漱石について 一覧

吾輩ブログ記事
  • 《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造のみどころ(その1)

    漱石山房記念館2階資料展示室では令和5年7月9日(日)まで、
    《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造を開催しています。
    会場は「第1章 修善寺の大患」、「第2章 森成さんと漱石さん」の2章立てで構成しています。

    明治43(1910)年6月、「門」の連載を終えた漱石は長与胃腸病院に入院し、
    長年患っていた胃潰瘍の本格的な治療を開始します。
    退院後の8月6日には、医師の許可を得て、静養先の修善寺を訪れます。
    同地に滞在予定の門下生・松根東洋城との句作や謡を楽しみにしていた漱石ですが、
    到着の3日後には体調が悪化し、床に就いてしまいます。
    そして、8月24日には、500グラムもの大吐血の後に人事不省に陥ります。
    この出来事は「修善寺の大患」として知られています。
    胃潰瘍の漱石にとって、この修善寺滞在には、
    心理的な不安要素がいくつも重なっていました。
    まず、修善寺行ですが、新橋駅で待ち合わせのはずの東洋城に会えず、
    御殿場で下車して二時間遅れの後続列車を待ち、三島で伊豆鉄道への乗り継ぎを40分待ち、
    終着駅の大仁(おおひと)駅では雨で車(人力車)が捕まらず、
    出発から8時間経てようやくたどり着いた宿には空きがなく、
    交渉してなんとか一泊だけ部屋を都合するなど、病後の体に負担をかけた旅でした。
    漱石の病状悪化の報は、東洋城によって各所に発せられますが、
    おりしも関東は8日から続く大雨で、土砂災害により鉄道は不通になり、
    電信や電話も混乱をきたしていました。
    漱石は、「思ひ出す事など」(明治43年10月29日~明治44年2月20日『東京朝日新聞』連載)のなかで、
    宿にかかってきた電話の相手が暴風雨の雑音で妻の鏡子とわからずに、
    「貴方(あなた)といふ敬語を何遍か繰返した」(「思ひ出す事など 十」)と書いています。
    そして水害の新聞報道を見て、
    「東京と自分とを繋ぐ交通の縁が当分切れ」「多少心細いものに観じない訳に行かなかつた。」
    (「思ひ出す事など 十」)とも記しています。
    第1章のコーナーには、漱石が初日に一泊した「菊屋別荘」と
    修善寺の大患の舞台となった「菊屋」(本館)の描かれた
    明治37(1904)年発行の「豆州修善寺温泉場改図」や、
    漱石が乗車した、丹那トンネル開通以前の東海道線と伊豆方面の路線図、
    水害の様子を伝える新聞記事などを展示しています。
    ぜひ会場で、大患前夜の漱石の心情に浸ってみてください。
    皆さまのご来館をお待ちしております。

    次回のみどころ(その2)は、8月24日、大患当日の記録について迫ります。

    テーマ:漱石について    2023年05月22日
  • どうする漱石-家康家臣・夏目広次との関係-

    現在、放映中のNHK大河ドラマ「どうする家康」に登場している
    徳川家康の家臣・夏目広次(系図等では吉信)(1518-1572)は、
    夏目漱石の先祖と言われていますが本当でしょうか。
    夏目広次は、武田信玄に敗北を喫した元亀3(1572)年の三方ヶ原の戦いで、
    家康の身代わりとなって討死したことで知られます。
    もともと三河譜代の家臣で、永禄6(1563)年三河一向一揆では一揆側に加担したものの、
    家康から許されています。
    広次の子孫は江戸幕府の旗本として続き、
    幕府編纂の系図集『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』には同族10家の夏目家が載っています。
    同書によれば、夏目氏は清和源氏で多田満仲の弟・満快の8代国忠が源頼朝から
    奥州藤原氏追討の勲功賞として信濃国夏目村(比定地不明)を拝領したことに始まると言います。
    その後、南北朝時代に三河に移り、
    そして安城松平家(のちの徳川家)に仕えることになったとしています。
    さて、漱石は慶応3(1867)年、江戸牛込馬場下横町の町名主(なぬし)の
    夏目小兵衛直克の子として生まれました。
    馬場下横町の名主夏目家は、元禄15(1702)年、四兵衛直情(なおもと)が
    初めて幕府から名主役を仰せ付けられたといい、5代続いて幕末まで至っていますが、
    先祖を旗本夏目氏と同じとしています。

    漱石の祖父・夏目小兵衛直基像(『漱石写真帖』部分)


    漱石の家系について詳しく言及しているのは、漱石の門下生・小宮豊隆です。
    小宮の『夏目漱石』によれば、漱石の夏目家は旗本夏目家とルーツは同じものの、
    三河に移らずそのまま信濃に残った家系で、室町時代の中頃には守護小笠原持長に仕え、
    その後甲斐の武田信昌から信玄・勝頼まで5代の武田家に仕え、
    八代郡夏目原村(現山梨県笛吹市御坂町)に居住したといいます。
    武田家滅亡の後、小田原北条氏重臣で岩付城(さいたま市岩槻区)主の太田氏房に仕え、
    北条氏滅亡後は、家康家臣で岩槻城主の高力清長・氏正へと主君を変えたといいます。
    これらは漱石の兄直矩(なおのり)の夏目家本家の家系図に拠ったもので、
    もちろん史料的な裏付けが必要ですが、漱石家の家伝として重視しなければならないでしょう。
    漱石自身もこれらは認識しており、
    「僕の家は武田信玄の苗裔(いえすじ)だぜ。えらいだらう。」
    (漱石の談話「僕の昔」明治40年)と発言しています。
    信玄の子孫というのは不正確ですが、漱石と市谷小学校の同級生だった篠本二郎も
    同じ武田旧臣の家柄だったということで漱石と口喧嘩をした思い出を語っています(同「腕白時代の夏目君」昭和10年)。
    すなわち、漱石の夏目家は、旗本夏目氏とルーツは同じものの三河に移住した系統ではないので、
    家康家臣の夏目広次を先祖に数えるのは正しくないことがわかります。
    江戸の町名主の家に生まれた江戸っ子漱石が、
    徳川家康に親近感を抱いていたのは確かだと思いますが、
    漱石の家系は家康を震え上がらせた武田信玄の家臣だったようです。
    (漱石山房記念館学芸員 今野慶信)

