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吾輩ブログ 一覧

  • 越後の哲学者 松岡譲  その5

    「越後の哲学者 松岡譲」展のみどころをご紹介するブログの第5回目の最終回は、
    松岡の趣味と晩年についてみていきたいと思います。

    松岡譲は若い頃から体が大きく、運動神経も良かったようで、
    長岡中学時代には水泳と野球を、一高時代には大弓をやっていました。
    成人してからは趣味として登山もするスポーツマンでした。
    渾身の長編小説『法城を護る人々』の最終巻(下巻)を刊行後、
    次なる長編小説「憂鬱な愛人」と、
    漱石未亡人・鏡子からの聞き取りをもとにした「漱石の思ひ出」の2本の連載を持ち、
    岩波から配本が始まった『漱石全集』の月報に毎月のように小文を寄稿し、
    文筆家として最も脂の乗っていた昭和3(1928)年の秋、
    37歳の松岡は原因不明の腹痛に襲われ、以後2年ほど静養につとめ創作から離れます。

    この闘病中に松岡は主治医の勧めでテニスと出会い、のめり込んでいきました。
    もとよりスポーツが得意だったため、すぐに腕を上げ、日本のテニス界の盛り上げにも奔走しました。
    昭和8(1933)年には、社会人のテニス愛好者を対象とした月刊誌『テニスフアン』を創刊し、
    編集人として発行を軌道に乗せたあと退きました。
    昭和9(1934)年には、東京田園調布にテニス・クラブ「田園倶楽部」も設立しています。
    『テニスフアン』や新聞に、テニス界の批評を毎月寄稿する様子は、
    まるでスポーツ・エッセイストになったかのようでした。
    そんな松岡を、周囲の人々は本業が疎かになっていると心配します。
    しかし当人は、
    「幸か不幸か、私はいろいろなものに興味を持つよう生まれついて来た。
    文学はもとよりの事、宗教、哲学、歴史、美術、考古学、スポーツなど、
    (中略)さういふものについて、自分は自分としての恩返へしがしたい。
    それには私が著述家としての職分から尽くす外ない」(注:1)と述べて、
    スポーツ記事に筆を揮いました。

    松岡譲原稿

    展示会では、秩父宮記念スポーツ図書館のご協力を得た『テニスフアン』創刊号の写真や、
    大正9(1920)年のアントワープ五輪のテニスで銀メダルを獲得した
    熊谷一弥(くまがい いちや)との交流を紹介し、松岡のテニスに傾けた情熱に迫ります。

    ところで皆さんは、近代オリンピックに
    「芸術競技」という種目があったことをご存じでしょうか。
    「芸術競技」とは、スポーツを題材とした建築や彫刻、
    絵画、文学、音楽の作品の優秀作を競うオリンピック競技で、
    1912年の第5回ストックホルム大会から
    1948年の第14回ロンドン大会までの限られた期間に行われました。
    昭和15(1940)年の第12回オリンピック東京大会でも、
    詩・戯曲・散文などからなる「文芸競技」が構想されていました。
    スポーツを愛好する松岡はこれを喜び、
    「この国の文壇に、スポーツ文学といった新しい領土が開拓される」
    と書いています(注:2)。
    しかしながら、第12回東京大会は時局の悪化により幻となり、
    松岡の出場の機会も失われてしまいました。

    戦後、日本が再びオリンピックの開催地に決定すると、
    松岡のスポーツ熱は、郷土の考古愛とともに再燃します。
    松岡は、昭和39(1964)年の東京オリンピックの聖火台を、
    地元の長岡市で出土した火焔土器をかたどったものにすべく、
    IOC委員の高石新五郎に相談します。
    続いて東京都知事に火焔土器の模型を贈り、
    大会事務総長の田畑政治には1時間に及ぶ説明を行い、
    火焔土器聖火台プロジェクトの実現に向けて精力的なアピール活動を展開しました。
    しかしながらこの活動も、松岡が働きかけた田畑ら大会中枢部の辞任により、
    立ち切れになってしまいました。
    松岡は新たに大会組織委員会会長となった安川大五郎に火焔土器の模型を贈り、
    自らの慰めにしたといいます。

