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  • 《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造のみどころ(その4)

    漱石山房記念館2階資料展示室では令和5年7月9日(日)まで、
    《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造を開催しています。
    みどころ(その3)から続きます。

    森成の処置により一命を取りとめた漱石は、
    帰京に堪えられる体に回復するまで約1か月半もの間、
    修善寺菊屋旅館に滞在しました。
    この間、森成は同宿して漱石の看護に努めます。

    夏目漱石寄贈 シガレットケース(個人蔵)


    漱石は大量吐血の4日後、まだ体も動かないうちから
    「豆腐や雁もどきが食べたい」と言い、その2日後、
    ようやく手が動くようになると「瓜もみか何かを」食べたいと言って鏡子に笑われます。
    吐血から三週間は鏡子が鶏肉を湯煎して作るスープや重湯、葛湯など、
    液状のものしか食べさせてもらえず、献立を考えることを楽しみに過ごしてきた漱石ですが、
    9月13日についに固形物が許可されます。
    漱石の日記には「四時頃突然ビスケツト一個を森成さんが食はしてくれる。
    嬉しい事限なし」と書かれています。
    この頃から一日に半片のビスケットを食べることを許可されますが、
    寝たきりで食べ物に執着していた漱石はそれでは足りず、
    重湯をビスケットに変えるよう森成に談判します。
    しかし森成は認めません。
    9月16日の漱石の日記には「ビスケツトに更へる事を談判中々聞いてくれず」とあります。
    鏡子が野間真綱に宛てた9月27日消印の手紙にも
    「ヒスケツトを一枚ふやしてくれ 森成さんはいやにしみつたれだ 
    これはかりの物ををしむとか おもゆなんぞまづい物食へさせるなら食べてやらないからいひとか
    しきりに食物の小言を云て居ります」と書かれていますので、
    森成が漱石の要望に毅然と対処して、病身の悪化を防いでいたことがわかります
    (書簡は神奈川近代文学館所蔵、本展では写真で展示)。
    森成は憎まれ役になりながらも優しい心遣いを忘れませんでした。
    漱石の9月19日の日記には「花が凋むと裏の山から誰かゞ取つて来てくれる。
    其時は森成さんが大抵一所である。」と書かれています。
    10月11日、寝たまま釣台で運ばれて汽車で帰京する漱石の枕元の信玄袋に
    野菊の枝を差し込んであげたのも森成でした。
    漱石は帰京後、長与胃腸病院に再入院しますが、
    そこで森成が自身の看護のために恩師・長与院長の死に立ち会えなかったこと、
    漱石も懇意にしていた院長の死にショックを受けぬよう、
    訃報の新聞を遠ざけていたことを知ります。
    漱石は病室にシガレットケースを取り寄せ、
    直筆の下書き「修善寺にて篤き看護をうけたる森成国手に謝す 漱石」
    「朝寒も夜寒も人の情けかな」を彫らせて、お礼の品として森成に贈りました。
    森成は生涯このシガレットケースを愛用しました。
    展示会場には、このシガレットケースと外箱を一緒に展示しています(ともに個人蔵)。
    双方保存状態が良く、大切に扱われてきたことが分かります。
    二人の深い関係を物語る貴重な資料を、ぜひ会場でご覧ください。

    テーマ:漱石について    
  • 《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造のみどころ(その3)

    漱石山房記念館2階資料展示室では令和5年7月9日(日)まで、
    《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造を開催しています。
    みどころ(その2)から続きます。

    森成麟造

    明治43(1910)年8月24日の大患の様子は、
    坂元雪鳥「修善寺日記」のほか、
    主治医・森成麟造(もりなり・りんぞう)による「漱石さんの思出」と題する回想録にも記されています。
    この記録は、昭和7(1932)年から翌年にかけて全11回にわたり
    上越の俳句同人誌『久比岐』に連載されました。
    森成は明治17(1884)年に東頸城郡菱里村真荻平(現・上越市)に生まれました。
    仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)を卒業後、東京麹町の長与胃腸病院に勤務します。
    「漱石さんの思出」には、仙台医学専門学校在学時にホトトギスに掲載された
    「吾輩は猫である」を読み漱石の愛読者となり、
    長与胃腸病院では大の漱石党として知られ、病院機関雑誌『春風』に
    「吾輩は猫である」を模した「お草履日記」を連載していたことも記されています。
    漱石体調悪化の報を受けて修善寺に向かう『久比岐』連載第7回目以降の記事は、
    上越郷土研究会発行の『頸城文化』第8号(昭和30(1955)年)に再掲されました。
    大患の記録となるこの部分は、
    『漱石全集』(第2次)月報第20号(2003年)、
    十川信介編集の岩波文庫『漱石追想』(2016年)にも収録されています。
    以下に「漱石さんの思出」の8月24日の記録を抜粋します。

    森成麟造「漱石さんの思出」(『頸城文化 8』(1955年))抜粋
    (前略)
    サア大変!万事休矣!
    私は胸中掻き挘らるる如き苦悶と尻が落ち付かない様な不安とに襲はれ
    全身名状すべからざる一種の圧迫を感じた
    此現象は畢竟自分が大狼狽して居る結果で
    此危急の際僕迄が狼狽しては駄目だと悟つた瞬間
    反撥的に度胸がクソ落ち付きに落ち付き払つた。
    目前に横たはる臘細工の病体を冷静に物質視すると
    其ドツカと胡座をかいて猛然ズプリズブリと注射を施した。
    コレデモカ?コレデモカ!と力を籠めて注射を続けた。
    病人の腕を握つて検脈して居られた杉本さんは
    突然「脈が出て来た!!」と狂喜して叫ばれた。
    成程小さい脈が底の方に幽かに波打つて居るのではないか。
    此の時の喜び!此時の気持!
    只々両眼から涙がホロリホロリと澪れ出るのみである。
    (中略)
    其後は私は病人に関する一切を引受けた。
    看護婦が来着する迄の二日間は全く無我夢中で働いた。
    病人に冷水を飲ますべく階下へ降りて
    僅か二合入の土瓶を持つて十二三段の階段を登る事さへ頗る苦痛となった。
    二三段登つては休み四五段登つては小憩しなければならない程呼吸促迫し
    心悸元進し迚も胸苦しかつた。
    斯ンナ事で意気地がないと切歯しても事実是が動かない
    神身全く綿の如く疲れ果てゝ時々眩暈さへ覚ゆるに至つた。
    (後略)