    テーマ:漱石について    2023年05月08日
  • 《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造展 開幕しました

    漱石山房記念館2階資料展示室では
    《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造(もりなりりんぞう)展が開幕しました!
    会期は4月13日(木)~7月9日(日)まで、
    春から初夏にかけての気持ちのよい季節です。
    吾輩ブログでは、これから展示会のみどころについてお伝えしていく予定ですが、
    今回は、展示会チラシの裏話を一つご披露します。

    今回のチラシは、新緑を背景に、
    漱石と森成麟造の写真を配置しています。
    森成の肖像写真は修善寺の大患1年後、27歳の時の写真です。
    新緑の背景写真は修善寺の桂川です。

    よく目を凝らしてチラシをご覧いただくと、
    漱石の右腕のあたりに朱塗りの橋がうっすらと見えませんか。
    桂川に架かる桂橋です。
    漱石が修善寺を訪れたのは夏の盛りの8月6日。
    そこから8月24日には大量吐血をし(世にいう修善寺の大患)、
    東京に戻れたのは、秋も深まった10月11日でした。
    森成は、大患前の8月18日から帰京する日まで、
    2か月近く修善寺に滞在して漱石を看護しました。
    その間、修善寺の山を散策しては草花を持ち帰り、
    寝たきりの漱石の目を楽しませました。
    今の季節、修善寺の温泉街はちょうど写真のような
    新緑に覆われていることでしょう。
    展覧会とあわせて、漱石と森成の関係に思いを馳せながら
    修善寺を訪れてみてはいかがでしょうか。

    テーマ:漱石について    2023年04月19日
  • 夏目漱石内坪井旧居の公開が再開されました

    夏目漱石は明治29(1896)年4月に熊本の第五高等学校に転任し、
    明治33(1900)年にイギリス留学を命じられるまでの熊本時代に、
    合計6回も転居をしています。
    漱石が熊本で住んだ6ヶ所のうち現存するのは、
    3番目に住んだ大江村の家と5番目に住んだ内坪井の家、
    そして6番目に住んだ北千反畑の家の3ヶ所で、
    さらに現在一般公開されているのは大江村の家と内坪井の家の2ヶ所です。

    漱石が3番目に住んだ大江村の家は、
    もともと熊本市中央区新屋敷1丁目(旧大江村)にありましたが、
    昭和47(1972)年に熊本市中央区の水前寺成趣園の隣に移設されました。
    漱石がここに住んだのは明治30(1897)年~31(1898)年。
    この時期に漱石は小説「草枕」の題材になった熊本県玉名市小天温泉へ旅行に出かけました。
    この家で妻の鏡子と書生、女中、飼い犬や飼い猫と一緒に撮影された写真が残されています。

    大江村の家にて(左から書生、漱石、鏡子、女中)
    松岡譲 編『漱石寫眞帖』より

    漱石が5番目に住んだ内坪井の家は、
    現在も当時と同じ熊本市中央区内坪井町にあり、
    熊本市の指定史跡「夏目漱石内坪井旧居跡」として内部公開がされています。
    漱石がここに住んだのは明治31(1898)年~33(1900)年で、熊本時代で最も長く住んだ家です。
    漱石の長女・筆子は明治32(1899)年5月にこの家で生まれました。
    また、小説「二百十日」の題材になった阿蘇山に漱石が登ったのもこの時期です。

    内坪井の家
    松岡譲 編『漱石寫眞帖』より

    夏目漱石内坪井旧居は平成28(2016)年の熊本地震で被害をうけ、
    公開を休止していましたが、復旧がすすみ、
    令和5(2023)年2月9日(木)に公開が再開されました。
    通常は有料の施設ですが、当面の間は特別に入館料が無料とのこと。

    夏目漱石内坪井旧居(写真提供:熊本市)

    熊本は漱石にとって、鏡子との新婚生活や娘の誕生など、
    人生の節目となる出来事をいくつも体験した土地です。
    漱石の足跡をたどりながら、熊本の旧居を巡ってみてはいかがでしょうか。

    テーマ:漱石について    2023年02月25日
  • 《通常展》テーマ展示 ああ漱石山房 のみどころ(後編)

    漱石山房記念館2階資料展示室では令和5年4月9日(日)まで、
    《通常展》テーマ展示 ああ漱石山房 を開催しています。

    夏目漱石は牛込区早稲田南町7(現 新宿区早稲田南町7)の漱石山房で9年間暮らし、
    大正5(1916)年12月9日に亡くなりました。
    書斎は一時片づけられ、漱石の遺体が安置され、祭壇が設けられました。
    12月12日の葬儀が終わった後、30日には書斎は元の状態に戻され、
    机上には、未完となった「明暗」の原稿で「189」と記された原稿用紙の他、
    万年筆、眼鏡入れ、象牙製のペーパーナイフなどが置かれました。
    座布団も敷かれ、絵画の額等も元通りに戻されました。
    一方、客間の方は、霊壇式に写真を飾り、その側には普段は黒い布で蔽ったデスマスクを安置し、
    常に花を取り換え、いつでも香を焚ける仕組みとなりました。

    夏目漱石のデスマスク 新海竹太郎作

    漱石の死後、この家と敷地は夏目家が買取り、母屋は増改築されましたが、
    漱石の書斎は敷地内に曳家され、そのままの状態で保存されました。
    大正12(1923)年9月1日の関東大震災では、ほとんど無傷だったとはいえ、
    危機感をいだいた松岡譲は、建物ごと移築保存して財団法人に管理させようと
    漱石門下生の主なメンバーに提案しました。
    そのあたりの経緯は、今回展示している松岡譲の「九日会手帳」にも記されています。