    松岡の火焔土器愛好は、オリンピックを機に突然芽生えたのでなく、
    長岡市で仮住まいしていた蒼柴(あおし)神社社務所のある悠久山公園の一角に、
    昭和26(1951)年8月、火焔土器を展示する長岡市立科学博物館が開館したことに始まります。
    昭和38(1963)年には博物館の裏手に転居し、そこを終の棲家とした松岡は、
    「御自慢中の御自慢大名物の火焔型土器」を展示する「お山の博物館」に、
    多い時には日に3度も通い、長岡を訪れる著名人を案内しました。
    昭和32(1957)年に松岡の案内で博物館を訪れた、
    文化財専門審議会専門委員の染織史家・明石染人(せんじん)は、
    火焔土器の前で両手を挙げて「おお、素敵」と叫んだといいます。
    松岡はその後、明石と何通もの長文の書簡をやりとりし、
    百十数枚の写真原版を揃えて豪華版の縄文土器写真集の出版話を進めました。
    残念なことに、この企画も、明石の急死と出版社社長の病により実現には至りませんでした。
    展示会には、写真集刊行に向けた熱い思いがほとばしる「明石染人 松岡譲宛書簡」も展示します。
    松岡の火焔土器への情熱は、明石の死後、東京オリンピックの聖火台運動へと継承されていきます。
    生前最後に発表された随筆は、この縄文土器写真集と火焔土器型聖火台運動の顛末を記した
    「「火焔土器」の模型」(『學鐙』66(6)、昭和44(1969)年6月)でした。
    松岡は「著述家としての職分」を尽くし、趣味のスポーツに加え、
    晩年に情熱を注いだ考古学にも恩返しをしました。

    展示会では、小説に加えて、テニスや縄文土器のコーナーを設け、松岡の多面的な活動を紹介します。
    長岡市立科学博物館のご許可を得て展示した
    「松岡譲「お山の博物館」『長岡市立科学博物館館報 NKH』創刊号(昭和33(1958)年9月)」は、
    こちらの長岡市立科学博物館WEBページ よりPDFデータでお読みいただけます。
    ご来館の前にぜひご一読ください。

    これまで5回にわたり、松岡譲展の内容と、松岡の魅力についてお伝えしてきました。
    しかしながらこのブログでは実際の展示の魅力をとても伝えきれません。
    皆様にご来館いただける日が来ることを、漱石山房記念館スタッフ一同心待ちにしています。
    これまでお読みくださり、ありがとうございました。
    (越後の哲学者 松岡譲 おわり)

    注:
    1 松岡譲「スポーツ・ジャーナリズム」『テニスフアン』2巻9号 1934年10月
    2 松岡譲「文学オリンピツクなど」『文藝春秋』1937年3月

    ※「火焔土器」とは昭和11(1936)年に長岡市の馬高(うまたか)遺跡で
    最初に発見された1個の土器につけられたニックネームで、
    類似した土器は「火焔型土器」と呼び、考古学上区別されています。

    テーマ:その他    
  • 越後の哲学者 松岡譲  その4

    「越後の哲学者 松岡譲」展のみどころをご紹介するブログの第4回目は、
    「岳父 漱石へのまなざし」と題し、松岡の漱石研究についてみていきたいと思います。

    松岡の作品のなかで最もよく読まれているのは、
    『漱石の印税帖』(朝日新聞社 昭和30(1955)年)ではないでしょうか。
    本作は、漱石の婿として夏目家に7年間同居した松岡ならではの随筆集です。
    また、義母である夏目鏡子から聞き取った漱石の話を筆録した
    『漱石の思ひ出』(改造社 昭和3(1928)年)も、
    家族から見た漱石のありのままの姿を伝える作品として、高く評価されています。

    漱石関係の松岡著書

    松岡の漱石研究の多くは随筆のかたちで発表されました。
    それは、大正6(1917)年3月の第四次『新思潮』〈漱石先生追悼号〉の
    「其後の山房」にみられるように、漱石の死の直後から始まっています。
    「其後の山房」は、漱石の〈お骨上げ〉から始まる5章仕立てのエッセイです。
    昭和9(1934)年には、「漱石座談会でおしゃべりをして居るような気持ちで」編んだ随筆評論集、
    『漱石先生』(岩波書店)も刊行しています。
    生前最後の単行本、『ああ漱石山房』(朝日新聞社 昭和42(1967)年)も、
    漱石にまつわる随筆集でした。
    これらは、漱石の門下生としてその謦咳に接し、
    漱石没後は遺族として生きた彼にしか書きえない貴重な情報が満載された、魅力的な作品です。

