢張り相当な人気がある模様です。

    現在のボランティアガイドは主に漱石の書斎の再現展示室を解説していますが、
    オープン直後は館内数箇所の解説をしており、私の担当は2階展示室で、
    明治大正に出版された漱石の作品『吾輩ハ猫デアル』、
    『虞美人草』、『三四郎』などの貴重な資料が並んでいました。
    さらに門下生との書簡や絵葉書、漱石の原稿や遺品、
    作品の解説、漱石の人脈図等々、
    まさに記念館の本丸のような展示品です。
    未だ入館者の居ない静かな展示室に立つと、
    何回も研修して来た事が懐かしく思い出されました。
    オープン初日は人が多く、ほとんど解説をする事もなく、
    来館者の誘導が主な仕事でしたが、
    10月~11月になると次第に来館者数も落ち着き、
    ゆっくりとガイドをする事が出来ました。

    その時の印象的なエピソードを一つ、思い出してみます。
    ある日、私が漱石の書斎の再現展示室でガイド待機中に、
    一人の男性が質問にいらっしゃいました。
    「漱石の書斎の右側にある調度品は何ですか?」
    この質問は初めてでした。

    ご質問をいただいた調度品

    私は漱石がロンドンから持ち帰った家具かと思っていましたが、男性は
    「私はインテリアを扱っている者ですが、ちょっと調べさせてください。」
    と希望されたので、事務室にご案内しました。
    職員がその男性のお話をお伺いしたところ、
    後日調査をしたいということになり、
    しかるべき手続きの後に、詳しく調査をされたそうです。
    その結果、辞書などの分厚い書物を読むための
    「書見台」ではないか?ということがわかりました。

    そのほかにも開館直後の時期はたくさんの質問を受け、
    色々な方とお話をすることができました。
    英国留学時代の漱石のブルー・プラーク
    (イギリスで著名人がかつて住んだことがある建物に設置されている銘板)
    をご覧になったという、ロンドンに住んだ事のある方。
    「夢十夜」を朗読するために勉強にいらっしゃったという方。
    漱石ゆかりの地を廻っているという方には、神楽坂の地図をお渡ししました。
    当然の如く博識の方が多く、この得難き貴重な体験を大事にしようと思いました。

    (漱石山房記念館ボランティア:立脇清)

    テーマ:その他    
  • 漱石山房記念館がマンガに登場しています

    株式会社KADOKAWAが発行するWebコミック配信サイト『コミックNewtype』で
    連載中のマンガ『真夜中のオカルト公務員』は、アニメ化もされるなど人気の作品で、
    現在、コミックスは第13巻まで発行されています。

    真夜中のオカルト公務員13巻

    主人公は新宿区役所の「夜間地域交流課」の職員として、
    先輩たちと一緒に人ならざるものが関与するオカルト的事象を解決していきます。
    物語はフィクションですが、作品中には新宿区役所はもちろん、
    新宿御苑や箱根山など、新宿区内の風景がリアルに描きこまれています。
    令和2年8月25日にWeb配信された第54話と9月22日に配信予定の第55話は、
    漱石山房記念館が舞台になっているお話です。

    漱石山房記念館外観

    作者のたもつ葉子先生は漱石山房記念館に来館され、
    ご自身で取材された資料をもとに描いてくださいましたので、
    本物そっくりの漱石山房記念館が登場しています。

    導入展示

    最新話は以下のWebサイトで無料で読むことができます。
    コミックNewtype 『真夜中のオカルト公務員』
    https://comic.webnewtype.com/contents/occult/
    作品と本物を見比べてみるのも面白いかもしれません。

    導入展示

     

    テーマ:お知らせ    
  • 博物館実習生によるレポート5 漱石公園をご紹介します

    新宿区立新宿歴史博物館では、
    学芸員資格の取得を目指す博物館実習生を受け入れています。
    令和2年度は5人の実習生が参加して、10日間の博物館実習が行われました。
    新宿歴史博物館内だけでなく、漱石山房記念館でも実習を行いましたので、
    実習生による漱石山房記念館のレポートをお届けします。

    本日は漱石公園をご紹介します。
    漱石公園は漱石山房記念館に隣接されており、
    記念館を出て左にあるスロープを下ると、
    夏目漱石の胸像がある入口が見えてきます。

    夏目漱石胸像

    中に入ると、都心の市街地にも関わらず自然を感じることができます。
    漱石公園の中央には『吾輩は猫である』のモデルとなった「福猫」や文鳥など、
    夏目家で飼われていた生き物たちを供養するために建てられた「猫の墓(猫塚)」があります。