    この時漱石42歳、森成26歳でした。
    憧れの文豪の生命の危機に直面した若き医師の使命感がうかがえます。
    本展には、この「漱石さんの思出」直筆原稿も展示しています。
    坂元雪鳥の「修善寺日記」直筆原稿の隣に展示していますので、
    ぜひ会場で漱石を支えた人たちの息遣いに触れてください。

    次回のみどころ(その4)は、大患後も続いた漱石と森成の交流についてお伝えします。

    テーマ:漱石について    
  • 《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造のみどころ(その2)

    漱石山房記念館2階資料展示室では令和5年7月9日(日)まで、
    《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造を開催しています。
    みどころ(その1)から続きます。

    坂元雪鳥

    明治43(1910)年8月18日、台風で不通になっていたところようやく全通した東海道線で、
    東京朝日新聞社から派遣された坂元雪鳥(せっちょう)と、
    長与胃腸病院の森成麟造(もりなり・りんぞう)医師が菊屋旅館に到着します。
    避暑地の子どもたちを見舞っていた妻の鏡子も一日遅れで到着します。
    寝たきりの漱石は、床の位置を変えてもらい花火を楽しみ、
    女中を交えて笑い話をするなど数日間は和やかに過ぎました。
    そして「忘るべからざる二十四日」が来ます。
    夜八時半ごろ、500グラム吐血した漱石は、脈拍が止まり人事不省に陥りました。
    この様子は、雪鳥の「修善寺日記」(『國學』第8輯「坂元雪鳥先生追悼号」
    昭和13(1938)年7月、日本大学国文学会発行)に詳しく記され、
    その惨憺たる様子の記述は小宮豊隆の『夏目漱石』(昭和13(1938)年7月刊行)にも引用されています。
    少し長くなりますが、以下に雪鳥「修善寺日記」の8月24日の記録を抜粋します。

    坂元雪鳥「修善寺日記」 廿四日
    「恐ろしかつた廿四日、午前から先生の顔色が非常に悪い。
    衰弱の色顕著になつた。口數を利かれない。
    胃部が著しく膨満の体である。午後胃腸病院の杉本氏が来た。
    六時過ぎだつたのか診察をした。別室に退いてから大ニ楽観して居る。
    予は嬉しさに堪へず直ちに社へ電報を発して
    「杉本氏診察の結果大に人意を強うせり」と知らせた。
    杉本、森成両氏にウヰスキイを勧めて談して居ると
    丁度八時三十分だつたらうと思ふ頃
    中庭を隔てた二階の病室の欄干の處へ夫人が現れて
    「森成さん早く早く」と手を拍き乍ら悲鳴を揚げられた。
    三人は何事とも解せず宙を飛んで行くと‼
    先生は今しも唾壺(夫は夫人が右手に先生を抱き左手に持つて居られた)
    に一杯血を吐いて居られる。
    真蒼になつた先生は眼を瞎いて瞳孔の散大したのが分る。
    毛髪も髯も真黒に見える中に生々しい
    鮮血がダクダクと流れ出て居る。
    予は直ぐ椽側から金盥を持つて来て唾壺と更へた。
    森成氏は既に注射の用意をしてる
    杉本氏は其便々たる腹を波立たせてシカと先生の手を握つて
    先生の顔と森成氏の手許とを見詰めて居る。
    金盥には又新たに多量の塊血が出た。
    新しい雞の肝臓の様である。
    見ると血は夫人の肩を越して三四尺も飛んで居る。
    最初我慢に我慢されたのが迸つたのであらう。
    汚れたる座蒲團を椽に捨て先生の口辺を拭ひ夫人に着換を勧めて立たせる。
    シツカリなさいと励ます。
    夫人は森成さん、杉本さんと切な相な声を絞つて居られる。
    大丈夫ですから更へていらつしやいと
    予は其紅に染んだ夫人の浴衣を見るに忍びず立たしめる。
    注射は猶予なく初まつた。
    此時既に先生は虚脱に陥いりかけて人事不省だつたのである。」

    日本近代文学館が所蔵するこの原稿は、現在、本展で展示しています。
    時を経てなお力強い、気迫のこもった雪鳥直筆「修善寺日記」をぜひ会場でご覧ください。

    次回のみどころ(その3)は、主治医として治療にあたった森成麟造医師をご紹介します。

    テーマ:漱石について    
  • 《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造のみどころ(その1)

    漱石山房記念館2階資料展示室では令和5年7月9日(日)まで、
    《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造を開催しています。
    会場は「第1章 修善寺の大患」、「第2章 森成さんと漱石さん」の2章立てで構成しています。

    明治43(1910)年6月、「門」の連載を終えた漱石は長与胃腸病院に入院し、
    長年患っていた胃潰瘍の本格的な治療を開始します。
    退院後の8月6日には、医師の許可を得て、静養先の修善寺を訪れます。
    同地に滞在予定の門下生・松根東洋城との句作や謡を楽しみにしていた漱石ですが、
    到着の3日後には体調が悪化し、床に就いてしまいます。
    そして、8月24日には、500グラムもの大吐血の後に人事不省に陥ります。
    この出来事は「修善寺の大患」として知られています。
    胃潰瘍の漱石にとって、この修善寺滞在には、
    心理的な不安要素がいくつも重なっていました。
    まず、修善寺行ですが、新橋駅で待ち合わせのはずの東洋城に会えず、
    御殿場で下車して二時間遅れの後続列車を待ち、三島で伊豆鉄道への乗り継ぎを40分待ち、
    終着駅の大仁(おおひと)駅では雨で車(人力車)が捕まらず、
    出発から8時間経てようやくたどり着いた宿には空きがなく、
    交渉してなんとか一泊だけ部屋を都合するなど、病後の体に負担をかけた旅でした。
    漱石の病状悪化の報は、東洋城によって各所に発せられますが、
    おりしも関東は8日から続く大雨で、土砂災害により鉄道は不通になり、
    電信や電話も混乱をきたしていました。
    漱石は、「思ひ出す事など」(明治43年10月29日~明治44年2月20日『東京朝日新聞』連載)のなかで、
    宿にかかってきた電話の相手が暴風雨の雑音で妻の鏡子とわからずに、
    「貴方(あなた)といふ敬語を何遍か繰返した」(「思ひ出す事など 十」)と書いています。
    そして水害の新聞報道を見て、
    「東京と自分とを繋ぐ交通の縁が当分切れ」「多少心細いものに観じない訳に行かなかつた。」
    (「思ひ出す事など 十」)とも記しています。
    第1章のコーナーには、漱石が初日に一泊した「菊屋別荘」と
    修善寺の大患の舞台となった「菊屋」(本館)の描かれた
    明治37(1904)年発行の「豆州修善寺温泉場改図」や、
    漱石が乗車した、丹那トンネル開通以前の東海道線と伊豆方面の路線図、
    水害の様子を伝える新聞記事などを展示しています。
    ぜひ会場で、大患前夜の漱石の心情に浸ってみてください。
    皆さまのご来館をお待ちしております。