    九日会第78回例会例会記録
    大正12(1923)年12月9日 九日会手帳

    しかし、なかなか議論はすすまず、昭和6(1931)年11月、夏目家は西大久保に転居し、
    漱石山房はそのままに管理人を置くことになりました。
    この後、戦時体制の強化により、漱石山房は軍関係の寮となったこともあったようです。
    このままでは漱石の書斎は荒らされ、建物も朽ちてしまうと門下生たちは危機感を持ったものの、
    戦時中のため、当時はこれといった有効な手だてもありませんでした。
    小宮豊隆らの努力により、辛うじて蔵書だけは東北大学附属図書館への移管という形に落ち着きましたが、
    松岡譲が抱いた建物ごとの保存の夢はまずは先送りとなってしまいました。
    そして昭和20(1945)年5月、漱石山房は山の手空襲により全焼してしまったのです。
    この時、漱石のデスマスクは書斎に飾られていたようで、山房と共に灰燼に帰してしまいました。
    (展示中のものは、朝日新聞社にあったものを昭和40年に複製したものです)
    このことを、松岡譲は「甚だ象徴的な死と言わなければならない」と記しています。
    「ああ漱石山房」。漱石山房は、門下生のなかに慨嘆とノスタルジーを伴いながら生き続けていました。

    今回は他にも、漱石山房の焼け跡から発見された漱石の硯や、松岡譲が描いた漱石山房図も展示されています。
    漱石の硯の詳細はこちらのブログ記事をご覧ください。
    松岡譲が描いた漱石山房図については『漱石山房記念館だより第11号』に詳しく紹介しています。
    『漱石山房記念館だより』はこちらのページからPDFでご覧いただけます。

    テーマ:漱石について    2023年02月01日
  • 《通常展》テーマ展示 ああ漱石山房 のみどころ(前編)

    漱石山房記念館2階資料展示室では令和5年4月9日(日)まで、
    《通常展》テーマ展示 ああ漱石山房 を開催しています。

    「ああ漱石山房」という印象的なフレーズは、
    夏目漱石の長女・筆子と結婚した松岡譲(1891-1969)がその晩年、エッセイ等によく使用したものです。
    漱石没後50年を迎えた昭和41(1966)年の『サンケイ新聞』12月8日の夕刊に、
    松岡譲による「ああ、漱石山房」という署名記事が掲載され、
    その翌年5月、朝日新聞社から『ああ漱石山房』というエッセイ集が出版されました。

    右:松岡譲『ああ漱石山房』朝日新聞社
    左:松岡譲「ああ漱石山房 目次」

    「漱石山房」とは、夏目漱石が明治40(1907)年9月から、亡くなるまでの9年間生活した、
    牛込区早稲田南町7(現 新宿区早稲田南町7)の借家にあった、それぞれ10畳の書斎と客間を指します。
    漱石は、明治36(1903)年1月、ロンドン留学から帰国した後、
    漱石山房に住むまで、2度ほど転居しています。
    最初は鏡子夫人の実家の中根家に同居した後、
    同年3月から駒込千駄木町(現文京区向丘2)の通称「猫の家」に住みました。
    森鷗外もかつて住んだ家として知られ、小説「道草」の主人公・健三の家のモデルとされています。
    この「猫の家」は現在、愛知県の博物館明治村に保存移築されています。
    次に、明治39(1906)年12月、駒込西片町(現文京区西片町)に転居しました。
    ここには短期間しか住みませんでしたが、のちに漱石を慕う魯迅が住み、「伍舎」と名付けています。
    「趣味の遺伝」の主人公の家で、「三四郎」の広田先生の引っ越し先のモデルとされています。
    漱石はここまで自らの書斎を「漾虚碧堂」と名付けていたと思われます。
    そして、明治40(1907)年9月29日、夏目漱石は早稲田南町7の借家に賃借人として入居しました。
    「漱石山房」の誕生です。
    差配人は町医者の中山正之祐、家の所有者は歌人で病院長の阿部龍夫でした。
    敷地面積340坪の中央に建つ60坪の平屋建ての和洋折衷建築。
    部屋数は7室で家賃は35円でした。

    漱石山房外観(大正5年12月)

    この住宅について、松岡譲は「ああ漱石山房」の中で
    「この家は、元来、三浦篤次郎というアメリカがえりが、明治三十年頃に建てた家だそうで
    当時の文化住宅とでもいうのであろう、一風変った家であった。
    その後、銀行の支店長が住んでいたのが阿部氏の手に移り」と書いています。
    三浦篤次郎という人物については、今まであまり情報がありませんでしたが、
    昨年お亡くなりになった当館ボランティアの興津維信さんの調査によって、
    福島県須賀川出身の自由民権家で、福島県議になりながら2度ほど渡米し、
    明治29(1896)年には愛国生命の取締役になっていたということがわかりました。
    (後編へつづく)

    テーマ:漱石について    2023年01月25日
  • 「吾輩は○○である」

    夏目漱石による最初の長編小説「吾輩は猫である」は、
    日本文学の作品において恐らく最も有名なタイトルの1つでしょう。
    猫が「吾輩」と自称するタイトルはインパクトがあり、
    現代まで様々なパロディ作品を生んでいます。
    有名なものでは、門下生の内田百閒による
    「吾輩は猫である」の続編「贋作吾輩は猫である」があります。
    その他のパロディ作品も、やはり猫に関するものが多く見られます。
    しかし、「吾輩は○○である」というタイトルは、紹介したい対象になりきって物語を作ることができ、
    また話の大まかな紹介まで一気にできる簡便さもあるためか、
    猫だけでなく多岐にわたり利用されています。