    猫の墓

    漱石公園には桜やアジサイなど、鮮やかに咲く花があり、
    花が咲く季節にはとても見応えがあります。
    しかし、バショウやサルスベリ、ハゲイトウといった
    夏目漱石の作品内に出てくる様々な植物も見ものです。
    植物のネームプレートには、
    夏目漱石がどの作品でその植物を登場させたかを見られるものもあり、
    漱石のことを知ることができます。

    漱石公園

    植物は漱石公園内の他にも、漱石山房記念館の入り口脇にも植えられており、
    そこにもザクロや柿などの漱石の作品に登場した植物が植えられています。
    ぜひご利用ください。
    (博物館実習生:保屋野)

    テーマ:その他    
  • 博物館実習生によるレポート4 図書室について

    新宿区立新宿歴史博物館では、
    学芸員資格の取得を目指す博物館実習生を受け入れています。
    令和2年度は5人の実習生が参加して、10日間の博物館実習が行われました。
    新宿歴史博物館内だけでなく、漱石山房記念館でも実習を行いましたので、
    実習生による漱石山房記念館のレポートをお届けします。

    本日は漱石山房記念館の地下1階にある、図書室についてご紹介します。
    漱石作品はもちろん関連図書も豊富で、なんと約3500冊もの図書があります。
    閲覧のみで貸出はしていませんが、コピーを取ることができます。

    図書室入口

    図書室内の様子です。棚の上から下まで本がずらりと並んでいます。
    室内は明るく、開放的な造りなのも魅力です。
    閲覧スペースがあるので、落ち着いて本を読むこともできます。
    手の届かない上段の本は、職員に声をかけてお取りくださいね。

    図書室内風景

    こちらは漱石作品の初版本、ではなくその復刻版です。
    『名著復刻 漱石文学館』というシリーズで刊行されました。
    つい手に取りたくなるような綺麗な装丁に、
    実際に触れることが出来るのは復刻版ならではです。
    ぜひ手に取って読んでみてください。
    本物の初版本の一部は2階の常設展示に展示しています。

    名著復刻漱石文学館

    図書室の外には「新宿区立図書館蔵書検索システムOPAC」と
    「漱石山房記念館情報検索システム」があります。
    「OPAC」では館内図書室の蔵書検索ができます。

    OPAC

    「漱石山房記念館情報検索システム」は新宿区の所蔵資料だけでなく、
    全国の漱石関連資料を調べることもできます。
    他にも「漱石事典」では漱石に関する豆知識や、
    作品の解説なども見ることができます。
    こちらでしか利用できないシステムなので、
    訪れた時にはぜひ利用してみてください。

    漱石山房記念館情報検索システム
    (博物館実習生:和田)

    テーマ:その他    
  • 博物館実習生によるレポート3 「あの言葉を持ち帰りたい」

    新宿区立新宿歴史博物館では、
    学芸員資格の取得を目指す博物館実習生を受け入れています。
    令和2年度は5人の実習生が参加して、10日間の博物館実習が行われました。
    新宿歴史博物館内だけでなく、漱石山房記念館でも実習を行いましたので、
    実習生による漱石山房記念館のレポートをお届けします。

    漱石山房記念館の二階では、漱石が残した言葉をパネルで展示しています。
    漱石の言葉展示
    展示をご覧になったお客様から
    「あの言葉を持ち帰りたい」というご意見に応えて作られたのが、
    現在ミュージアムショップに並べられている、活版印刷メモ帳「夢十夜」です。

    活版印刷メモ帳

    メモ帳を作るにあたってどの言葉を載せたらいいか、
    職員皆で話し合いや投票を行い、選ばれたのが「夢十夜」のこの一文でした。

    夢十夜パネル

    「百年待っていてください」という素敵な言葉を持ち帰っていただくだけでなく、
    その展示の一部を持ち帰っていただきたい、という職員の思いも込められています。

    記念館のオリジナルグッズには色々なこだわりが詰まっています。
    例えばショップに並べているミニトート、実は最初、製作会社から何版か提案がありました。

    ミニトート試作品

    しかし『吾輩ハ猫デアル』の初版本の色味にこだわりたいという思いから、
    今のミニトートが生まれました。

    ミニトート完成品

    何気なく並べられているグッズたちは、こうした思いが詰まった品々なのです。
    皆さまもご来館の際には、漱石山房記念館の展示品を「お持ち帰り」になってはいかがでしょう。
    (博物館実習生:李)

