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  • 越後の哲学者 松岡譲 その1

    新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のため、
    「越後の哲学者 松岡譲」展は開幕を延期しております。
    楽しみにしてくださっていた皆様、資料の借用などにご協力くださいました皆様には、
    ご迷惑をおかけしております。
    担当学芸員も、皆様に展覧会をご覧いただくことができず、歯がゆい思いでおります。
    そこで、このブログを通じて、松岡譲の魅力に迫り、
    本展の内容を少しずつご紹介していきたいと思います。

    第1回目は、松岡の生い立ちから学生時代について見ていきましょう。

    松岡譲は明治24(1891)年9月24日、
    新潟県古志郡石坂村(現・長岡市)の真宗大谷派、
    松岡山本覚寺に父善淵(ぜんえん)、母ルエの長男として生まれました。
    後に自ら改名することになりますが、両親の付けてくれた名前は善譲(ぜんじょう)です。
    父の善淵は、9歳のときに父を亡くし、10代から住職として寺を守ってきたこともあり、
    気難しく、子どもの教育に厳しかったそうです。
    小学校時代の松岡は、算数と図学・習字に秀でていました。
    習字がうまかったのは、部屋に軟禁されてまで特訓した成果です。
    厳格な父をもち、封建的な寺院の長男であるという出生は、
    物心が付き始めた頃から松岡に寺への反抗心を抱かせるようになりました。
    「私の半生の歴史は、既成宗教に対する小さい抗争で貫かれたといつていい」(注:1)
    と本人が語るように、父と寺への批判と対立は、大学を卒業する大正6(1917)年頃まで続きます。

    本覚寺山門

    明治37(1904)年3月には新潟県立長岡中学校(現・長岡高等学校)に入学し、
    後に詩人となる堀口大学と5年間同じクラスで机を並べて勉強しました。
    堀口は、長岡中学校時代の松岡を回想し、
    「お寺の教育の影響であらう、少年松岡には、少年らしい所が少しもなく、
    妙に大人びた哲学者、宗教家といつた重厚さが年々に加はり、
    いよいよ無口になつて行くのだつた。」(注:2)
    と記しています。

    明治42(1909)年3月、松岡譲は長岡中学校を卒業しました。
    家族は京都の宗門学校へ進学させるつもりでしたが、
    それを拒否して高等学校への進学を希望します。
    父は高等学校への進学を希望するのであれば、
    難関の第一高等学校(現・東京大学教養学部の前身、以下「一校」と称す)
    を受験するように言い渡しました。
    その結果、「小便の色の変わるまで勉強した」(注:3)松岡は、
    翌年の入試を試験入学者21名中8番の成績で突破し、
    はれて明治43(1910)年9月に一校の文科に進学します。
    同級には、第三次『新思潮』の同人となる芥川龍之介、菊池寛、久米正雄、成瀬正一らがいました。
    松岡は一校の自由な雰囲気に浸り学生生活を謳歌しますが、一方で自己の生い立ちに深く悩み、
    強度の神経衰弱に陥り、大正2(1913)年5月には休学して故郷に帰っています。
    大正3(1914)年9月号の『新思潮』に掲載された「この頃」という作品に、
    そのときの苦悩を読み取ることができます。
    この頃松岡は、漱石の「こころ」や思想家のキュルケゴールを愛読し、影響を受けました。
    大正3(1914)年7月には出席日数が足りず落第してしまいますが、
    ただちに東大文科の選科を受験し合格、翌年試験を受けて本科に転じ、哲学を専攻しました。
    「越後の哲学者」の下地はこうして作られていったのです。
    越後の哲学者 松岡譲 その2に続く)

    注:
    1.松岡譲『宗教戦士』序 大雄閣 1932年
    2.堀口大学「松岡譲の事など」『新潮』 1935年3月
    3. 松岡譲「耳疣の歴史」『田園の英雄』第一書房 1928年

    参考文献:
    関口安義『評伝 松岡譲』小沢書店 1991年
    関口安義「松岡 譲 再評価される人と文学」関口安義編『EDI叢書 松岡 譲 三篇』イー・ディー・アイ 2002年

    テーマ:その他    
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