    次回のみどころ(その2)は、8月24日、大患当日の記録について迫ります。

    テーマ:漱石について    
  • どうする漱石-家康家臣・夏目広次との関係-

    現在、放映中のNHK大河ドラマ「どうする家康」に登場している
    徳川家康の家臣・夏目広次(系図等では吉信)(1518-1572)は、
    夏目漱石の先祖と言われていますが本当でしょうか。
    夏目広次は、武田信玄に敗北を喫した元亀3(1572)年の三方ヶ原の戦いで、
    家康の身代わりとなって討死したことで知られます。
    もともと三河譜代の家臣で、永禄6(1563)年三河一向一揆では一揆側に加担したものの、
    家康から許されています。
    広次の子孫は江戸幕府の旗本として続き、
    幕府編纂の系図集『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』には同族10家の夏目家が載っています。
    同書によれば、夏目氏は清和源氏で多田満仲の弟・満快の8代国忠が源頼朝から
    奥州藤原氏追討の勲功賞として信濃国夏目村(比定地不明)を拝領したことに始まると言います。
    その後、南北朝時代に三河に移り、
    そして安城松平家(のちの徳川家)に仕えることになったとしています。
    さて、漱石は慶応3(1867)年、江戸牛込馬場下横町の町名主(なぬし)の
    夏目小兵衛直克の子として生まれました。
    馬場下横町の名主夏目家は、元禄15(1702)年、四兵衛直情(なおもと)が
    初めて幕府から名主役を仰せ付けられたといい、5代続いて幕末まで至っていますが、
    先祖を旗本夏目氏と同じとしています。

    漱石の祖父・夏目小兵衛直基像(『漱石写真帖』部分)


    漱石の家系について詳しく言及しているのは、漱石の門下生・小宮豊隆です。
    小宮の『夏目漱石』によれば、漱石の夏目家は旗本夏目家とルーツは同じものの、
    三河に移らずそのまま信濃に残った家系で、室町時代の中頃には守護小笠原持長に仕え、
    その後甲斐の武田信昌から信玄・勝頼まで5代の武田家に仕え、
    八代郡夏目原村(現山梨県笛吹市御坂町)に居住したといいます。
    武田家滅亡の後、小田原北条氏重臣で岩付城(さいたま市岩槻区)主の太田氏房に仕え、
    北条氏滅亡後は、家康家臣で岩槻城主の高力清長・氏正へと主君を変えたといいます。
    これらは漱石の兄直矩(なおのり)の夏目家本家の家系図に拠ったもので、
    もちろん史料的な裏付けが必要ですが、漱石家の家伝として重視しなければならないでしょう。
    漱石自身もこれらは認識しており、
    「僕の家は武田信玄の苗裔(いえすじ)だぜ。えらいだらう。」
    (漱石の談話「僕の昔」明治40年)と発言しています。
    信玄の子孫というのは不正確ですが、漱石と市谷小学校の同級生だった篠本二郎も
    同じ武田旧臣の家柄だったということで漱石と口喧嘩をした思い出を語っています(同「腕白時代の夏目君」昭和10年)。
    すなわち、漱石の夏目家は、旗本夏目氏とルーツは同じものの三河に移住した系統ではないので、
    家康家臣の夏目広次を先祖に数えるのは正しくないことがわかります。
    江戸の町名主の家に生まれた江戸っ子漱石が、
    徳川家康に親近感を抱いていたのは確かだと思いますが、
    漱石の家系は家康を震え上がらせた武田信玄の家臣だったようです。
    (漱石山房記念館学芸員 今野慶信)

    テーマ:漱石について    
  • レガスまつり2023を開催しました

    4月の恒例行事「レガスまつり」を
    今年は4月1日(土)に開催しました。
    満開の桜と春の陽気のもと、多数のお客様にご来館いただき、
    大変賑やかな1日となりました。

    展示観覧料が無料となったこの日、
    展示をご観覧いただいた方には
    オリジナル和紙ステッカーや花苗をプレゼントさせていただきましたが、
    合計で400名以上の皆さまにお渡しできました。
    地下1階の講座室で行われた「オリジナルしおりづくり~漱石の言葉を持ち帰ろう~」
    にもたくさんの方にご参加いただき、
    「春らしいしおりが作れてよい記念になりました」
    「思ったよりも簡単に作成できて楽しかった」
    などの感想をいただきました。

    当館学芸員が展示の見どころを解説する「ギャラリートーク」も
    午前、午後の2回行われ、多数の方にご参加いただきました。
    この日はちょうどお庭の桜が満開で、青空に映える桜を見上げたり、
    写真におさめる様子もたくさん見られました。
    再現展示室でのボランティアガイドの解説に耳を傾けたり、
    CAFÉ SOSEKIの美味しいコーヒーを飲みながらひと休みされたり、
    漱石山房での休日をお楽しみいただけたのではないでしょうか。

    テーマ:イベント    
  • 《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造展 開幕しました

    漱石山房記念館2階資料展示室では
    《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造(もりなりりんぞう)展が開幕しました!
    会期は4月13日(木)~7月9日(日)まで、
    春から初夏にかけての気持ちのよい季節です。
    吾輩ブログでは、これから展示会のみどころについてお伝えしていく予定ですが、
    今回は、展示会チラシの裏話を一つご披露します。

