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  • 漱石山房記念館の芭蕉(バショウ)

    漱石山房記念館の植栽についてご案内してみたいと思います。

    「硝子戸の中から外を見渡すと、霜除をした芭蕉だの、
    赤い実の結った梅もどきの枝だの、
    無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、
    その他にこれといって数え立てるほどのものは殆んど視線に入って来ない。」

    (岩波文庫『硝子戸の中』1933年初版、1990年改版)

    漱石の随筆『硝子戸の中』の冒頭です。
    書斎から外を見渡し、
    目に入るものとして最初に挙げられているのが、
    植物の「芭蕉(バショウ)」です。
    漱石山房記念館の再現展示室からも、
    実際に硝子戸越しにバショウを見ることができます。

    バショウは、色々と興味深い謂れのある植物です。
    高さ3~5メートルにまで成長しますが、
    木ではなく大型の草であること。
    俳人、松尾芭蕉の名前の由来となっていること。
    原産地は中国とされながら、英名は「Japanese banana」であること。
    その英名は、シーボルトが命名者の一人であり、
    日本で発見しヨーロッパに伝えたためにそうなったことなどです。

    人の背丈を超える高さや、
    数十センチにも及ぶ葉の大きさが南国ムードを漂わせ、
    来館された方に「バナナが植えられているのですか」と尋ねられることもあります。
    そう思われるのも当然で、
    バナナとバショウは、同じバショウ科の植物です。
    写真の、小さなラグビーボールのような楕円は苞葉(ほうよう)という、
    葉の塊で、その葉の間に花の集まりがあります。
    そして苞葉の根元の辺りには、バナナと同じような形の、
    小さな緑色の実がたくさん付いているのが分かります。

    このように開花します。
    バショウの花言葉は「燃える思い」です。
    確かに、バショウはその言葉のように強い生命力を持ち、
    地下茎を通じて次々に芽を出します。
    そのため、もちろん大切に育てていますが、
    植栽管理の観点から、
    他の植物を守るために広がり過ぎないようにも留意しています。
    大正時代の漱石山房の写真には、
    立派に育った数本のバショウが写っています。
    漱石も、バショウを絶やさないよう、
    また増やしすぎないように気を遣っていたのでしょうか。
    そんな想像をしながら、植栽の管理に向き合っています。
    漱石山房記念館の周囲には、バショウだけでなく、
    他にも様々な漱石ゆかりの植物が植わっています。
    お越しになった際は、それらの植物も是非ご覧になってください。

    テーマ:その他    2021年07月12日
  • スタッフおすすめ!おうち時間に楽しむミュージアムグッズ その3

    政府による緊急事態宣言を受け、
    漱石山房記念館は令和3年5月31日(月)まで臨時休館しています。
    臨時休館中もミュージアムショップでは通信販売を承っておりますので、
    ご自宅でもお楽しみいただけるスタッフおすすめのミュージアムグッズをご紹介します。
    ※通信販売の詳細についてはこちらをクリック

    受付スタッフ河本のおすすめは、「漱石山房メモ帳」です。
    平成29年に漱石山房記念館が開館したときから販売しているグッズですので、
    オープニングから受付スタッフとして勤務している私にとって、
    一番馴染みが深いグッズです。
    私の父は元新聞記者だったので、文字を書くことが好きで、
    帰省するたびにこのメモ帳をプレゼントしていました。
    高齢の父にとってはマス目が少し小さすぎたようでしたが、
    マス目を気にせず自由に使っていました。
    一筆箋としても使える格調高いデザインが気に入っていたようです。
    現在、紙に文字を書く機会は少なくなっているかもしれませんが、
    若い方達にもこのメモ帳を手に取っていただき、
    久しぶりに手書きに親しんでいただけたら嬉しく思います。

    受付スタッフ佐藤のおすすめは
    「漱石のことば鉛筆」と、
    「夏目漱石「道草」草稿 絵はがき」、
    「夏目漱石「ケーベル先生の告別」原稿 絵はがき」の3点です。
    「漱石のことば鉛筆」に刻まれた「草枕」の一節
    「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。
    意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」
    はとても有名ですが、
    漱石の作品だと知らない方もいらっしゃるようで、
    来館者の方から
    「これって漱石のことばだったのね」
    とお声がけいただいたこともあります。
    レトロな木の温もりの良さを、
    漱石のことばとともに味わっていただければと思います。

    「夏目漱石「道草」草稿 絵はがき」と
    「夏目漱石「ケーベル先生の告別」原稿 絵はがき」はどちらも、
    漱石の手書き文字を手元で楽しめるグッズです。
    額に入れて飾れば、お部屋でミュージアム気分を味わえます。