    松岡の漱石研究のもう一本の柱に、
    自ら「漱石文学の奥秘をひらく一つの鍵」という、漱石の漢詩があります(注:1)。
    松岡は、戦時中の昭和18(1943)年2月から約4か月間、瀬戸内海の大崎下島などに滞在し、
    漱石の漢詩に親しみました。
    その研究成果は戦後の昭和26(1946)年9月に刊行した『漱石の漢詩』(十字屋書店)に結実します。
    不安な時局にもかかわらず、その原稿は瀬戸内海の島、東京、越後の実家と肌身離さず持たれ、
    戦争末期に疎開先の長岡で最後の稿が書き上げられています。
    松岡は、晩年に新版『漱石の漢詩』(朝日新聞社 昭和41(1966)年)を出しますが、
    その「まえがき」に、旧著は戦争末期の疎開騒ぎのなかろくな辞書もなしに執筆したもので、
    「見るも無残な誤りに充ち満ちたいわば悪書だ。」
    「無いものとして無視し、そうして進んで破棄して頂ければ幸いだ」と書いています。
    しかしながら、漱石の漢詩世界への憧憬に満ちた旧著は、
    戦後すぐの荒廃した時代に、多くの人々の心を潤したものと思われます。
    巣鴨プリズンに収監されていた漱石門下生・赤木桁平(あかぎこうへい・本名:池崎忠孝)
    から松岡に送られた手紙には、
    「近来こんな気持ちのよい本を読んだことはなく、実に感激し、
    また陶然として、先生(漱石)その人の心情にふれた。心から君に感謝する。」
    と書かれています(注:2)。

    松岡は、昭和9(1934)年という彼の作家人生の早い時期に、
    「先生が亡くなられて(中略)、その間の事については、多少私に語るべき義務と責任があるやうに思ふ。」
    と述べています(注:3)。その義務と責任は80点にも及ぶ漱石関連の作品によって果たされました。

    最晩年の門下生として、長女の夫として、
    松岡は二重の関係で夏目漱石とつながり、生涯を通じて向き合ってきたのです。
    越後の哲学者 松岡譲 その5に続く)

    注:
    1 松岡譲『夏目漱石 文學読本 春夏の巻』第一書房 1936年
    2 松岡譲「「明暗」の原稿その他」永井保 編『池崎忠孝』池崎忠孝追悼録刊行会 1962年
    3 松岡譲『漱石先生』岩波書店 1934年

    テーマ:その他    
  • 越後の哲学者 松岡譲  その3

    「越後の哲学者 松岡譲」展のみどころをご紹介するブログの第3回目は、
    松岡の代表作、『法城を護る人々』に注目します。

    松岡の約50年間にわたる作家人生は、
    第四次『新思潮』の同人として活躍した20代半ば、
    結婚をめぐる事件により断筆後、活動を再開させ最も脂が乗っていた30代、
    2年間の病気療養から復帰した40代以降の、3期に分けることができます。
    松岡は寡作の作家、非文壇作家と評されますが、
    新聞や雑誌への寄稿は多く、随筆も含めれば500点近い作品を残しています。

    短編小説では、『九官鳥』(大正11(1922)年)、『地獄の門』(大正11(1922)年)、
    『田園の英雄』(昭和3(1928)年)、『白鸚鵡(しろおうむ)』(昭和22(1947)年)
    の4冊の小説集を刊行しています。
    しかし、松岡が書きたいと願っていたのは、本格的な長編小説でした。
    自らの素質を短編よりも長編に向くと信じ、「長篇を書く味が忘れられない」、
    「誰が何といつたつて一生長篇を書かうと堅く決心してゐる」と語っています(注:1)。
    これには、若い日に師の漱石から「或いは器用な短篇より長篇の方に向くかもわからない」
    と言われたことが影響しているのかもしれません(注:2)。

    松岡の長編小説は、現状否定の強烈な批判精神に貫かれ、深刻さに満ちています。
    加えて、漢語の多用により重厚感に溢れています。
    その中で『法城を護る人々』上・中・下(大正12(1923)~大正15(1926)年)は代表作と言えます。