    国立国会図書館で検索してみると、1冊の本の形になっているものだけでも多くありますが、
    中でも目に付くのは、やはり動物系です。
    「吾輩は馬である」
    「吾輩は猿である」
    「吾輩は亀である」
    「吾輩はらんちゅうである」(らんちゅうは金魚の一種)
    「吾輩は蚕である」
    などが見当たりました。猫と対をなす人気のペット、
    犬に至っては「ハスキー」「ドーベルマン」など犬種が指定されているものまであります。
    無生物としては、「ロボット」「教卓」「水」「ロンドン」などがあり、
    「細菌」や「ウイルス」まで「吾輩」を自称しています。
    ちなみに、古くから猫の恰好の獲物とされ、
    対比されることの多い「鼠」については、
    「吾輩ハ鼠デアル : 滑稽写生」というタイトルの作品が明治40(1907)年に発表されています。
    (影法師『吾輩ハ鼠デアル : 滑稽写生』 大学館)
    本家「吾輩は猫である」の第1章に当たる部分が発表されたのが明治38年ですから、
    かなり早い段階で登場しています。本家「猫」の影響力や人気が伺えます。

    これらのパロディタイトルの内容を概観してみると、
    本家同様、様々な「吾輩」に人間社会を観察させ、批評させることに主眼を置くもののほか、
    動物や無生物の「吾輩」に自らの特色、出自、生態や人間社会との関りなどを詳細に語らせる
    「自己紹介もの」も多いことが分かります。
    更に、これらとは一線を画した「吾輩は」の定番に、
    人間である著者当人の現実世界での立場・職業を直截に表したエッセイがあります。
    この場合は「路線バス運転手」など、具体的な職業・立場が明示されています。
    「吾輩は猫である」というタイトルは、猫のような可愛らしい動物や、意思を持たない無生物が
    「吾輩」という大げさな言葉で自称しているところが可笑しみを増しているようにも感じられます。
    そんなところも、「吾輩は○○である」タイトルがいまだに生み出され続けている理由なのかもしれません。

    テーマ:漱石について    2022年12月22日
  • 漱石の硯

    令和4(2022)年10月16日付日本経済新聞の文化欄に、
    詩人の高橋順子さんによる「漱石の硯」という記事が掲載されました。
    高橋さんの叔母である石津信子さんが、
    夏目漱石の長男・純一氏宅に家政婦として勤めていた際に譲り受けた、
    漱石の遺品の硯についての文章です。
    叔母の信子さんの思い出話とともに硯の来歴が詳しく語られており、
    現在は漱石山房記念館に収蔵されていることも紹介されていました。

    この新聞記事をお読みになった方から、
    漱石山房記念館にお問合せを多くいただいています。
    当館には漱石の書斎の再現展示室があり、
    文房具をはじめとした漱石の身の回りの品が再現されています。
    「再現展示」ですので、書斎内の展示品は全てレプリカで、
    硯もありますが、これは今回の新聞記事で紹介されたものではありません。

    今回の新聞記事で紹介された硯は、
    昭和20(1945)年5月、山の手空襲により漱石山房が焼失した後、
    焼け跡から出土したものの1つです。
    添書の内容から「蓮の花の上に蛙が乗っていた」意匠が施されていたようですが、
    戦災による欠損のため、現在は確認できない状態です。

    漱石の硯の写真

    写真をご覧いただくと、確かに硯の縁に蓮の茎のような部分があり、
    先の方が折れて欠損しているような様子が見られます。
    この欠損した部分に蓮の花と蛙がついていたのでしょうか。

    漱石の硯の写真

    この硯は常設での展示は行っておりませんが、
    令和4(2022)年12月1日(木)~令和5(2023)年4月9日(日)に開催の
    《通常展》テーマ展示 ああ漱石山房 で展示する予定です。
    ご興味を持たれた方はぜひこの機会に、実物をご覧いただければと思います。

    テーマ:漱石について    2022年11月22日
  • テーマ展示「夏目漱石「草枕」の世界へ」のみどころ

    「草枕」に登場する英国作家、ジョージ・メレディス

    「草枕」の中には、詩や小説など、いくつかの英国文学が引用されています。
    そのなかでジョージ・メレディス(1928~1909年)は、
    漱石が影響を受けた作家のひとりです。
    メレディスの作品としては、「ビーチャムの生涯」、
    「シャグパットの毛剃り」が「草枕」中で引用されています。
    展示している『漱石文学瑣談』(大正6〈1917〉年7月15日)にある
    「ジョオジ・メレデイス」は、明治42(1909)年にメレディスが亡くなったことを受け、
    同年5月21日、22日に「国民文学」(『国民新聞』紙上)に掲載された、
    漱石と門下生の野上臼川(豊一郎)とのメレディスに関する対談「メレディスの訃」を
    まとめたものと思われます。

    展示中の『漱石文学瑣談』

    その中で漱石は、メレディスの「シャグパットの毛剃り」を高く評価しており、
    「よくあんなに盛んな想像力が続かれるものだと思ふ」と記しています。
    東北大学附属図書館に所蔵されている漱石の旧蔵書の中にあるメレディスの作品は、
    メレディスの全集(The Works of George Meredith)の他3点確認できます
    (東北大学附属図書館『漱石文庫目録』1971年)。
    また蔵書への書き込みは、『定本漱石全集』第27巻によれば
    10点確認できます。中でも「草枕」第9章に引用されている「ビーチャムの生涯」の末尾部分には、
    「カヽル結末は容易になし。余音(韻)と云ふは此事なり」と記し、
    作品の結末について感嘆する書き込みが記されています。
    漱石は野上臼川との対談でメレディスの作品は
    「大抵皆読んだ。そうして大へんエライと思ってる」としています。
    蔵書への書き込みから推測すると、
    漱石はメレディスの全集を読んだのではないでしょうか。
    現在、メレディスの作品は、代表作として知られる『エゴイスト』の他、
    『リチァード・フェヴェレルの試練 父と息子の物語』、
    「シャグパットの毛剃」(『ゴシック名訳集成2 暴夜幻想譚』)、
    「喜劇論」など数点が翻訳されていますが、多くの作品は翻訳されていません。
    漱石が影響を受けたメレディスの作品がどの様なものであったのか、
    「草枕」に引用されている以外の作品についても興味が尽きません。
    (漱石山房記念館前館長 鈴木靖)