    テーマ:その他    
  • 博物館実習生によるレポート2 「記憶の再現」へのこだわり

    新宿区立新宿歴史博物館では、
    学芸員資格の取得を目指す博物館実習生を受け入れています。
    令和2年度は5人の実習生が参加して、10日間の博物館実習が行われています。
    新宿歴史博物館内だけでなく、漱石山房記念館でも実習を行いましたので、
    実習生による漱石山房記念館のレポートをお届けします。

    はじめまして、博物館実習に参加させて頂きました、熊倉です。
    この記念館の目玉といったらやはり、漱石山房書斎の再現展示でしょう。
    写真と見比べてみても、本当にそっくりで、漱石の息遣いが聞こえてくるようです。

    実はこの再現には、想像を超えるこだわりが隠されていました。
    今回はそんな「記憶の再現」にまつわるこだわりポイントを2つ、ご紹介させて頂きます。

    1.八畳・十畳問題
    漱石山房は、漱石自身の記述や絵画、
    門下生の松岡譲や芥川龍之介らの記述に基づき再現されています。
    しかし、彼らの記述には食い違う部分があり、
    書斎・客間の広さも8畳と10畳の二説があり、はっきりしませんでした。
    そこで使われたのが、客間にあった安井曾太郎の洋画「麓の町」です。
    この絵画の寸法と、昭和3(1928)年に撮影されたこちらの客間の写真に写る同じ絵画とを比べ、
    書斎・客間とも10畳であることをつきとめました。

    昭和3年の漱石山房

    漱石が最晩年を過ごした書斎・客間は、このように再現されたのです。

    2.壁紙の紋様
    室内の壁紙についても、漱石自身は壁紙は白であると述べており、はっきりしませんでした。
    そこで、この壁紙を作成したと思われる職人・栗山弘三郎の証言から
    「銀杏鶴」紋の壁紙として再現されました。

    作品を通してしか出会えなかった漱石の姿を、眼前に見せてくれるこの再現展示。
    みなさまも漱石山房記念館で、漱石と同じ景色を見てみてはいかがでしょうか?

    「記憶して下さい。私はこんな風にして生きて来たのです。」
    ―「こころ」大正3年

    早稲田南町の書斎に於ける漱石

    漱石山房記念館再現展示室

    (博物館実習生:熊倉)

    テーマ:その他    
  • 博物館実習生によるレポート1 松岡譲と火焔型土器、オリンピック

    新宿区立新宿歴史博物館では、
    学芸員資格の取得を目指す博物館実習生を受け入れています。
    令和2年度は5人の実習生が参加して、10日間の博物館実習が行われています。
    新宿歴史博物館内だけでなく、漱石山房記念館でも実習を行いましたので、
    実習生による漱石山房記念館のレポートをお届けします。

    今回は、現在行なわれているテーマ展示
    「越後の哲学者 松岡譲 ―人と作品―」についてご紹介します。
    「夏目漱石の門下生」「漱石に越後の哲学者と評された」など
    夏目漱石との関わりの中で語られることが多い松岡ですが、
    今回は松岡と彼の故郷長岡で出土した火焔型土器、
    そしてオリンピックとの意外なつながりについて紹介します。

    松岡譲の生涯
    松岡譲は明治24(1891)年に新潟県古志郡石坂村(現・長岡市)で生まれました。
    生家である寺を継ぐことを期待されながらも文学の道に進み、
    約50年にわたり作家として活動しました。
    重厚な長編小説や夏目漱石についての随筆など、500点近い著作を遺しています。

    松岡と火焔型土器、オリンピック
    晩年の松岡は、縄文時代の火焔型土器に強い関心を持っていました。
    長岡で発掘され、長岡科学博物館に展示されていた火焔型土器を鑑賞し、
    すっかり魅了された松岡は、友人らにチラシを配り、その魅力を伝えました。

    火焔土器

    さらに、自らテニス愛好者向けの雑誌を創刊するほどスポーツを愛好していた松岡は、
    東京オリンピックの聖火台のデザインを火焔型土器にする案を提言したそうです。
    他にも、当時の東京都知事に火焔型土器の模型を送り、
    大会事務総長に1時間にも及ぶプレゼンテーションを行うなど、精力的な活動を行なっていました。

    松岡の提案が1964年の東京オリンピックに取り入れられることはありませんでしたが、
    その思いは現代にも受け継がれています。
    松岡の出身地である長岡市が加盟する信濃川火焔街道連携協議会は
    今回開催予定の東京オリンピック・パラリンピックの聖火台に
    火焔型土器のデザインが採用されることを目指して活動をしています。