    今回のチラシは、新緑を背景に、
    漱石と森成麟造の写真を配置しています。
    森成の肖像写真は修善寺の大患1年後、27歳の時の写真です。
    新緑の背景写真は修善寺の桂川です。

    よく目を凝らしてチラシをご覧いただくと、
    漱石の右腕のあたりに朱塗りの橋がうっすらと見えませんか。
    桂川に架かる桂橋です。
    漱石が修善寺を訪れたのは夏の盛りの8月6日。
    そこから8月24日には大量吐血をし(世にいう修善寺の大患)、
    東京に戻れたのは、秋も深まった10月11日でした。
    森成は、大患前の8月18日から帰京する日まで、
    2か月近く修善寺に滞在して漱石を看護しました。
    その間、修善寺の山を散策しては草花を持ち帰り、
    寝たきりの漱石の目を楽しませました。
    今の季節、修善寺の温泉街はちょうど写真のような
    新緑に覆われていることでしょう。
    展覧会とあわせて、漱石と森成の関係に思いを馳せながら
    修善寺を訪れてみてはいかがでしょうか。

    テーマ:漱石について    
  • オリジナルしおりづくり~漱石の言葉を持ち帰ろう~

    4月1日(土)にレガスまつりを開催します。
    漱石山房記念館では展示の観覧無料、ギャラリートーク、
    記念品プレゼント等、様々なイベントを予定しています。
    今回はその中で、「オリジナルしおりづくり~漱石の言葉を持ち帰ろう~」をご案内します。

    当館の2階通路展示では、漱石の作品や、門下生・友人に宛てた手紙の中から、
    漱石の言葉をご紹介しています。
    小説の登場人物に託した漱石の想い、
    門下生や友人に示した漱石の人生観など、
    漱石がのこした言葉をご覧いただけます。
    その中から一部をご紹介します。

    僕は常に考えている。「純粋な感情程美しいものはない。美しいものほど強いものはない」と。
    (「彼岸過迄」明治45年)

    熊本より東京は広い。東京より日本は広い。……日本より頭の中の方が広いでしょう。
    (「三四郎」明治41年)

    智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
    (「草枕」明治39年)

    人間は好き嫌で働らくものだ。論法で働らくものじゃない。(「坊っちゃん」明治39年)

    一度は耳にした言葉もあったでしょうか。
    来館者アンケートからも「とても印象深かった」「漱石の言葉が時を超えて胸に刺さった」
    等の感想を数多くいただきます。
    そこで、今回のイベントでは、これら漱石の言葉の中からお好きな言葉を選んで、
    オリジナルのしおりづくりを楽しんでいただこうと考えています。
    お子さまも楽しめるように、スタンプやシールなどもご用意しております。
    漱石山房記念館地下1階講座室にて13時から16時まで開催します。
    所用時間は15分程。事前の申し込みは不要です。どうぞお気軽にお立ち寄りください。

    テーマ:イベント    
  • 漱石公園の桜が咲き始めました

    漱石山房記念館に隣接している漱石公園には、桜(ソメイヨシノ)の木が2本あります。
    今年、令和5(2023)年は例年より10日も早く、3月14日(火)に東京の開花が観測されました。
    3月21日(火)の春分の日現在、漱石公園の桜は3分咲き~5分咲き程度といったところです。

    2023年3月21日撮影


    2本のうち道草庵に向かって右側の桜のほうが、
    日当たりの関係か、咲き加減が少し早く5分咲き程度。

    2023年3月21日撮影


    道草庵に向かって左側の桜の方はまだ3分咲き程度です。
    3月下旬は雨模様の日が続くようですので、
    雨が上がる頃には満開の桜が皆さまをお迎えすることでしょう。

    ちなみに、漱石山房記念館の入り口近くには、
    漱石の作品「虞美人草」をイメージして、
    2月末にシャーレーポピーを植えました。

    こちらも可愛らしい花を咲かせていますので、
    ご来館の際には探してみてください。

    テーマ:その他    
  • 夏目漱石内坪井旧居の公開が再開されました

    夏目漱石は明治29(1896)年4月に熊本の第五高等学校に転任し、
    明治33(1900)年にイギリス留学を命じられるまでの熊本時代に、
    合計6回も転居をしています。
    漱石が熊本で住んだ6ヶ所のうち現存するのは、
    3番目に住んだ大江村の家と5番目に住んだ内坪井の家、
    そして6番目に住んだ北千反畑の家の3ヶ所で、
    さらに現在一般公開されているのは大江村の家と内坪井の家の2ヶ所です。

    漱石が3番目に住んだ大江村の家は、
    もともと熊本市中央区新屋敷1丁目(旧大江村)にありましたが、
    昭和47(1972)年に熊本市中央区の水前寺成趣園の隣に移設されました。
    漱石がここに住んだのは明治30(1897)年~31(1898)年。
    この時期に漱石は小説「草枕」の題材になった熊本県玉名市小天温泉へ旅行に出かけました。
    この家で妻の鏡子と書生、女中、飼い犬や飼い猫と一緒に撮影された写真が残されています。

    大江村の家にて(左から書生、漱石、鏡子、女中)
    松岡譲 編『漱石寫眞帖』より

    漱石が5番目に住んだ内坪井の家は、
    現在も当時と同じ熊本市中央区内坪井町にあり、
    熊本市の指定史跡「夏目漱石内坪井旧居跡」として内部公開がされています。
    漱石がここに住んだのは明治31(1898)年~33(1900)年で、熊本時代で最も長く住んだ家です。
    漱石の長女・筆子は明治32(1899)年5月にこの家で生まれました。
    また、小説「二百十日」の題材になった阿蘇山に漱石が登ったのもこの時期です。

    内坪井の家
    松岡譲 編『漱石寫眞帖』より

    夏目漱石内坪井旧居は平成28(2016)年の熊本地震で被害をうけ、
    公開を休止していましたが、復旧がすすみ、
    令和5(2023)年2月9日(木)に公開が再開されました。
    通常は有料の施設ですが、当面の間は特別に入館料が無料とのこと。