    法城を護る人々

    前回のブログ(越後の哲学者 松岡譲 その2)で触れましたが、
    松岡は大学を卒業した4か月後の大正6(1917)年11月に、
    短編小説の「法城を護る人々」を『文章世界』に発表しました。
    同素材を扱った同名の長編小説『法城を護る人々』(上巻)を刊行したのは、
    それから約6年後の大正12(1923)年6月のことでした。
    先に発表された同名の短編小説は、
    第二創作集『地獄の門』(玄文社、大正11(1922)年10月)に収録される際、
    「護法の家」と改題されています。
    長編小説の『法城を護る人々』は、上・中・下巻に別れて刊行されましたが、
    総原稿数は4,500枚にものぼります。
    僧侶の生活批判と人間のエゴイズムの追求を根本的なテーマとする作品ですが、
    それはまた、雪深い北国の寺に生まれ、信仰深い父と度々対立した松岡の、
    自伝的長編小説でもありました。

    この執筆を支えたのは、第一書房の社主・長谷川巳之吉(みのきち)です。
    長谷川は、これはと見込んだ松岡の渾身の長編小説『法城を護る人々』で、
    自身の出版社・第一書房を旗揚げしました。
    当時としては斬新な広告戦略もあり、本書は100版を軽く超えるベストセラーとなりました。
    昭和に入ると普及版が出版されるほど版を重ねますが、
    文壇の評価はというと、黙殺に近いものでした。
    『評伝 松岡譲』を著した関口安義氏は、
    作者の態度が宗門人に対する冷酷な批判に終始している点や、
    問題解決が個の範囲にとどまり社会的に広がらなかった点など、
    作品自体の欠点を指摘しつつも、文壇による完全なる黙殺の要因は、
    久米正雄の『破船』によって作り出され尾を引いていたアンチ松岡の空気にあったといい、
    「大々的宣伝で登場した『法城を護る人々』は、文壇人のねたみと嘲笑の対象以外の何物でもなかった。」
    と記しています(注:3)。

    発表当時、数は少ないながら本作に注目した評論もありました。
    長谷川如是閑(にょぜかん)は、現在の事実を忠実に描写しているといい、
    「ドキュメント」、「宗教界の自然主義的創作」として評価しました(注:4)。
    また、哲学者の土田杏村(きょうそん)は、本作の革命的な気概を評価し、
    芸術的な価値を認め、20枚にも及ぶ書評を書いています(注:5)。

    展示会では、漱石が見抜き、本人が最も望んだ長編小説家としての松岡の一面を紹介する
    「代表作「法城を護る人々」「敦煌物語」」のコーナーを設けています。
    新型コロナウイルス感染症が収束し、
    皆様にご覧いただける日が来るのを楽しみにしています。
    越後の哲学者 松岡譲 その4に続く)

    注:
    1 松岡譲「長篇小説一家言」『読売新聞』1927年12月
    2 松岡の処女小説「河豚和尚(ふぐおしょう)」を漱石が批評した中で使われた言葉。
    松岡譲「人間漱石」『正岡子規 夏目漱石 柳原極堂』生誕百年祭実行委員会 1968年
    3 関口安義『評伝 松岡譲』小沢書店 1991年
    4 長谷川如是閑「宗教的アナーキズム」『我等』1923年9月
    5 土田杏村「非文壇作家」『詩と音楽』1923年10月

    参考文献:
    関口安義『評伝 松岡譲』小沢書店 1991年
    林達夫ほか編著『第一書房 長谷川巳之吉』日本エディタースクール出版部 1984年

    テーマ:その他    
  • 越後の哲学者 松岡譲 その2

    「越後の哲学者 松岡譲」展のみどころをご紹介するブログの第2回目は、
    松岡の「青年時代から忍従の日々」について見ていきたいと思います。

    東京帝国大学の哲学科に籍を置いた松岡は、
    特に親しくしていた久米正雄と芥川龍之介の手引きにより、
    大正4(1915)年12月に東京早稲田南町の夏目漱石宅「漱石山房」を訪れます。
    その後松岡は、多忙な漱石のために木曜の午後と決めて門人たちが集った、
    漱石山房の「木曜会」に毎週欠かさず出席するようになります。
    鈴木三重吉や小宮豊隆らの世代からすると、
    それよりも少し若い芥川や松岡たちは、次の世代と言えましょうか。
    文学を志す新たな若い弟子たちに対して漱石は真摯に接しました。