    越後の哲学者松岡譲展示風景

    参考文献:関口安義『評伝 松岡譲』小沢書店 1991年

    (博物館実習生:加納)

    テーマ:その他    
  • 新しい絵はがきと展示関連書籍を販売しています

    漱石山房記念館のミュージアムショップでは、
    販売開始直後に新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のため、
    臨時休館となってしまい、お知らせができませんでしたが、
    2月から3種類の新しい絵はがきを販売しています。

    吾輩は猫である下編絵はがき

    夏目漱石『吾輩ハ猫デアル』下編 絵はがき(価格:60円税込)
    明治40(1907)年 初版本下編カバー 橋口五葉装丁より

    タンポポの横に座る猫がかわいらしく印象的な、
    『吾輩ハ猫デアル』下編のカバーを絵はがきにしました。
    『行人』までの漱石作品の装丁を手がけた橋口五葉の手によるものです。

    猫の死亡通知絵はがき

    「猫の死亡通知」絵はがき(価格:60円税込)
    夏目金之助 松根豊次郎(東洋城)宛てはがき 明治41(1908)年9月14日付より

    漱石が門下生で俳人の松根東洋城に宛てたもので、
    「吾輩は猫である」のモデルとなった猫の死亡を知らせる内容です。
    病気療養中だった猫が裏の物置のへっつい(かまど)の上で死んでいた、
    車屋に頼み蜜柑箱に納めて裏庭に埋葬した、
    「三四郎」執筆中につき会葬には及ばない、ということが書かれています。

    「道草」絵はがき

    夏目漱石「道草」草稿 絵はがき(価格:60円税込)

    大正4(1915)年6月から9月まで『東京朝日新聞』と
    『大阪朝日新聞』に連載された「道草」草稿のなかの1枚です。
    新宿区では「道草」の草稿を67枚所有しており、
    作品の成立過程などを知る上で貴重な資料となっています。
    万年筆のインクの痕や余白のメモなど、
    漱石の執筆の様子を垣間見ることができます。

    また、テーマ展示「越後の哲学者 松岡譲―人と作品―」の開催にあわせて
    関連書籍の販売もしています。

    松岡譲展関連書籍

    松岡譲の『漱石の印税帖』(文春文庫/759円税込)は、
    漱石の長女筆子と結婚し、夏目家に7年間同居した経験のある
    松岡ならではの随筆集です。
    また、漱石の妻で松岡の義母にあたる鏡子からの聞き取り集、
    『漱石の思い出』(文春文庫/748円税込)も、
    家族から見た漱石のありのままの姿が伝わってくる一冊です。

    現在、漱石山房記念館のミュージアムショップでは
    新型コロナウイルス感染症の感染防止のため、
    商品をお手に取ってご覧いただくことができませんが、
    気になる商品がありましたら、お気軽に受付へお声がけください。

    テーマ:お知らせ    
  • 松岡譲と津田青楓–描かれなかった耳疣(みみいぼ)の歴史–

    「越後の哲学者 松岡譲」展は6月16日にようやく開幕することができました。
    新型コロナウイルス感染予防対策として、手指消毒、検温、入場制限等、
    ご来館の皆様にはご負担をおかけしておりますが、
    ご協力のほど、どうぞよろしくお願いいたします。

    今回は開催中の松岡展から、
    今年(2020年)生誕140年を迎えた画家・津田青楓関係資料に注目したいと思います。
    津田青楓は、夏目漱石の木曜会に出席し、
    漱石作品の『道草』を装幀した画家として知られています。
    青楓は、漱石没後も未亡人や子女に油絵を教えるなどして、
    夏目家の人々と親しく交友しました。
    漱石の長女・夏目筆子と結婚した松岡譲とは、
    大正13(1924)年に京都で開催した漱石遺墨会や、
    昭和4(1929)年の『漱石寫眞帖』の刊行、漱石忌など、
    漱石追悼の機会を共にし、折々の手紙で近況を報告しあう親密な友人関係にありました。
    展示中の松岡譲宛津田青楓書簡