    夏目漱石内坪井旧居(写真提供:熊本市)

    熊本は漱石にとって、鏡子との新婚生活や娘の誕生など、
    人生の節目となる出来事をいくつも体験した土地です。
    漱石の足跡をたどりながら、熊本の旧居を巡ってみてはいかがでしょうか。

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  • 《通常展》テーマ展示 ああ漱石山房 のみどころ(後編)

    漱石山房記念館2階資料展示室では令和5年4月9日(日)まで、
    《通常展》テーマ展示 ああ漱石山房 を開催しています。

    夏目漱石は牛込区早稲田南町7(現 新宿区早稲田南町7)の漱石山房で9年間暮らし、
    大正5(1916)年12月9日に亡くなりました。
    書斎は一時片づけられ、漱石の遺体が安置され、祭壇が設けられました。
    12月12日の葬儀が終わった後、30日には書斎は元の状態に戻され、
    机上には、未完となった「明暗」の原稿で「189」と記された原稿用紙の他、
    万年筆、眼鏡入れ、象牙製のペーパーナイフなどが置かれました。
    座布団も敷かれ、絵画の額等も元通りに戻されました。
    一方、客間の方は、霊壇式に写真を飾り、その側には普段は黒い布で蔽ったデスマスクを安置し、
    常に花を取り換え、いつでも香を焚ける仕組みとなりました。

    夏目漱石のデスマスク 新海竹太郎作

    漱石の死後、この家と敷地は夏目家が買取り、母屋は増改築されましたが、
    漱石の書斎は敷地内に曳家され、そのままの状態で保存されました。
    大正12(1923)年9月1日の関東大震災では、ほとんど無傷だったとはいえ、
    危機感をいだいた松岡譲は、建物ごと移築保存して財団法人に管理させようと
    漱石門下生の主なメンバーに提案しました。
    そのあたりの経緯は、今回展示している松岡譲の「九日会手帳」にも記されています。

    九日会第78回例会例会記録
    大正12(1923)年12月9日 九日会手帳

    しかし、なかなか議論はすすまず、昭和6(1931)年11月、夏目家は西大久保に転居し、
    漱石山房はそのままに管理人を置くことになりました。
    この後、戦時体制の強化により、漱石山房は軍関係の寮となったこともあったようです。
    このままでは漱石の書斎は荒らされ、建物も朽ちてしまうと門下生たちは危機感を持ったものの、
    戦時中のため、当時はこれといった有効な手だてもありませんでした。
    小宮豊隆らの努力により、辛うじて蔵書だけは東北大学附属図書館への移管という形に落ち着きましたが、
    松岡譲が抱いた建物ごとの保存の夢はまずは先送りとなってしまいました。
    そして昭和20(1945)年5月、漱石山房は山の手空襲により全焼してしまったのです。
    この時、漱石のデスマスクは書斎に飾られていたようで、山房と共に灰燼に帰してしまいました。
    (展示中のものは、朝日新聞社にあったものを昭和40年に複製したものです)
    このことを、松岡譲は「甚だ象徴的な死と言わなければならない」と記しています。
    「ああ漱石山房」。漱石山房は、門下生のなかに慨嘆とノスタルジーを伴いながら生き続けていました。

    今回は他にも、漱石山房の焼け跡から発見された漱石の硯や、松岡譲が描いた漱石山房図も展示されています。
    漱石の硯の詳細はこちらのブログ記事をご覧ください。
    松岡譲が描いた漱石山房図については『漱石山房記念館だより第11号』に詳しく紹介しています。
    『漱石山房記念館だより』はこちらのページからPDFでご覧いただけます。

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  • 《通常展》テーマ展示 ああ漱石山房 のみどころ(前編)

    漱石山房記念館2階資料展示室では令和5年4月9日(日)まで、
    《通常展》テーマ展示 ああ漱石山房 を開催しています。

    「ああ漱石山房」という印象的なフレーズは、
    夏目漱石の長女・筆子と結婚した松岡譲(1891-1969)がその晩年、エッセイ等によく使用したものです。
    漱石没後50年を迎えた昭和41(1966)年の『サンケイ新聞』12月8日の夕刊に、
    松岡譲による「ああ、漱石山房」という署名記事が掲載され、
    その翌年5月、朝日新聞社から『ああ漱石山房』というエッセイ集が出版されました。

    右:松岡譲『ああ漱石山房』朝日新聞社
    左:松岡譲「ああ漱石山房 目次」

    「漱石山房」とは、夏目漱石が明治40(1907)年9月から、亡くなるまでの9年間生活した、
    牛込区早稲田南町7(現 新宿区早稲田南町7)の借家にあった、それぞれ10畳の書斎と客間を指します。
    漱石は、明治36(1903)年1月、ロンドン留学から帰国した後、
    漱石山房に住むまで、2度ほど転居しています。
    最初は鏡子夫人の実家の中根家に同居した後、
    同年3月から駒込千駄木町(現文京区向丘2)の通称「猫の家」に住みました。
    森鷗外もかつて住んだ家として知られ、小説「道草」の主人公・健三の家のモデルとされています。
    この「猫の家」は現在、愛知県の博物館明治村に保存移築されています。
    次に、明治39(1906)年12月、駒込西片町(現文京区西片町)に転居しました。
    ここには短期間しか住みませんでしたが、のちに漱石を慕う魯迅が住み、「伍舎」と名付けています。
    「趣味の遺伝」の主人公の家で、「三四郎」の広田先生の引っ越し先のモデルとされています。
    漱石はここまで自らの書斎を「漾虚碧堂」と名付けていたと思われます。
    そして、明治40(1907)年9月29日、夏目漱石は早稲田南町7の借家に賃借人として入居しました。
    「漱石山房」の誕生です。
    差配人は町医者の中山正之祐、家の所有者は歌人で病院長の阿部龍夫でした。
    敷地面積340坪の中央に建つ60坪の平屋建ての和洋折衷建築。
    部屋数は7室で家賃は35円でした。

    漱石山房外観(大正5年12月)