    受付スタッフ栄森のおすすめは、
    「ミニトート『吾輩は猫である』」です。
    可愛らしい猫のデザインにひかれて、発売してすぐに購入しました。
    ナチュラルとネイビーの2種類あるのでとても迷いましたが、
    私は仕事用のサブバッグとして使いたかったので、
    汚れにくいネイビーを選びました。
    シンプルなデザインですので、
    『吾輩は猫である』のデザインに合わせて、
    漱石の缶バッジを付けてアレンジを楽しんでいます。
    実際に使ってみると布の手触りも良く、
    使い勝手の良い大きさだったのでお気に入りになりました。
    まだ新型コロナウイルス感染症が流行する以前、
    文学好きの集いにプライベートで参加したときに、
    さりげなく持って行ったら他の参加者の方々から、
    「素敵ね!」「どこで売っているの?」
    と声をかけてもらいました。
    また、友人たちへプレゼントしたところ、
    バッグインバッグとしても使えるサイズと好評でした。
    小ぶりですので近所をお散歩用の気軽なバッグとしても使いやすいと思います。

    今回ご紹介したミュージアムグッズの詳細は、
    こちらのページからご覧いただけます。
    おうち時間に、また外出ができるようになった時のお供としても、ぜひお楽しみください。

    テーマ:その他    2021年05月29日
  • スタッフおすすめ!おうち時間に楽しむミュージアムグッズ その2

    政府による緊急事態宣言を受け、
    漱石山房記念館は令和3年5月31日(月)まで臨時休館しています。
    臨時休館中もミュージアムショップでは通信販売を承っておりますので、
    ご自宅でもお楽しみいただけるスタッフおすすめのミュージアムグッズをご紹介します。
    ※通信販売の詳細についてはこちらをクリック

     

    受付スタッフ山上のおすすめは、『漱石山房記念館ガイドブック』です。
    私は平成29年に漱石山房記念館が開館したときからのオープニングスタッフですが、
    まだまだ漱石については初心者です。
    受付スタッフは来館者の方から日々、とても多くのご質問をいただきますが、
    誤った情報をお伝えしてはならないので、このガイドブックを活用しています。
    このガイドブックは年表とともに漱石の生涯を映し出す人間関係や作品、資料、漱石山房の変遷など、
    基礎知識がわかりやすくコンパクトにまとまっていて、頼りになる1冊です。
    私のような初心者にはもちろん、すでに漱石に詳しい方でも、
    漱石の人生の軌跡がわかりやすくまとめられていますので、
    活用していただけるのではないかと思います。

    このガイドブックの記事で私が特に気に入っているのは、
    59~60ページの「漱石史跡めぐり」です。
    小学1年生から中学1年生まで神楽坂で育った私にとって、
    新宿と漱石のつながりは何よりも興味深いのですが、
    このページでは漱石の歩く姿が目に浮かぶような、
    楽しい史跡めぐりが紹介されています。
    幼いころからよく知っている場所でも、
    漱石とのゆかりがあることを知ってから再訪すると、一味違うものです。
    休日にはこのページに紹介されている場所を訪れて、
    漱石が見たであろう景色を、同じように感じる楽しみを味わっています。

     

    受付スタッフ秋間のおすすめも『漱石山房記念館ガイドブック』です。
    私も開館からのオープニングスタッフですが、
    開館当初はミュージアムグッズの品数も少なく、
    来館者の方から図録の販売を待ち望む声を多くいただきました。
    このガイドブックが発行されたとき、
    皆さまにとても喜んでいただけたことをよく覚えています。
    私もすぐにこのガイドブックを読み込んで、
    漱石について勉強しました。
    現在は来館者の方からいただいた質問から調べた内容を、
    付箋を使ってガイドブックに書き込んで活用しています。
    このガイドブックは本文を1回読めば、
    漱石について基本的な情報がわかる内容になっていますが、
    細かい記事まで読み込んでいくと、面白さが増してきます。

    『漱石山房記念館ガイドブック』と併せておすすめしたいのが『コミック新宿史』です。
    ミュージアムの刊行物は堅苦しいイメージがあるかと思いますが、
    この本はマンガで親しみやすい1冊です。
    架空の登場人物と実在の人物が交流しながら物語がすすんでいきますので、
    楽しく読むうちに新宿の文化的なこと全般がよくわかるようになっています。
    縄文時代から現代までの新宿の歴史・文化の流れを知ることができますので、
    『漱石山房記念館ガイドブック』と併せて読むことで、
    漱石が生きた明治・大正時代を取り囲む時代背景についても、
    俯瞰することができるのではないでしょうか。

    『漱石山房記念館ガイドブック』や『コミック新宿史』の詳細は、
    こちらのページからご覧いただけます。
    おうち時間に、また外出ができるようになった時のお供としても、ぜひお楽しみください。