    テーマ:漱石について    2022年09月01日
  • 万年筆という選択

    約四半世紀前になりますが、入社時に支給された文房具の中に
    電卓と並んで事務用万年筆がありました。
    当時は殆どの書類を手書きまたはワープロで作成していたからです。
    文書や年賀状もパソコンで手軽に作成できるようになった今では、
    手書きの機会が大幅に減ったという方も多いのではないでしょうか。
    私自身、手書きのものは書き手の存在を
    身近に感じられるような気がしています。
    そのため数年前に「手書きの機会を増やしてみよう」と思い立ち、
    万年筆を購入しようと考えました。
    万年筆を選択した理由は、持ち主の書き癖により書き味が変化するため
    「育てるもの」と言われていることから、
    使えば使うほど書きやすくなって、
    無くてはならない一本になってくれればと期待したからです。
    そこでインターネットで万年筆を調べたところ、
    その種類(需用?)の多さに驚きました。
    デザインだけでなく、素材や文字幅の種類など多岐に渡り、
    最初はどれを選べばいいのか全く見当がつきませんでした。
    同様に驚いたのがインクの種類の多さです。選ぶ楽しみが増えると思う一方で、
    このままでは絞り切れずに幾つも買ってしまうのではないかとの不安を覚えました。
    その不安は的中し、現在は複数の万年筆とインクが手元にあります。

    漱石山房再現展示室より

    漱石は「余と万年筆」(『定本 漱石全集 第十二巻』岩波書店、2017年)の中で
    「余の如く機械的の便利には夫程重きを置く必要のない原稿ばかり書いてゐるものですら、
    又買ひ損なつたか、使ひ損なつたため、万年筆には多少手古擦(てこず)つてゐるものですら、
    愈(いよいよ)万年筆を全廃するとなると此位の不便を感ずる所をもつて見ると、其他の人が
    価の如何(いかん)に拘(かか)はらず、毛筆を棄てペンを棄てゝ此方に向ふのは向ふ必要があるからで
    財力のある貴公子や道楽息子の玩具に都合のいゝ贅沢品だから売れるのではあるまい。」
    と万年筆の実用性を認めています。

    また「酒呑が酒を解する如く、筆を執る人が万年筆を解しなければ
    済まない時期が来るのはもう遠い事ではなからうと思ふ。
    ペリカン丈の経験で万年筆は駄目だといふ僕が
    人から笑はれるのも間もない事とすれば、
    僕も笑はれない為に、少しは外の万年筆も試してみる必要があるだらう。」
    とも書いています。
    手書きの機会が減った今、
    その貴重な時間をより良く楽しむためのアイテムとして、
    万年筆を選択してみては如何でしょうか。

    テーマ:漱石について    2022年08月24日
  • 絵本で読む「草枕」 後編

    漱石山房記念館ミュージアムショップで扱う書籍の中に、
    『絵本 草枕~KUSAMAKURA~』(以下、『絵本 草枕』)という1冊があります。
    《通常展》テーマ展示 夏目漱石「草枕」の世界へ―絵本・絵巻・挿絵にみる「草枕」-
    (会期:令和4年7月7日(木)~10月2日(日))では、この本の原画も展示されます。
    『絵本 草枕』を発行するHalf wayの小須田祐二さんにお話を伺いました。

    前編から続く)
    ―小須田さんは「草枕」の舞台である熊本県玉名市にも足を運んでいらっしゃるそうですね。
    (小須田)最初は2016年2月に、「草枕」を絵本化するプロジェクトを始めるにあたって
    物語の舞台を訪問してみようと思い、「草枕交流館」へ向かいました。
    熊本市からバスで行ったのですが、そこで夏目漱石が旅した道が「草枕の道」として現在も歩けることを知り、
    それなら歩いてみようと思って2時間くらいかけて歩きました。
    峠を越えると、目の前に有明海が広がって、海の先にそびえる雲仙岳が見えました。
    小天温泉の方へ峠を下る途中には一面の蜜柑畑があり、漱石が滞在した「前田家別邸」に続きます。
    「草枕」の舞台になった美しい風景を体感して「漱石にとっても桃源郷みたいな場所だったのかな」と思いました。
    それ以来、玉名市を何度も訪問し、「前田家別邸」に隣接する旅館「那古井館」にも宿泊するなど、親しんでいます。

    小天温泉の蜜柑畑から雲仙岳を臨む
    (撮影:小須田祐二)

    ―『絵本 草枕』は電子書籍にもなっていますが、そのBGMも「草枕の道」にゆかりがあるそうですね。
    (小須田)『絵本 草枕』の電子書籍は現在、アプリから無料でご覧いただけます。
    ※電子書籍の詳細はこちらをクリック
    語りは熊本出身で元アナウンサーのKINUKOさん、
    音楽はNHK「ラジオ深夜便」にも出演する音楽家の守時タツミさんです。
    守時さんの音楽には小鳥の声や雨の音が入っていますが、
    それらは守時さんが「草枕の道」を実際に歩いて収録した音です。

    「草枕の道」峠の茶屋にて 小須田祐二さん

    ―最後に、7月7日からの「夏目漱石「草枕」の世界へ―絵本・絵巻・挿絵にみる「草枕」―」展に向けて、
    小須田さんからメッセージをいただければと思います。
    (小須田)私の手元にある新潮文庫の『草枕』は、本文が約170ページに対して、注釈が約30ページもついています。
    それだけ「草枕」には漱石の教養・知的背景が詰まっている、深みのある作品だということなのではないでしょうか。
    現代の私たちが読むには少しハードルの高い気もする「草枕」ですが、
    今回の展示は親しみやすいものになるのではと期待しています。
    また、漱石作品で「坊っちゃん」の舞台が「愛媛・松山の道後温泉」というのはよく知られていますが、
    それに比べて「草枕」の舞台が「熊本・玉名の小天温泉」というのはピンとこない方が多いような気がします。
    今回の展示を通して「草枕」の舞台についても知っていただければ嬉しいです。