    この住宅について、松岡譲は「ああ漱石山房」の中で
    「この家は、元来、三浦篤次郎というアメリカがえりが、明治三十年頃に建てた家だそうで
    当時の文化住宅とでもいうのであろう、一風変った家であった。
    その後、銀行の支店長が住んでいたのが阿部氏の手に移り」と書いています。
    三浦篤次郎という人物については、今まであまり情報がありませんでしたが、
    昨年お亡くなりになった当館ボランティアの興津維信さんの調査によって、
    福島県須賀川出身の自由民権家で、福島県議になりながら2度ほど渡米し、
    明治29(1896)年には愛国生命の取締役になっていたということがわかりました。
    (後編へつづく)

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  • 開館5周年記念《特別展》「夏目漱石と芥川龍之介」を終えて

    開館5周年記念として開催した令和4年度の特別展「夏目漱石と芥川龍之介」が
    11月27日をもって無事に終了しました。
    新型コロナウイルスの蔓延以降、久々に連日多くのお客様にご来館いただきました。
    また、特別展や開館5周年に関係したイベントも数多く開催でき、
    慌ただしい中にも充実した日々が続きました。

    「田端文士村記念館」とのスタンプラリーでは562人の方がコンプリートし、
    記念品の和紙ステッカーをお渡ししました。
    500人以上の方々が、漱石と芥川に縁のある2つの記念館を訪れて、
    関連した展示などを見ていただけたというのは、とても嬉しいことです。
    ちなみに、記念品の“和紙ステッカー”は『吾輩ハ猫デアル』初版本の表紙をデザインしたもので、
    上中下巻3枚揃いセットで現在も当館ミュージアムショップで販売中です。

    今回の展示会は、ご親族の皆様、芥川の関係資料を所蔵する施設や大学など、
    多くの皆様のご協力により実現しました。
    今回の特別展でもご指導をいただいた芥川龍之介研究の第一人者である関口安義都留文科大学名誉教授が
    12月17日に心不全でお亡くなりになりました。
    その数日前には当館にもお越しになり、元気なご様子だったので、突然の訃報に言葉を失いました。
    都留文科大学の研究紀要に連載中だった内村鑑三の評伝は、
    残念ながら未完となってしまいましたが、最後まで研究者としての人生を貫かれました。
    これまで漱石山房記念館に多大なるお力添えをいただいた、
    関口氏にあらためて感謝と哀悼の意を表します。

    11月3日に行われた関口氏の特別展記念講演会「新しい芥川像の創造 芥川研究五十年」は、
    1月下旬から3月末まで動画配信を予定しています。
    関口氏の残した貴重な言葉の数々を、皆様にもお受け取りいただければと思っています。

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  • 「吾輩は○○である」

    夏目漱石による最初の長編小説「吾輩は猫である」は、
    日本文学の作品において恐らく最も有名なタイトルの1つでしょう。
    猫が「吾輩」と自称するタイトルはインパクトがあり、
    現代まで様々なパロディ作品を生んでいます。
    有名なものでは、門下生の内田百閒による
    「吾輩は猫である」の続編「贋作吾輩は猫である」があります。
    その他のパロディ作品も、やはり猫に関するものが多く見られます。
    しかし、「吾輩は○○である」というタイトルは、紹介したい対象になりきって物語を作ることができ、
    また話の大まかな紹介まで一気にできる簡便さもあるためか、
    猫だけでなく多岐にわたり利用されています。

    国立国会図書館で検索してみると、1冊の本の形になっているものだけでも多くありますが、
    中でも目に付くのは、やはり動物系です。
    「吾輩は馬である」
    「吾輩は猿である」
    「吾輩は亀である」
    「吾輩はらんちゅうである」(らんちゅうは金魚の一種)
    「吾輩は蚕である」
    などが見当たりました。猫と対をなす人気のペット、
    犬に至っては「ハスキー」「ドーベルマン」など犬種が指定されているものまであります。
    無生物としては、「ロボット」「教卓」「水」「ロンドン」などがあり、
    「細菌」や「ウイルス」まで「吾輩」を自称しています。
    ちなみに、古くから猫の恰好の獲物とされ、
    対比されることの多い「鼠」については、
    「吾輩ハ鼠デアル : 滑稽写生」というタイトルの作品が明治40(1907)年に発表されています。
    (影法師『吾輩ハ鼠デアル : 滑稽写生』 大学館)
    本家「吾輩は猫である」の第1章に当たる部分が発表されたのが明治38年ですから、
    かなり早い段階で登場しています。本家「猫」の影響力や人気が伺えます。

    これらのパロディタイトルの内容を概観してみると、
    本家同様、様々な「吾輩」に人間社会を観察させ、批評させることに主眼を置くもののほか、
    動物や無生物の「吾輩」に自らの特色、出自、生態や人間社会との関りなどを詳細に語らせる
    「自己紹介もの」も多いことが分かります。
    更に、これらとは一線を画した「吾輩は」の定番に、
    人間である著者当人の現実世界での立場・職業を直截に表したエッセイがあります。
    この場合は「路線バス運転手」など、具体的な職業・立場が明示されています。
    「吾輩は猫である」というタイトルは、猫のような可愛らしい動物や、意思を持たない無生物が
    「吾輩」という大げさな言葉で自称しているところが可笑しみを増しているようにも感じられます。
    そんなところも、「吾輩は○○である」タイトルがいまだに生み出され続けている理由なのかもしれません。

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  • マンガで知る漱石

    『漱石山房記念館だより 第3号』で「漱石山房記念館訪問記」を描いていただいた、
    漫画家・香日ゆらさんによる文豪コメディ『JK漱石』の第1巻が12月8日に刊行されました。
    ※『漱石山房記念館だより』のバックナンバーはこちらをクリック

    『JK漱石』は夏目漱石が記憶を持ったまま、100年後の現代日本に生まれ変わり、
    女子高生として生活する……というストーリーのマンガです。

    香日ゆら『JK漱石 1』(KADOKAWA)

    香日ゆらさんは『先生と僕-夏目漱石を囲む人々-』(全4巻/KADOKAWA)や、
    『漱石とはずがたり』(全2巻/KADOKAWA)、
    『夏目漱石解体全書』(河出書房新社)など、
    今までにも漱石に関する書籍を多数刊行されています。
    今回の『JK漱石』はコメディ色の強い作品ではありますが、
    漱石に関するさまざまな知識が豊富に織り込まれていて、
    漱石の生涯についてご存知の方は、ちりばめられたオマージュを楽しめます。
    漱石についてよく知らない方でも、元ネタについて丁寧に解説されていますので、
    マンガを読みながら知識を深めることができるのではないでしょうか。