    テーマ:その他    2021年05月26日
  • スタッフおすすめ!おうち時間に楽しむミュージアムグッズ その1

    政府による緊急事態宣言の延長を受け、
    漱石山房記念館は令和3年5月31日(月)まで臨時休館しています。
    臨時休館中もミュージアムショップでは通信販売を承っておりますので、
    ご自宅でもお楽しみいただけるスタッフおすすめのミュージアムグッズをご紹介します。
    ※通信販売の詳細についてはこちらをクリック

    事務スタッフ長谷川のおすすめは、
    漱石山房記念館特別展図録『漱石山房の津田青楓』
    と、漱石山房記念館オリジナル絵はがきです。

    漱石山房の津田青楓展図録

    私は染色や手芸が好きなので、
    令和3年1月26日(火)~3月21日(日)に開催の
    特別展「漱石山房の津田青楓」で展示されていた
    津田青楓≪フランス刺繍花と鳥≫(大正2(1913)年、笛吹市教育委員会所蔵)
    を見てとても感動し、展示図録を購入しました。
    図録の魅力は展示ケースの中に入っていた時には見られなかった部分が掲載されていることです。
    例えば、展示ケースでは一場面だけの展示だった、
    津田青楓『九竹草堂絵日記』
    (大正6(1917)年(大正7年の作を含む)、笛吹市教育委員会所蔵)
    は、合計9場面分の絵が図録に掲載されていて、
    とてもユーモラスな日記だったことがわかります。
    また、キャプションをじっくり落ち着いて読むことができるのも、図録の醍醐味の一つです。
    図録の53ページでは、
    津田青楓≪漱石と十弟子≫(昭和51(1976)年、紙本着色)
    に描かれている人物の一人ずつに吹き出しでキャプションがつけられていて、
    どの門下生がどんな人物だったかがわかりやすく、
    思わずこの≪漱石と十弟子≫がデザインされている絵はがきも買ってしまいました。

    リメイクしたメモ帳

    絵はがきはミュージアムグッズの定番ですが、
    私はミニノートにリメイクして楽しんでいます。
    絵はがきとして使用してしまうと1度きりの楽しみで終わってしまいますし、
    ファイルに整理していたこともありましたが、たまに眺めるだけになってしまい、
    身近に置いて使えるものにリメイクしたらいつも楽しめるのでは?と思いつきました。

    ミニノートの作り方はとても簡単ですので、
    みなさんもおうち時間にチャレンジしてみてはいかがでしょうか?

    <ミニノートの作り方>
    材料:絵はがき1枚、裏表紙用の厚紙(絵はがきと同じサイズ)1枚、
    メモ用紙の紙(A5サイズくらい)5~6枚、両面テープ

    道具:カッターナイフ、カッターマット、定規、ホチキス、鉛筆、クリップ(2個)、発泡スチロール

    1.絵はがきの端から1センチの部分に鉛筆でしるしをつける。

    2.しるしに合わせて定規をあて、カッターナイフの裏側で軽く折り目をつける。
    ※刃を当てて切り離してしまわないよう、ご注意ください。

    3.折り目に合わせて定規をあて、しっかり折る。

    4. メモ用紙の上下をクリップで止める。

    5.メモ用紙の中央に絵はがきの折り目を開いて当てたら、下に発泡スチロールを敷いて、
    本を綴じるように折り目の上下2か所にホチキスの針を打ち込む。

    6.裏返してホチキスの針を閉じる。

    7.絵はがきの折り目に合わせてメモ用紙も半分に折る。

    8.絵はがきの折り目1センチ部分の内側に両面テープを貼る。
    このとき、はみ出した両面テープはカッターナイフで切り落とすと綺麗に仕上がります。

    9.裏表紙を両面テープにあわせて貼り付ける。

    10.不要な部分をカッターナイフで切り落とす。

    写真は絵はがきのデザインに揃えて切り落としていますが、
    絵はがきそのままの大きさに揃えて切り落とす方が楽に仕上がります。
    怪我をしないようにご注意ください。

    11.完成!

    漱石山房記念館の図録や絵はがきは、こちらのページからご覧いただけます。
    おうち時間をミュージアムグッズと一緒にお楽しみください。

    テーマ:その他    2021年05月18日
  • ボランティアレポート7 「硝子戸の中」について(後編)

    漱石山房記念館では、ボランティアガイドが漱石の書斎の再現展示室の展示解説を行っていましたが、
    現在は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、休止しています。
    そこで、この吾輩ブログではボランティアガイドによるレポートをお届けしてまいります。

    夏目漱石「硝子戸の中」は漱石が晩年に住んだ早稲田の漱石山房の書斎で書いたものです。
    この小品に出て来るお寺、神社、建物、地名等は今でも残っています。
    前編の記事はこちらをクリック

    当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人家のない茶畠とか、
    竹藪とかまたは長い田圃路とかを通り抜けなければならなかった。
    買物らしい買物は大抵神楽坂まで出る例になっていたので、
    そうした必要に馴らされた私に、さした苦痛のあるはずもなかったが、
    それでも矢来の坂を上って酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出ようという、
    あの五、六町の一筋道などになると、昼でも陰森として、大空が曇ったように始終薄暗かった。
    (夏目漱石「硝子戸の中」二十より)