    昭和41(1966)年、86歳の青楓は、75歳の松岡に肖像画《譲上人座像》を送っています。
    その後、松岡に宛てた手紙の中で、漱石の宗教観に関する文章を書くため
    松岡の著作『ああ漱石山房』の持ち合わせがあれば送ってほしいと書いています。
    松岡はその返信の手紙に、
    「…処で一昨年でしたか私の顔を描いて下さりましたね。
    私は両耳の耳の穴の前のところに人にはない、贅肉の疣が揃ってシンソリカルにあるんです。
    昔それをテーマに「耳疣の歴史」という自伝めいた短編を書いた時、
    寺田寅彦さんから大変ほめて頂いたことがあります。
    ところがあなたの描いて下さった貴方の所謂「譲上人像」にはその大事なトレードマークがないのです。
    いつかこれを一寸かき入れてくださるまいか。欠点即ち特徴ですから。」(注:1)と書きました。

    この手紙を受け取った青楓は、
    「…偖(さて)お手紙で思い出しました昔譲上人像書いたことがありましたね、
    耳に左右にシンメトリに疣があるとのこと、若し手数をいとはず送って頂けば、
    瘤をくっつけるなり又文章で書き入れしておいてもよろしい。」と返信しました。
    しかし、現存する《譲上人座像》の耳には疣が描かれていません。
    この手紙が届いた4か月後に松岡は帰らぬ人となり、疣が描かれる機会は失われてしまったのです。

    「耳疣の歴史」は大正11(1922)年『新小説』に発表され、
    その一年後、松岡の記念すべき第一著作集『九官鳥』に収められました。
    『九官鳥』の装幀は青楓が行っています。
    「耳疣の歴史」は、二人の交友を加味して松岡が亡くなるまで紡がれていたのですね。
    現在開催中の「越後の哲学者 松岡譲‐人と作品‐」(~9月6日(日)まで)では、
    このいきさつを示す青楓直筆の手紙や青楓作の《譲上人座像》(写真パネル)をご覧いただけます。
    皆様のご来館をお待ちしています。

    注1:津田青楓『春秋九十五年 限定版』求龍堂、1973年、41頁参照。
    ※引用文の表記は出典のままとしました。

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  • 越後の哲学者 松岡譲  その5

    「越後の哲学者 松岡譲」展のみどころをご紹介するブログの第5回目の最終回は、
    松岡の趣味と晩年についてみていきたいと思います。

    松岡譲は若い頃から体が大きく、運動神経も良かったようで、
    長岡中学時代には水泳と野球を、一高時代には大弓をやっていました。
    成人してからは趣味として登山もするスポーツマンでした。
    渾身の長編小説『法城を護る人々』の最終巻(下巻)を刊行後、
    次なる長編小説「憂鬱な愛人」と、
    漱石未亡人・鏡子からの聞き取りをもとにした「漱石の思ひ出」の2本の連載を持ち、
    岩波から配本が始まった『漱石全集』の月報に毎月のように小文を寄稿し、
    文筆家として最も脂の乗っていた昭和3(1928)年の秋、
    37歳の松岡は原因不明の腹痛に襲われ、以後2年ほど静養につとめ創作から離れます。

    この闘病中に松岡は主治医の勧めでテニスと出会い、のめり込んでいきました。
    もとよりスポーツが得意だったため、すぐに腕を上げ、日本のテニス界の盛り上げにも奔走しました。
    昭和8(1933)年には、社会人のテニス愛好者を対象とした月刊誌『テニスフアン』を創刊し、
    編集人として発行を軌道に乗せたあと退きました。
    昭和9(1934)年には、東京田園調布にテニス・クラブ「田園倶楽部」も設立しています。
    『テニスフアン』や新聞に、テニス界の批評を毎月寄稿する様子は、
    まるでスポーツ・エッセイストになったかのようでした。
    そんな松岡を、周囲の人々は本業が疎かになっていると心配します。
    しかし当人は、
    「幸か不幸か、私はいろいろなものに興味を持つよう生まれついて来た。
    文学はもとよりの事、宗教、哲学、歴史、美術、考古学、スポーツなど、
    (中略)さういふものについて、自分は自分としての恩返へしがしたい。
    それには私が著述家としての職分から尽くす外ない」(注:1)と述べて、
    スポーツ記事に筆を揮いました。

    松岡譲原稿

    展示会では、秩父宮記念スポーツ図書館のご協力を得た『テニスフアン』創刊号の写真や、
    大正9(1920)年のアントワープ五輪のテニスで銀メダルを獲得した
    熊谷一弥(くまがい いちや)との交流を紹介し、松岡のテニスに傾けた情熱に迫ります。