    この単行本第1巻に収録されている第2話の扉背景には、
    漱石山房記念館の再現展示室を描いてくださいました。
    漱石の書斎の細かい部分まで取材していらっしゃいますので、
    ぜひ実際の再現展示室と見比べてみていただければと思います。

    『JK漱石』をはじめ、香日ゆらさんの著作は、
    漱石山房記念館1階のブックカフェと、地下1階の図書室でお読みいただけます。
    また、漱石山房記念館ミュージアムショップでは香日ゆらさんデザインの
    「漱石作品湯呑」(税込み1,300円)も販売中です。
    ※こちらの商品は通信販売には対応しておりません。

    香日ゆら「漱石作品湯呑」

    香日ゆら「漱石作品湯呑」

     

    テーマ:その他    
  • ボランティアレポート10 朗読会「芥川龍之介作品を読む」を終えて ~「泣きました…」のわけ~

    漱石山房記念館では、ボランティアガイドが漱石の書斎の再現展示室の展示解説を行っています。
    新型コロナウイルス感染拡大防止のため、しばらく休止していましたが、7月から活動を再開しています。
    この吾輩ブログではボランティアガイドによるレポートをお届けしてまいります。

    開館5周年記念「夏目漱石と芥川龍之介」特別展にちなみ、11月12日(土)漱石山房記念館講座室で、
    ふみのしおり(新宿歴史博物館ボランティアガイド朗読の会)による朗読会が開催されました。
    会場はほぼ満席。メンバーが「漱石山房の秋」「鼻」「蜘蛛の糸」を、そして私は「蜜柑」を朗読しました。

    朗読会の風景

    閉会直後のことです。一人の若い女性が近寄って来て「「蜜柑」泣きました」と言われました。
    私はこれまで「良かった」「感動しました」と言われることはありましたが「泣かれた」のは初めて。
    舞い上がるような気持ちになりました。
    少しおぼつかない日本語でしたので「学生さんですか?」と尋ねると
    「先月、中国から来た留学生です」とのこと。
    そして、「芥川龍之介は人気があり、中国語に翻訳された作品を子供のころから読んでいました」
    と話してくださいました。
    芥川龍之介の世界的な人気を改めて知ると同時に、
    この日もこうして文化の交流がなされていたことを実感しました。

    彼女のことを思い出しながら帰りました。
    『蜜柑』は奉公先に向かう少女が、走る汽車の窓から沿線で見送る3人の弟たちに、
    懐から取り出した蜜柑を投げて労に報い、別れを告げる物語です。
    私の朗読した「蜜柑」が、多少なりとも彼女を感動させたのは相違ありません。
    直接、私に伝えて下さったことがその表れでしょう。朗読者冥利に尽きます。
    しかしふと「泣いたのは彼女の体験が「蜜柑」の少女に重なったからではないのか」という、
    もう一つの思いにあたりました。
    ひと月前の中国での旅立ちの日、家を出る玄関で、故郷の駅で、あるいは空港のロビーで、
    彼女もまた家族や友人に向かって手を振ったのではないでしょうか。
    きっと不安も感謝もあったと思います。
    そのシーンがよみがえり、「泣きました……」と言ってくださったのかもしれません。
    母国を離れ、早稲田大学で日本文学を学び始めた彼女。
    これからの日本での生活が、温かくそして心地良い日々であって欲しいと願わずにはいられませんでした。

    (漱石山房ボランティア:岩田理加子)

    <ふみのしおり活動予定>
    ・令和5年2月4日(土)14時~「北新宿図書館朗読会 夢十夜をすべて」 新宿区立北新宿図書館
    ・令和5年2月9日(木)14時~「夏目漱石誕生記念 2月9日朗読会」 新宿区立漱石山房記念館
    ・令和5年3月4日(土)14時~「第11回ひなまつり朗読会 大人を休んで童心にかえりませんか」 同上
    ※イベントの詳細は後日、各施設のWebサイト等でお知らせします。

    テーマ:その他    
  • 漱石の硯

    令和4(2022)年10月16日付日本経済新聞の文化欄に、
    詩人の高橋順子さんによる「漱石の硯」という記事が掲載されました。
    高橋さんの叔母である石津信子さんが、
    夏目漱石の長男・純一氏宅に家政婦として勤めていた際に譲り受けた、
    漱石の遺品の硯についての文章です。
    叔母の信子さんの思い出話とともに硯の来歴が詳しく語られており、
    現在は漱石山房記念館に収蔵されていることも紹介されていました。

    この新聞記事をお読みになった方から、
    漱石山房記念館にお問合せを多くいただいています。
    当館には漱石の書斎の再現展示室があり、
    文房具をはじめとした漱石の身の回りの品が再現されています。
    「再現展示」ですので、書斎内の展示品は全てレプリカで、
    硯もありますが、これは今回の新聞記事で紹介されたものではありません。

    今回の新聞記事で紹介された硯は、
    昭和20(1945)年5月、山の手空襲により漱石山房が焼失した後、
    焼け跡から出土したものの1つです。
    添書の内容から「蓮の花の上に蛙が乗っていた」意匠が施されていたようですが、
    戦災による欠損のため、現在は確認できない状態です。

    漱石の硯の写真

    写真をご覧いただくと、確かに硯の縁に蓮の茎のような部分があり、
    先の方が折れて欠損しているような様子が見られます。
    この欠損した部分に蓮の花と蛙がついていたのでしょうか。

    漱石の硯の写真

    この硯は常設での展示は行っておりませんが、
    令和4(2022)年12月1日(木)~令和5(2023)年4月9日(日)に開催の
    《通常展》テーマ展示 ああ漱石山房 で展示する予定です。
    ご興味を持たれた方はぜひこの機会に、実物をご覧いただければと思います。

    テーマ:漱石について    
  • ミュージアムショップに新商品が仲間入りしました(後編)