    牛込馬場下横町(現、新宿区喜久井町)辺りに住む人達の買い物は神楽坂へ行くのですが、
    矢来の坂を上り小浜藩酒井若狭守の屋敷の横を通って寺町を抜けるのです。
    幕府から拝領した屋敷は竹矢来で囲われたことから、現在の矢来町の名の由来となっています。

    今私の住んでいる近所に喜久井町という町がある。
    (中略)この町は江戸といった昔には、多分存在していなかったものらしい。
    江戸が東京に改まった時か、それともずっと後になってからか、
    年代はたしかに分らないが、何でも私の父が拵えたものに相違ないのである。
    私の家の定紋が井桁に菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという話は、
    父自身の口から聴いたのか、または他のものから教わったのか、何しろ今でもまだ私の耳に残っている。
    (中略)私が早稲田に帰って来たのは、東京を出てから何年ぶりになるだろう。
    (中略)私は昔の早稲田田圃が見たかった。しかし其所はもう町になっていた。
    私は根来の茶畠と竹藪を一目眺めたかった。しかしその痕跡はどこにも発見することが出来なかった。
    多分この辺だろうと推測した私の見当は、当たっているのか、外れているのか、それさえ不明であった。
    (夏目漱石「硝子戸の中」二十三より)

    漱石が十数年振りに生家のあった喜久井町を訪れると町は大きく変わっていて、
    根来(現・新宿区弁天町)の方まで拡がっていました。
    根来は江戸時代に幕府の鉄砲隊「根来組」の屋敷があった所です。
    喜久井町は夏目家の定紋が「井桁に菊」(正式には「平井筒に菊」)なのでそれにちなんで町名とし、
    更に近くの坂にも夏目の名をつけました。
    両方ともこの地域の区長を勤めていた、夏目漱石の父・夏目直克が付けたのです。
    夏目漱石誕生の地

    まだ鶯が庭で時々鳴く。春風が折々思い出したように九花蘭の葉を揺かしに来る。
    猫がどこかで痛く嚙まれた米嚙を日に曝して、あたたかそうに眠っている。
    先刻まで庭で護謨風船を揚げて騒いでいた小供たちは、みんな連れ立って活動写真へ行ってしまった。
    家も心もひっそりとしたうちに、私は硝子戸を開け放って、
    静かな春の光に包まれながら、恍惚とこの稿を書き終るのである。
    そうした後で、私はちょっと肱を曲げて、この縁側に一眠り眠るつもりである。
    (夏目漱石「硝子戸の中」三十九より)

    冬の始めに書き始めた随筆も、春先の長閑な庭先を眺めながら終わります。
    早稲田南町の家の跡地には現在、新宿区立漱石山房記念館(新宿区早稲田南町7番地)が建っています。

    漱石山房記念館

    参考文献:『夏目漱石全集 9』1971年 筑摩書房
    ※引用文の表記は岩波文庫『硝子戸の中』(1933年初版、1990年改版)に従いました。

    (漱石山房記念館ボランティア:立脇清)

     

    テーマ:その他    2021年03月27日
  • ボランティアレポート6 「硝子戸の中」について(前編)

    漱石山房記念館では、ボランティアガイドが漱石の書斎の再現展示室の展示解説を行っていましたが、
    現在は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、休止しています。
    そこで、この吾輩ブログではボランティアガイドによるレポートをお届けしてまいります。

    「硝子戸の中から外を見渡すと、霜除をした芭蕉だの、
    赤い実の結った梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、
    その他にこれといって数え立てるほどのものは殆んど視線に入って来ない。」

    と冬の庭の景色から始まる小品「硝子戸の中」は
    漱石が晩年に住んだ早稲田の漱石山房の書斎で書いたものです。
    この小品に出て来るお寺、神社、建物、地名等は今でも残っています。

    ヘクトーは元気なさそうに尻尾を垂れて、私の方へ脊中を向けていた。
    (中略)彼がいなくなって約一週間も経ったと思う頃、一、二丁隔ったある人の家から下女が使に来た。
    その人の庭にある池の中に犬の死骸が浮いているから引き上げて頸輪を改ためて見ると、
    私の家の名前が彫り付けてあったので、知らせに来たというのである。
    (中略)私は下女をわざわざ寄こしてくれた宅がどこにあるか知らなかった。
    ただ私の子供の時分から覚えている古い寺の傍だろうとばかり考えていた。
    それは山鹿素行の墓のある寺で、山門の手前に、旧幕時代の記念のように、古い榎が一本立っているのが、
    私の書斎の北の縁から数多の屋根を越して能く見えた。
    (夏目漱石「硝子戸の中」五より)