    テーマ:漱石について    2022年07月03日
  • 絵本で読む「草枕」 前編

    漱石山房記念館ミュージアムショップで扱う書籍の中に、
    『絵本 草枕~KUSAMAKURA~』(以下、『絵本 草枕』)という1冊があります。
    《通常展》テーマ展示 夏目漱石「草枕」の世界へ―絵本・絵巻・挿絵にみる「草枕」-
    (会期:令和4年7月7日(木)~10月2日(日))では、この本の原画も展示されます。
    『絵本 草枕』を発行するHalf wayの小須田祐二さんにお話を伺いました。

    『絵本 草枕~KUSAMAKURA~』
    原作:夏目漱石 脚色:結城志帆 画:いとう良一
    発行:小須田祐二(「草枕」絵本化プロジェクト)

    ―『絵本 草枕』を出版しようと思ったのは、どのようなきっかけですか?
    (小須田)若い頃から漱石の「草枕」が好きで、いつもお風呂に入りながら文庫本を何度も読み返していました。
    「草枕」の中で、画工が書物を読んでいると那美さんが「御勉強ですか」と声をかけてくるシーンがあります。
    画工は「勉強じゃありません。只机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」と答えますが、
    それと同じように私も適当に開いた部分をパラパラと読んでいました。
    2016年が漱石没後100年、2017年が漱石生誕150年ということで話題になり始めた頃に、
    ふと思いついて「草枕」を初めて最初から最後まで通して読んでみました。
    あらためて読み返すと、特に大きな事件は起きないけれども、ほんわかとした美しい物語だと思いました。
    絵本にしてみたら、この美しさが見えてくるのでは?と思ったのがきっかけです。

    ―『絵本 草枕』は小須田さんの目論見通り、とても美しい本ですね。
    (小須田)画を担当した、いとう良一さんとはある展示会で出会ったのですが、
    作品の優しい雰囲気が気に入りまして、直感的に「草枕」の絵本の画を依頼しようと思いました。
    漱石の原文を活かしながら絵本用のテキストを作成して、それを元にいとう良一さんに画を描いていただきました。

    Ⓒいとう良一

    ―最初はクラウドファンディングを利用して出版されたと伺いました。
    (小須田)2016年11月にクラウドファンディングを開始して、2017年4月に本が出来上がりました。
    最初は500部限定で出版して、クラウドファンディング支援者の皆さまに、
    物語の舞台になった熊本県玉名市や小天(おあま)温泉の特産品と一緒にお渡ししました。
    その後、ご好評をいただいて、玉名市の文化施設「草枕交流館」で販売したり、
    小天温泉の旅館「那古井館」では各部屋に置いてくださるようになりました。
    漱石山房記念館では現在、ミュージアムショップで販売しているほか、
    ブックカフェや図書室で自由に読んでいただくこともできます。
    どうぞお気軽にお手にとっていただければと思います。
    後編へつづく)
    ※引用文の表記は新潮文庫『草枕』(昭和25年初版、平成17年改版)に従いました。

    テーマ:漱石について    2022年06月29日
  • お庭のザクロが実ってきました

    漱石山房記念館の前庭には、漱石の作品にちなんだ植物が植えられています。
    初夏の今時期は、ザクロの鮮やかな赤い花が受粉を終えて、
    果実に成長するかわいらしい姿を見ることができます。

    ザクロは、漱石作品『それから』の中で、
    主人公・代助の気分を表す場面に登場します。
    「柘榴(ざくろ)の花は、薔薇よりも派手にかつ重苦しく見えた。
    緑の間にちらりちらりと光って見える位、強い色を出していた。
    従ってこれも代助の今の気分には相応(うつ)らなかった。」

    (夏目漱石『それから』岩波文庫、138頁)
    暗調を帯びた気分の代助に、ザクロの花は、
    「余りに明る過(すぎ)るもの」、堪えがたいものと映ります。
    確かに、ザクロの花は濃い緑の葉の中で、
    小さいながらも力強く明るく咲いているように見えます。
    漱石山房記念館にお越しの際は、ぜひお庭の植物にも注目してみてください。
    小説の世界が広がります。

    テーマ:漱石について    2022年06月27日
  • 漱石の長襦袢

    漱石山房記念館では現在、令和4年6月12日(日)までの期間限定で、
    漱石の遺品の「長襦袢」と「硯」を特別公開しています。
    この長襦袢は平成29(2017)年の当館開館にあたって、
    半藤末利子名誉館長から寄贈されたものです。

    漱石の長襦袢


    半藤名誉館長は夏目漱石の門下生で作家の松岡譲と、
    漱石の長女・筆子の四女で、漱石の孫にあたります。
    『夏目家の糠みそ』、『漱石夫人は占い好き』(ともにPHP研究所)、『夏目家の福猫』(新潮社)など、
    夏目家に関するエッセイを多く執筆されており、
    この長襦袢の来歴については、著作『漱石の長襦袢』(文藝春秋)の中に詳しく記されています。
    『漱石の長襦袢』は当館ブックカフェや図書室にも配架されていますので、
    展示をご覧になった後に、ぜひお読みいただければと思います。

    昨年出版された著作『硝子戸のうちそと』(講談社)には、
    「漱石山房記念館」という一章が収録されており、
    当館の「整備検討会」や「完成を祝う会」の事なども記されています。
    また、5月24日放映のテレビ朝日『徹子の部屋』で語られた、
    夏目漱石のエピソードは「一族の周辺」の章に、
    夫の半藤一利さんとのエピソードは「夫を送る」の章に綴られています。
    『硝子戸のうちそと』も当館図書室でお読みいただけるほか、
    ミュージアムショップでも販売しています。