    大正5(1916)年2月、松岡、久米、芥川、成瀬正一、菊池寛の5人は、
    漱石を第一の読者に想定した文芸雑誌、第四次『新思潮』を創刊します。
    松岡の本格的な文学活動は、この雑誌の創刊とともに始まりました。
    松岡は意欲的に文筆活動に励み、ほぼ毎月1作品を同誌に発表しました。
    なかでも10月に発表した「青白端渓」は、芥川の創作意欲を大いに刺激しました。

    芥川龍之介松岡宛書簡

    芥川は松岡の「青白端渓」を読んで松岡に宛てたはがきの中で
    「あれは大へんいい、ぐづぐづしてはゐられないと云ふ気が痛切にした
    殊に僕は今書けなくってまゐってゐる あしたから勉強だ」と書いています。
    本資料は「越後の哲学者 松岡譲」展に展示します。
    また、『漱石山房記念館だより第2号』(令和元年12月15日発行)の
    「漱石山房記念館所蔵資料の紹介No.2」に読み下し文を掲載し、
    詳しく紹介していますので、本ブログと合わせてぜひご覧ください。
    『漱石山房記念館だより第2号』のPDFデータはこちらからお読みいただけます。

    第四次『新思潮』は、大正5(1916)年12月9日の漱石の死により第一の読者を失い、
    大正6(1917)年3月に「漱石先生追悼号」を出したのちは続かず、終刊に至ります。
    漱石と第四次『新思潮』の同人たちとの交流は一年ほどでしたが、
    漱石の人格と深い学識はそれぞれに強い影響を与えました。

    第四次『新思潮』の終刊から3か月後の大正6(1917)年6月、
    出自に深く悩んでいた松岡は、
    僧侶を連想させる本名の善譲(ぜんじょう)を「譲」(ゆずる)一字に改名します。
    その翌月には大学を卒業して、いったん帰省しますが、
    入寺問題で父と対立してしまい、両親の制止を振り切り再び上京します。
    この上京は自活が条件でしたので、松岡は、漱石の妻・鏡子未亡人の勧めもあり、
    子どもたちの家庭教師として夏目家に身を寄せました。

    この後、数か月は創作意欲に満ち溢れ、
    芥川の斡旋で『文章世界』に力作の「兄を殺した弟」を送り、
    この作品が発禁の恐れから棚上げになると、
    代わりに短編の「法城を護る人々」(『文章世界』大正6年11月号掲載)を一気に書き上げています。
    新進作家として前途を期待されていた松岡ですが、
    漱石亡き後の夏目家と深いかかわりを持つなかで、思いがけず恋愛事件の当事者となってしまいます。

    このころ第四次『新思潮』の同人で、松岡の一校からの親友でもある久米正雄は、
    漱石の長女筆子に想いを寄せていました。
    しかしながら、筆子は松岡に惹かれていました。
    松岡は筆子の気持ちを受け入れ、大正7(1918)年4月に二人は結婚します。
    これにより久米の恋は失恋に終わるのですが、
    久米はこの顛末を「破船」を代表とする数々の失恋小説に書いて世間に公表し、
    同情を集め、人気作家となりました。
    松岡はこの状況に際し、創作の筆を折り、沈黙を守ったのです。
    松岡がこの事件をモデルにした小説「憂鬱な愛人」を発表し、
    自身の立場を明らかにするのは、約10年後の昭和2(1927)年のことです。

    筆子との結婚により、難しい立場に置かれた松岡は、しばらくは夏目家を支え、
    漱石山房の書斎で読書と思索に没頭する日々を送ります。
    そして、大正10(1921)年6月に「遺言状」(改作)を『新小説』に発表して、
    再び創作活動に復帰するのです。
    越後の哲学者 松岡譲 その3に続く)

    参考文献:
    関口安義『評伝 松岡譲』小沢書店 1991年
    関口安義「松岡 譲 再評価される人と文学」関口安義編『EDI叢書 松岡 譲 三篇』イー・ディー・アイ 2002年
    関口安義「松岡譲と芥川龍之介」『Penac』32号 2007年

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