    早稲田南町の家で飼っていた犬のヘクトーがいなくなって一週間程経つと、
    寺の傍に住む女性が池に犬が浮いていると知らせてくれたのです。
    この寺は新宿区弁天町にある曹洞宗宗参寺のことです。
    境内には国の指定史跡「山鹿素行墓」と東京都指定史跡「牛込氏墓」、
    そして乃木希典の遺愛の梅「春日野」があります。
    宗参寺「春日野」

    彼は昔し寺町の郵便局の傍に店を持って、今と同じように、散髪を渡世としていたことが解った。
    「高田の旦那などにも大分御世話になりました」その高田というのは私の従兄なのだから、私も驚いた。
    (中略)「あのそら求友亭の横町にいらしってね、……」と亭主はまた言葉を継ぎ足した。
    「うん、あの二階のある家だろう」
    「ええ御二階がありましたっけ。あすこへ御移りになった時なんか、
    方々様から御祝い物なんかあって、大変御盛でしたがね。
    それから後でしたっけか、行願寺の寺内へ御引越なすったのは」
    この質問は私にも答えられなかった。
    (夏目漱石「硝子戸の中」十六より)

    漱石が未だ子供の頃、従兄が牛込肴町(現、新宿区神楽坂5丁目)にある
    行元寺(原文、行願寺)の傍に住んでいました。
    行元寺は鎌倉時代からある天台宗の寺で、牛込氏の信仰を受けていましたが、
    明治40年に区画整理のため品川区西五反田4丁目へ引っ越しました。
    神楽坂にあった行元寺の跡地は花街となり、
    さらに現在は「寺内公園」という小さな公園になっていて、詳しい説明板があります。
    寺内公園

    私の旧宅は今私の住んでいる所から、四、五町奥の馬場下という町にあった。
    (中略)それから坂を下り切った所に、間口の広い小倉屋という酒屋もあった。
    (中略)堀部安兵衛が高田馬場で敵を打つ時に、此処へ立ち寄って、
    枡酒を飲んで行ったという履歴のある家柄であった。
    (中略)半町ほど先に西閑寺という寺の門が小高く見えた。
    赤く塗られた門の後は、深い竹藪で一面に掩われているので、
    中にどんなものがあるか通りからは全く見えなかったが、
    その奥でする朝晩の御勤の鉦の音は、今でも私の耳に残っている。
    ことに霧の多い秋から木枯の吹く冬へ掛けて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音は、
    何時でも私の心に悲しくて冷たい或物を叩き込むように小さい私の気分を寒くした。
    (夏目漱石「硝子戸の中」十九より)

    漱石の生れた家は晩年に過ごした早稲田南町から四五町(500m)さきの
    牛込馬場下横町(現、新宿区喜久井町)にありました。
    跡地には門下生の安倍能成の揮毫した碑が立っています。
    江戸時代この辺りは辺鄙な所で西側の下高田村に「墨引」があったのです。
    「墨引」とは江戸御府内のおおよその境界を示すもので、
    絵図に黒色の線がひかれていて、幕府が定めたものでした。
    それでも土蔵造りの家が三四軒あり、生家の近くに酒屋があって、
    堀部安兵衛は助太刀に行く途中にこの店で枡酒を飲んだのです。
    そこから少し西に行くと高田八幡神社(穴八幡宮:新宿区西早稲田2丁目)があります。
    漱石が癇癪を起すと妻の鏡子が虫封じの札を貰ってきた神社です。
    その横が八幡坂で以前やっちゃ場がありました。
    「やっちゃ場」は青物市場の通称で、言葉の由来は「野菜場」ではなく、競り人の掛け声からきたものです。
    近くにあるもう一つの坂、夏目坂を少し上ると誓閑寺(原文、西閑寺:新宿区喜久井町)があります。
    浄土宗のお寺で境内には新宿区指定有形文化財に指定されている区内最古の梵鐘がありますが、
    漱石が「硝子戸の中」で書いている「御勤の鉦」とはこの梵鐘のことではありません。
    後編へつづく

    参考文献:『夏目漱石全集 9』1971年 筑摩書房
    ※引用文の表記は岩波文庫『硝子戸の中』(1933年初版、1990年改版)に従いました。

    (漱石山房記念館ボランティア:立脇清)

    テーマ:その他    2021年03月24日
  • ボランティアレポート5 木曜会の人びと

    漱石山房記念館では、ボランティアガイドが
    漱石の書斎の再現展示室の展示解説を行っていましたが、
    現在は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、休止しています。
    そこで、この吾輩ブログではボランティアガイドによるレポートをお届けしてまいります。