    半藤名誉館長の夏目家に関する著作はどれも、
    漱石の孫ならではの貴重なエピソードが描かれています。
    番組をご覧になってご興味を持たれた方は、お手に取ってみてはいかがでしょうか。

    テーマ:漱石について    2022年05月27日
  • 漱石の言葉

    当館の2階通路展示室では、漱石の作品や、門下生・友人に宛てた手紙の中から、
    漱石の言葉をご紹介しています。
    小説の登場人物に託した漱石の想い、門下生や友人に示した漱石の人生観など、
    漱石がのこした言葉をご覧いただけます。

    今回はその中からいくつかご紹介したいと思います。

    僕は常に考えている。「純粋な感情程美しいものはない。美しいもの程強いものはない」と。
    (「彼岸過迄」明治45年)
    熊本より東京は広い。東京より日本は広い。・・・・・日本より頭の中の方が広いでしょう。
    (「三四郎」明治41年)
    智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。                         (「草枕」明治39年)
    余は吾(わが)文を以て百代の後に伝えんと欲するの野心家なり。
    (森田草平あての手紙 明治39年10月22日)
    『定本 漱石全集』(岩波書店)より

    一度は耳にした言葉もあったでしょうか。
    漱石は1867年に生まれ、1916年に生涯を閉じました。
    今から百年以上前の世を生きていた訳ですが、私たちにも共感できる言葉が多く、
    親近感を覚えると同時に、未来を見通していたかのような言葉にどきりとさせられたりもします。
    来館者アンケートでも、この展示が印象深かった、
    漱石の言葉が胸に刺さった等の感想を数多くいただきます。

    また、当館ミュージアムショップで販売している「漱石の言葉 日めくりカレンダー」
    には1日から31日まで毎日一つずつの漱石の言葉が入っています。
    今回ご紹介した以外にもたくさんの言葉に巡り合うことができます。
    ぜひ漱石山房記念館で、「漱石の言葉」に出会い、気に入った言葉を胸にお持ち帰りください。
    商品の詳細はミュージアムショップのページをご覧ください。

    テーマ:漱石について    2022年05月20日
  • テーマ展示「漱石のミチクサー『道草』草稿を中心にー」みどころ 後編

    展覧会の見どころ・後編は、「第2章 草稿を読む」のコーナーをご紹介します。
    ここからは朝日新聞に掲載された文章と、
    当館所蔵の「草稿」の文章を比較して見ていきます。
    展示するのは、健三・御住(おすみ)夫婦の関係にかかわる新聞掲載回第19回、第23回、
    姉の夫・比田にかかわる第27回、28回、兄・長太郎にかかわる第36回、37回などの草稿です。

    書き直しの跡がよくわかる第27回の部分を見てみますと、
    冒頭の部分が数行書いては5回も原稿用紙を変えて書き換えられて、
    はじめに原稿1枚目に書かれていた比田と兄・長太郎の会話の部分は、
    定稿(新聞社に入稿された完成原稿)では2枚目のはじめに移り、
    1枚目に比田の軽薄さがわかる文章がまとめられたことがわかります。
    道草の草稿は、読みやすく文字におこした翻刻が岩波書店の
    『定本 漱石全集 第26巻』に掲載されているので、
    現存する草稿すべてを読むことができるのですが、
    原稿用紙の上のインクの染みや英語の書き込みは、
    実物にあたらないとわかりません。
    草稿を読んでいくと、
    枚数を重ねるごとに研ぎ澄まされていく文章はスリリングでワクワクします。
    書き渋った箇所には漱石のこころの揺れを感じ、
    文豪・漱石を身近に感じられます。
    展覧会は7月3日(日)までです。
    大正4(1915)年に『道草』の草稿が書かれた地に建つ、
    漱石山房記念館の展示会場で、漱石の息吹を感じてください。
    皆様のご来館をお待ちしております。

    テーマ:漱石について    2022年04月28日
  • テーマ展示「漱石のミチクサー『道草』草稿を中心にー」みどころ 前編

    当館所蔵品の目玉である『道草』草稿をテーマにした展覧会
    (会期:令和4年4月14日(木)~7月3日(日))が開幕しました!
    まずはじめに、「草稿」とは、新聞社に入稿されずに書き潰しとなった原稿です。
    漱石の推敲過程を知る上で貴重な資料です。
    大正4(1915)年に書かれた『道草』の草稿は、
    全国の図書館や文学館などに分かれて、現在245枚の現存が確認されています。
    当館は朝日新聞全102回の連載のうちの12回分、70枚弱を所蔵しています。
    今回はできるだけ多くの草稿を皆さんにごらんいただきたく、
    狭い会場ではありますが、53枚の草稿を展示しています。
    直筆の資料を保護するために、前期(5月22日まで)・後期(5月24日から)で
    実物と複製(レプリカ)を展示替えし、
    会期を通じて直筆の草稿53枚をご覧いただけます。
    展示会場は2章で構成しています。
    「第1章 あらすじと登場人物」では
    「道草」が漱石の実体験に基づいた小説であることを確認するため、
    漱石の家系図に道草登場人物をなぞらえたパネルを展示しています。

    道草の主人公・健三は、兄や、姉の夫の比田と協力して、
    金銭を要求してくる離縁した養父・島田との交際を断つことに成功します。
    これと似たことは、実際に漱石の身の上にもおこっています。
    物語の中の兄の若い妻の話などが実体験に基づいていることは、
    このパネルの漱石の家族の年齢をご覧いただくとよくわかるかと思います。
    このコーナーには作品のモデルとなった
    漱石の生家への復籍に係わる書類の写真も展示しています。
    『道草』は家族の「片付かない」物語でもありますが、
    漱石の生い立ちや複雑な家系図は、その物語を読み解くヒントになるでしょう。
    (「テーマ展示「漱石のミチクサー『道草』草稿を中心にー」みどころ 後編」へ続く)