    漱石山房記念館のミュージアムショップでは、
    展示図録や夏目漱石にまつわるミュージアムグッズ、漱石作品の書籍などを取り扱っています。

    特に当館のみで販売しているオリジナルグッズは、来館者の皆さまに喜んでいただけるような商品を、
    少しずつ増やしていけるように力を入れて取り組んでいます。
    こちらのブログの前編ではこの秋の新商品『吾輩ハ猫デアル』の絵はがきをご紹介しました。
    後編では同じく『吾輩ハ猫デアル』の表紙をモチーフにした新商品、和紙ステッカーをご紹介します。

    『吾輩ハ猫デアル』の初版本の装丁について、夏目漱石はどのように考えていたのでしょうか?
    明治38(1905)年8月9日に漱石が『吾輩ハ猫デアル』の装丁を手掛けた橋口五葉宛てに送った葉書には
    「御依頼の表紙の義は矢張り玉子色のとりの子紙の厚きものに朱と金にて何か御工夫願度」とあります。
    「御依頼の表紙」とは『吾輩ハ猫デアル』上編の表紙のことで、
    橋口五葉はこの漱石の依頼のとおりに朱色と金色を用いた装丁で表紙を飾りました。

    さらに明治39(1906)年11月11日の橋口五葉宛ての書簡で漱石は中編の表紙について
    「今度の表紙の模様は上巻のより上出来と思ひます。あの左右にある朱字は無難に出来て古い雅味がある」
    と書いています。どうやら上編に比べて中編のデザインの方がより漱石は気に入ったようです。

    この表紙のデザインをステッカーにするにあたって、
    当館ではやはり漱石がこだわった部分を再現できればと考えました。
    そこで「とりのこ紙」をイメージした和紙素材のステッカー用シートに、
    「朱」色と「金」の箔押しで上・中・下編の表紙のモチーフを印刷し、
    それぞれ名刺ほどの大きさのステッカーが出来上がりました。
    3枚セットで200円(税込み)のお手頃価格で好評販売中です。

    さらに、11月27日(日)まで開催している「漱石×芥川スタンプラリー」では
    田端文士村記念館と漱石山房記念館を巡ってスタンプを集めた方全員に、
    この3種類の中からお好きな柄の和紙ステッカー1枚をプレゼントしています。
    無料でご参加いただけるスタンプラリーですので、チャレンジしてみてはいかがでしょうか。

    ※引用文の表記は岩波書店『定本漱石全集 第二十二巻』(2019年)に従いました。

    テーマ:その他    
  • ミュージアムショップに新商品が仲間入りしました(前編)

    漱石山房記念館のミュージアムショップでは、
    展示図録や夏目漱石にまつわるミュージアムグッズ、漱石作品の書籍などを取り扱っています。

    特に当館のみで販売しているオリジナルグッズは、来館者の皆さまに喜んでいただけるような商品を、
    少しずつ増やしていけるように力を入れて取り組んでいます。

    この秋は、こちらのブログでもご紹介した開館5周年記念グッズのほかに、
    『吾輩ハ猫デアル』の初版本装丁をモチーフにした新商品が2種類、仲間入りしました。

    1種類目は『吾輩ハ猫デアル』の絵はがきです。
    夏目漱石『吾輩ハ猫デアル』の初版本は上、中、下編の3冊に分かれて出版されました。
    この3冊は色違いのカバー(ジャケット)にくるまれており、
    皆さんがメディア等で目にすることが多いのはこのカバーが付いた状態ではないでしょうか?

    『吾輩ハ猫デアル』初版本はこのカバーの下の表紙にも美しいデザインが施されています。
    3冊それぞれに個性的な猫のイラストにタイトルの文字が描かれ、
    箔押しで豪華に仕上げられているこの表紙デザインは、橋口五葉によるものです。

    漱石山房記念館では以前から上編表紙の絵はがきを販売しておりましたが、
    今回、中編と下編の絵はがきが仲間入りして、3冊分の絵はがきが揃いました。
    どちらの柄も1枚100円(税込み)です。
    今後も漱石山房記念館ミュージアムショップでは、
    初版本のデザインが気軽に楽しめる絵はがきを充実させていきたいと思います。
    (後編に続く)

    ※こちらのブログの写真の本は当館図書室に配架している復刻版です。
    絵はがきは当館所蔵の初版本を撮影した写真から作成していますので、
    ヤケやシミなども修正しておりません。あらかじめご了承ください。

    テーマ:お知らせ    
  • 中学生の職場体験学習 ミュージアムショップのポップ作りに挑戦!

    漱石山房記念館では新宿区内の中学校の
    職場体験学習を受け入れています。
    施設全体について学ぶことから始まり、
    3日間の日程で、実際に職員と一緒に受付でのお客様の対応、
    図書室の整理、次回展示会のちらしやポスターの発送作業など、
    様々な業務を体験しました。
    その中で、ミュージアムショップに仲間入りした
    新商品のディスプレイとポップづくりに挑戦しました。
    新商品は、今月売り出したばかりの㈱芸艸堂の和紙メモ箋2種、
    マスキングテープ2種、三つ折りクリアファイル1種の5点です。
    夏目漱石『吾輩ハ猫デアル』の表紙のイラストをデザインした
    和紙メモ箋や、歌川広重の「猫」浮世画譜をデザインにしたマスキングテープなど、
    すべての商品が猫をモチーフとした人気の商品です。

    ディスプレイではお客様が商品のことを一目で分かるよう、
    工夫してガラスケースに陳列してくれました。
    さらに5点の中から自分で選んだグッズにじっくりと向きあい、
    大変目を引く素敵なポップを仕上げてくれました。
    私たち職員一同も、その仕上がりのすばらしさに感心し、
    代わるがわるショップの陳列ケースを眺めに行きました。
    中学生からは「好きなように作ってと言われて最初はとまどいましたが、
    アドバイスをもらい納得のいくものが作れました」
    「普段できないことができて、とても楽しかったです」
    などの感想を聞くことができました。
    皆さまもご来館の際にはぜひ漱石山房記念館ミュージアムショップにお立ち寄りいただき、
    中学生が挑戦してくれた素敵なポップをご覧ください。

    テーマ:お知らせ    
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