    漱石山房記念館ボランティアガイドの解説場所の一つが、1階にある漱石の書斎の再現展示室です。
    「山房」とは書斎を意味し、当時のままに再現されたそこはまさに記念館の心臓とでもいうべき場所です。
    ここに着いたお客さまは必ず立ち止まり、説明キャプションを読み、音声案内に耳を傾けます。
    書斎の対面には津田青楓画「漱石山房と其弟子達」のパネルが飾ってあります。
    この部屋は、当時も漱石に会いにたくさんの人びとが訪れていた客間でした。

    漱石山房記念館再現展示室

    漱石のもとを訪れたのは熊本時代や東京帝大での教え子だけでなく、画家や実業家などさまざまでした。
    門下生の一人、小宮豊隆は著書『夏目漱石 中』(岩波書店、昭和13年初版)の「門下生」の中で、
    訪問者に対する漱石の態度を
    「地位だの名声だのではなく、純粋に「人」だけを愛し愛されることを欲した漱石は(中略)
    純粋に漱石の「人」だけを慕って来る客を喜び」
    と書いています。
    さらに小宮は同書で、漱石が明治37(1904)年7月20日に野間真綱に宛てた書簡から
    「脵野大観先生卒業。彼いふ。訪問は教師の家に限る。かうして寐転んで話しをしてゐても小言を言はれないと。
    僕の家にて寐転ぶもの、曰く脵野大観曰く野村伝四。半転びをやるもの、曰く寺田寅彦曰く小林郁。
    危坐するもの曰く野間真綱曰く野老山長角」
    という一節をひいて、
    「漱石は人を心置きなく寐ころばせるようなものを持っていたのである」
    と書いています。
    この手紙は漱石山房に転居する前のものですが、
    漱石のもとを訪れた人々はまったく津田青楓の画のようにリラックスしていたのではないでしょうか。
    私には漱石が「作家」としてというよりも「教師」として、
    いやもはや「家族」として人々を受け入れていたように思えてなりません。

    しかし、あまりの来客の多さに明治39(1906)年、
    鈴木三重吉の発案で木曜日午後3時以後を面会日と定め「木曜会」が発足します。
    ところが漱石人気は衰えず、木曜日にも人が来ればそれ以外にも来て、
    結局は同じだったと、笑い話のようなエピソードも残っています。
    この木曜会は明治40(1907)年に早稲田南町の漱石山房に転居した後も続きました。

    さて、皆さまは「木曜会の人びと」の作品をご存じでしょうか?
    新宿歴史博物館ボランティアガイドで結成された朗読の会「ふみのしおり」では、
    ただ今「木曜会の人びと」をテーマとした朗読会を企画中です。

    ふみのしおり

    高浜虚子「丸の内」、寺田寅彦「団栗」、鈴木三重吉「ぶしょうもの」、
    芥川龍之介「蜜柑」、久米正雄「虎」、菊池寛「勝負事」、松岡譲「モナ・リザ」など。
    「名前は知っているけれど作品の内容は忘れてしまった……」
    とおっしゃる方に朗読でご紹介したいと思っています。

    場所は漱石山房記念館の講座室。
    今からおよそ120年前、ここ漱石山房の客間で交わされていた
    「木曜会の人びと」の会話が聞こえてくるかもしれません。

    日時が決まりましたら漱石山房記念館のWebサイトや、
    ふみのしおりのWebサイト(https://fuminoshiori.jimdosite.com/)でお知らせする予定です。
    どうぞお楽しみに。

    ※朗読会「木曜会の人びと」の開催日時が決定しました。詳細はこちらをクリック(4月1日追記)

    (漱石山房記念館ボランティア:岩田理加子)

    ※新宿区立漱石山房記念館再現展示室
    書斎内の家具・調度品・文具は、資料を所蔵する県立神奈川近代文学館の協力により再現。
    書棚の洋書は東北大学附属図書館の協力により、同館が所蔵する「漱石文庫」の蔵書の背表紙を撮影し、製作された。

    テーマ:その他    2021年02月26日
  • ボランティアレポート4 漱石山房への小路

    漱石山房記念館では、ボランティアガイドが
    漱石の書斎の再現展示室の展示解説を行っていましたが、
    現在は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、休止しています。
    そこで、この吾輩ブログではボランティアガイドによるレポートをお届けしてまいります。

    いつも見慣れた景色が、ある日ある時、見違えるほどきれいだった……とは、
    誰もが経験されることでしょう。

    私たち一家は2010年4月、ここ早稲田へ当時6歳の愛犬とともに越してきました。
    それから昨年5月までのほぼ毎日、
    宗参寺から漱石山房記念館を回る小路を愛犬と散歩しました。

    昨年の麗らかな春の午後でした。
    いつも見慣れた漱石山房記念館への坂道が、春の日差しに輝いていました。
    毎日散歩する路がまるで違っていたのです。
    思わずそこを進みました。