    テーマ:漱石について    2022年04月26日
  • 2月9日は夏目漱石の誕生日です

    「夏目漱石誕生之地」碑


    今日2月9日(水)は漱石の誕生日です。
    漱石は、慶応3(1867)年1月5日(新暦では2月9日)、
    江戸牛込馬場下横町(現新宿区喜久井町)の名主・夏目小兵衛直克の五男として生まれました。
    漱石が生まれた年は、その年の11月に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜により大政奉還が行われ、
    世の中が大きく変わろうとしている頃のことでした。
    漱石は「金之助」と名付けられますが、
    それは生まれた日時が干支で庚申(かのえさる)の日の申の刻
    (午後4時またはその前後を含む2時間)にあたり、
    このときに生まれた子どもは大変出世するか、さもなくば大泥棒になる、
    それを避けるには名前に金偏の字を入れればよいとの俗信に従ったためでした。

    漱石没後に出版された漱石の妻・鏡子夫人が語る
    『漱石の思い出』には、以下のように記されています。

    「夏目は慶応三年正月五日に生まれたのですが、
    それが申の日の申の時に当たっていました。
    その申の日の申の刻に生まれたものは、
    昔から大泥棒になるものだが、それを防ぐには
    金偏のついた字を名につければよいという言い伝えがあって、
    それで金之助という名をつけたということです。
    そのかわりえらくなればたいそう出世するものだとこういうのです。」

    名前の略称は「金」で、漱石は後年も親しい友人や弟子に宛てた書簡では、
    この一文字で署名することもありました。

    現在、漱石の生家跡地には、
    漱石門下生・安倍能成(あべ・よししげ)の筆による
    「夏目漱石誕生之地」の文字が刻まれた記念碑が建てられています。
    記念碑は、東京メトロ早稲田駅(2番出口)からでてすぐ、
    早稲田前交差点から夏目坂をのぼりかけた左手側にあります。

    写真には記念碑のほかに、碑を囲む赤レンガが写っています。
    このレンガは漱石の家の蔵に使用されていたものと伝わっており、
    昔の名残を偲ぶことができます。
    なお、当館にも同じ赤レンガが保管されておりますが、
    常時展示はしておりません。

    ※引用文の表記は夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思い出』文春文庫(1994年)
    の表記に従いました。

    テーマ:漱石について    2022年02月09日
  • テーマ展示「漱石からの手紙」みどころ

    夏目漱石は多くの手紙を書いていたことが知られています。
    今回は展示している手紙の中から、
    漱石の親友・正岡子規宛ての葉書を紹介します。

    夏目金之助 正岡常規宛て葉書
    明治28(1895)年5月30日消印(裏面)


    明治28(1895)年5月30日消印の葉書は、
    漱石が松山の中学校に着任直後、
    結核療養のために入院していた子規に宛てたものです。
    この葉書には七言律詩の漢詩が書かれていますが、
    これは2日前消印の手紙に書かれていた4首の漢詩に続くものでした。
    そしてそこにはひとり東京を離れて
    松山に赴任した漱石が抱えていた
    寂しさや緊張感など複雑な思いがつづられていました。
    葉書は明治2(1869)年にヨーロッパで誕生し、
    日本では明治6(1873)年に取り入れられた新しい郵便制度です。
    現在ならばSNSにあたるものでしょうか。
    漱石の葉書も、江戸時代から明治初期にかけ
    漢学教育を受けた日本の文化人が用いた漢詩を、
    新しい通信手段を使って親友に送ったと考えると、
    興味深いものがあります。

    テーマ:漱石について    2022年01月24日
  • 夏目漱石の千円札

    現在、日本で発行されている千円札の表面には、
    細菌学者の野口英世の肖像が描かれています。
    これは平成16年から使われているものですが、
    夏目漱石の肖像が描かれた、
    1つ前の千円札を覚えている方も多いのではないでしょうか。
    この夏目漱石の千円札は、昭和59年に発行が開始し、
    平成19年に支払い停止となりました。
    ※「支払停止」とは、日本銀行から市中銀行へそのお札の支払いを停止することです。

    お札は、硬貨と違い「記番号」と呼ばれるシリアルナンバーが1枚1枚に印字されており、
    頭にアルファベットが1文字または2文字、次に6桁の数字、
    末尾にアルファベット1文字というように組み合わされています。
    この数字の部分が「777777」などのようにゾロ目が揃っていたり、
    「123456」などのように並んでいたりするものは希少とされ、
    コレクターの間では高値で取引されることがあります。
    中でも、最初のアルファベットが「A」で、なおかつ数字が「000001」などのように
    1桁のものは特に貴重とされており、新しいお札が発行された時には、
    「A000001A」番のものは日本銀行が設立した貨幣博物館に納め、
    その後の2番以降の若い番号は、肖像が描かれた人物ゆかりの団体や、
    人物以外に印刷された意匠とかかわりの深い団体などに配布されることが通例になっています。

    現在(令和3年)使用されている1万円札(肖像:福澤諭吉)の「2番」は、
    福澤諭吉が創立した慶應義塾に配布されています。
    5千円札(肖像:樋口一葉)の「2番」は、
    樋口一葉がかつて荒物・駄菓子屋を開いたゆかりの地であり
    「一葉記念館」もある台東区に配布されています。
    千円札(肖像:野口英世)の「2番」は、
    福島県にある野口英世記念館に配布されました。

    そして、夏目漱石が描かれた1つ前の千円札の「2番」は、
    漱石が生まれ、亡くなった地である、ここ新宿区に配布されました。
    この「2番」の千円札は、今でもこの新宿区立漱石山房記念館の収蔵庫で、
    大切に保管されています(常時展示しているわけではありませんので、ご注意ください)。

    千円紙幣D号券A000002A

    テーマ:漱石について    2021年12月24日
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