    ところで皆さんは、近代オリンピックに
    「芸術競技」という種目があったことをご存じでしょうか。
    「芸術競技」とは、スポーツを題材とした建築や彫刻、
    絵画、文学、音楽の作品の優秀作を競うオリンピック競技で、
    1912年の第5回ストックホルム大会から
    1948年の第14回ロンドン大会までの限られた期間に行われました。
    昭和15(1940)年の第12回オリンピック東京大会でも、
    詩・戯曲・散文などからなる「文芸競技」が構想されていました。
    スポーツを愛好する松岡はこれを喜び、
    「この国の文壇に、スポーツ文学といった新しい領土が開拓される」
    と書いています(注:2)。
    しかしながら、第12回東京大会は時局の悪化により幻となり、
    松岡の出場の機会も失われてしまいました。

    戦後、日本が再びオリンピックの開催地に決定すると、
    松岡のスポーツ熱は、郷土の考古愛とともに再燃します。
    松岡は、昭和39(1964)年の東京オリンピックの聖火台を、
    地元の長岡市で出土した火焔土器をかたどったものにすべく、
    IOC委員の高石新五郎に相談します。
    続いて東京都知事に火焔土器の模型を贈り、
    大会事務総長の田畑政治には1時間に及ぶ説明を行い、
    火焔土器聖火台プロジェクトの実現に向けて精力的なアピール活動を展開しました。
    しかしながらこの活動も、松岡が働きかけた田畑ら大会中枢部の辞任により、
    立ち切れになってしまいました。
    松岡は新たに大会組織委員会会長となった安川大五郎に火焔土器の模型を贈り、
    自らの慰めにしたといいます。

    松岡の火焔土器愛好は、オリンピックを機に突然芽生えたのでなく、
    長岡市で仮住まいしていた蒼柴(あおし)神社社務所のある悠久山公園の一角に、
    昭和26(1951)年8月、火焔土器を展示する長岡市立科学博物館が開館したことに始まります。
    昭和38(1963)年には博物館の裏手に転居し、そこを終の棲家とした松岡は、
    「御自慢中の御自慢大名物の火焔型土器」を展示する「お山の博物館」に、
    多い時には日に3度も通い、長岡を訪れる著名人を案内しました。
    昭和32(1957)年に松岡の案内で博物館を訪れた、
    文化財専門審議会専門委員の染織史家・明石染人(せんじん)は、
    火焔土器の前で両手を挙げて「おお、素敵」と叫んだといいます。
    松岡はその後、明石と何通もの長文の書簡をやりとりし、
    百十数枚の写真原版を揃えて豪華版の縄文土器写真集の出版話を進めました。
    残念なことに、この企画も、明石の急死と出版社社長の病により実現には至りませんでした。
    展示会には、写真集刊行に向けた熱い思いがほとばしる「明石染人 松岡譲宛書簡」も展示します。
    松岡の火焔土器への情熱は、明石の死後、東京オリンピックの聖火台運動へと継承されていきます。
    生前最後に発表された随筆は、この縄文土器写真集と火焔土器型聖火台運動の顛末を記した
    「「火焔土器」の模型」(『學鐙』66(6)、昭和44(1969)年6月)でした。
    松岡は「著述家としての職分」を尽くし、趣味のスポーツに加え、
    晩年に情熱を注いだ考古学にも恩返しをしました。

    展示会では、小説に加えて、テニスや縄文土器のコーナーを設け、松岡の多面的な活動を紹介します。
    長岡市立科学博物館のご許可を得て展示した
    「松岡譲「お山の博物館」『長岡市立科学博物館館報 NKH』創刊号(昭和33(1958)年9月)」は、
    こちらの長岡市立科学博物館WEBページ よりPDFデータでお読みいただけます。
    ご来館の前にぜひご一読ください。

    これまで5回にわたり、松岡譲展の内容と、松岡の魅力についてお伝えしてきました。
    しかしながらこのブログでは実際の展示の魅力をとても伝えきれません。
    皆様にご来館いただける日が来ることを、漱石山房記念館スタッフ一同心待ちにしています。
    これまでお読みくださり、ありがとうございました。
    (越後の哲学者 松岡譲 おわり)

    注:
    1 松岡譲「スポーツ・ジャーナリズム」『テニスフアン』2巻9号 1934年10月
    2 松岡譲「文学オリンピツクなど」『文藝春秋』1937年3月

    ※「火焔土器」とは昭和11(1936)年に長岡市の馬高(うまたか)遺跡で
    最初に発見された1個の土器につけられたニックネームで、
    類似した土器は「火焔型土器」と呼び、考古学上区別されています。

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