    漱石山房への小路

    漱石山房記念館は小さな丘の上にあります。
    行こうとすれば、どこからでも坂道を上ることになります。
    上ると通りから一歩、控えた場所にあり、謙虚な佇まいです。
    漱石が住んでいた当時の山房も、芥川龍之介の「漱石山房の秋」に
    「門をくぐると砂利が敷いてあつて(略)
    砂利と落葉とを踏んで玄関へ来ると(略)
    蔦の枯葉をがさつかせて、呼鈴(ベル)の鈕(ボタン)を探さねばならぬ」
    とあり、やはり奥まっていたということでしょう。
    夏目漱石もそんな控えめな人だったのでは、と思わせます。

    かつて、多くの人々が漱石を訪ねました。
    漱石のもとに行けば何かある……と、誰もが何かを求めて坂道を上ったことでしょう。
    その時の坂道は、私が見たように輝いていたのではないでしょうか。

    麗らかなその日、坂の上で私が見たのは、
    漱石山房記念館の隣、漱石公園にひっそりと咲く桜でした。
    誰に見られずとも、咲く時が来たので……という飾らぬ姿でした。
    しばし、その可憐で清らかな美しさを眺めていると、
    心の中に、ぽぅっと灯るものがありました。
    これを教えたくて、山房への小路が輝いていたのだ、と思ったのでした。
    ほのぼのとした気持ちで坂を下り、家へ帰りました。
    山房に漱石を訪ねた人々もきっと同じ。
    漱石という人に接し、心に何かが灯り、
    温かな気持ちを抱えて坂道を帰っていったことと思います。

    猫の街燈

    漱石山房記念館は静かに住宅街に溶け込んでいます。
    そこへの小路は人や車の往来も少なく、のんびりと散策すれば、
    あなたの心にも何か温かいものが灯るかも……。
    夕暮れには猫の街灯が優しく導いてくれますよ。

    ※漱石山房記念館のある漱石山房通りには、
    平成29年度から新宿区道路課によって猫のモチーフの街燈が設置されています。

    (漱石山房記念館ボランティア:井上公子)

    テーマ:その他    2020年12月01日
  • ボランティアレポート3 千駄木の家

    漱石山房記念館では、ボランティアガイドが
    漱石の書斎の再現展示室の展示解説を行っていましたが、
    現在は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、休止しています。
    そこで、この吾輩ブログではボランティアガイドによるレポートをお届けしてまいります。

    本郷区駒込千駄木町57番地(現在の文京区向丘2丁目)。
    この地に明治23(1890)年~25(1892)年までは森鷗外、
    そして明治36(1903)年3月~39(1906)年12月までは夏目漱石が住んでいました。
    現在、この家は愛知県犬山市にある博物館明治村に移築されています。

    戦火を免れたこのあたり一帯は、古い木造の家が残りました。
    私が幼い頃、そんな中のひとつを指して「なつめそうせきの家」と教えられたその家は、
    ひと気もなくひっそりとしていて薄暗く、ただ苔むして緑色になった塀だけが印象に残り、
    幼い記憶ではありますが今も思い浮かべることができます。

    今は日本医科大学の橘桜会館、
    済生学舎ギャラリーの前に「夏目漱石旧居跡」の碑が残っています。
    橘桜会館の塀には猫のオブジェが乗り、
    中へ入れば猫の足跡に導かれるように木製の「夏目漱石旧居跡」が残されています。

    本郷通りと並行する漱石旧居跡前の道は「人力」こそ通りませんが、今も比較的静かです。
    「道草」の主人公・健三は物語の冒頭で、
    毎日定刻に家を出て千駄木から追分へ出る通りを本郷の方へ歩いています。
    健三が歩いた通りはこの漱石旧居前の道だと思いますが、
    漱石旧居跡を後にして右手に進むと、現在の日本医大前の四つ角に出ます。
    その右角にある和菓子店「一炉庵」は明治36(1903)年の創業です。
    朝、店の前へ差し掛かると小豆を炊く良い香りが漂ってきます。
    健三も、いや漱石もこの同じ香りを嗅いでいたのではないだろうか。
    想像すれば、昔も今も変わらぬ良い香りが共有できたようでなんとなくうれしくなります。

    一炉庵

    健三の通勤路と離れて根津裏門坂から根津神社へ。
    乙女稲荷の舞台から社殿を囲む朱と緑の透塀を眺めるといつも清々しい気持ちになります。
    長い鳥居を下りたところには「文豪の石」があり、
    漱石も、鷗外も……色々な人が腰かけたのかも知れません。
    参拝を済ませ、表参道口を右手にS字坂を上れば健三の通勤路に戻ります。
    左へ出て不忍通りを渡って坂を上ればそこは谷中です。
    文学散歩をお楽しみください。
    (漱石山房記念館ボランティア:櫻井眞里子)

    テーマ:その他    2020年11月25日
  • ボランティアレポート2 猫の墓

    漱石山房記念館では、ボランティアガイドが
    漱石の書斎の再現展示室の展示解説を行っていましたが、
    現在は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、休止しています。
    そこで、この吾輩ブログではボランティアガイドによるレポートをお届けしてまいります。

    11年飼っていた猫が8月末に亡くなりました。
    突然、具合が悪くなったのではありません。
    1年前、猫は後足に血栓ができ危うく命を落とすところだったのです。
    その後何とか生き延びましたが、今年の暑い夏は越せませんでした。
    私は昨年の4月に、漱石山房のボランティアになりました。
    猫が1年前倒れたとき、漱石の猫の墓のことが頭に浮かびました。
    そして漱石が詠んだ俳句のことも。
    此の下に稲妻起こる宵あらん
    和田利男「漱石の鳥獣悼亡句」(『漱石の詩と俳句』めるくまーる社、1974年)によると、
    「明治41年9月、例の『吾輩は猫である』のモデルにされた猫が死んだ。
    この句はその猫の墓標に漱石が書いてやったものである。
    『永日小品』の中に「猫の墓」という一章があり、
    「早稲田へ移つてから、猫が段々瘠せて来た。」という書き出しで、
    しだいに弱って行って遂に死に至るまでの容態がくわしく描写されている(中略)
    「稲妻」はこの句の季語になっているが、
    実は夜空の電光そのものをいっているのではなく、
    ここでは猫の目の光の比喩として用いたものである」
    とあります。
    この句について和田氏はさらに
    「滅びゆく生命の火花を双の目にともした猫の最期の憐れさが、
    漱石の眸裡にいつまでも焼きついていたに違いない。」
    としています。
    また、大正3(1914)年に漱石は
    ちらちらと陽炎立たちぬ猫の塚
    と詠んでいます。
    「此の下に」の句から6年余の歳月が流れていますが、
    漱石が生死の境を彷徨した修善寺の大患もその間にありました。

    猫の墓

    私の話にもどります。
    猫が1年前、生死の境をさまよっている頃、
    私も漱石のように猫が亡くなったら俳句を作ってみようかと思いました。
    しかし頭に浮かびませんでした。
    ちょうど書道教室に通い始めた頃でしたので、
    かわりに猫を詠んだこの2句を書いてみることにしました。
    その後1年間、猫は家の近くの犬猫病院に通院し、
    この夏再び入院することになりました。
    するとすぐに病院から呼ばれ、駆けつけましたが間に合いませんでした。
    亡くなった亡骸を、タオルケットに包み、両手で抱いて病院を出ました。
    まだ温かく生きているようでした。
    しかし妙に重く感じました。
    そういえば今までこんなに長く抱いたことがなかったことに気づきました。
    猫は抱かれるのが好きではなかったのです。
    人間と同じように四十九日後、両親がねむる墓の中に入れました。
    子猫のときから世話をした妻には、
    漱石山房で買った猫のコーヒーカップを贈ることにしました。

    注1:現在、漱石山房記念館に隣接する漱石公園にある猫の墓(猫塚)は、
    『吾輩は猫である』のモデルとなった猫の十三回忌にあたる大正9(1920)年に、
    夏目家で飼われた生き物たちを供養するため、
    漱石の長女・筆子の夫・松岡譲が造らせたものが、
    昭和20(1945)年に空襲で損壊し、
    その残欠を利用して昭和28(1953)年に再興されたものです。

    (漱石山房記念館ボランティア:松本民司)

    テーマ:その他    2020年10月20日
  • ボランティアレポート1 「漱石山房記念館」開館の思い出

    漱石山房記念館では、ボランティアガイドが
    漱石の書斎の再現展示室の展示解説を行っていましたが、
    現在は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、休止しています。
    そこで、この吾輩ブログではボランティアガイドによるレポートをお届けしてまいります。

    今から丁度3年前、平成29年9月24日(日)に、
    夏目漱石没後100年(平成28年)及び生誕150年(平成29年)を記念して、
    早稲田南町に「漱石山房記念館」がオープンしました。
    当日、私はボランティアガイドの為、
    近くのお店でコーヒーを飲みながら研修書を読み直し、
    地階から2階までの展示図をしっかりと頭に入れました。
    その日は朝から天気も良く、9時半頃出陣すると、
    玄関前には既に50人程の入場整理券を手にした人達が並んでいました。
    矢張り相当な人気がある模様です。

    現在のボランティアガイドは主に漱石の書斎の再現展示室を解説していますが、
    オープン直後は館内数箇所の解説をしており、私の担当は2階展示室で、
    明治大正に出版された漱石の作品『吾輩ハ猫デアル』、
    『虞美人草』、『三四郎』などの貴重な資料が並んでいました。
    さらに門下生との書簡や絵葉書、漱石の原稿や遺品、
    作品の解説、漱石の人脈図等々、
    まさに記念館の本丸のような展示品です。
    未だ入館者の居ない静かな展示室に立つと、
    何回も研修して来た事が懐かしく思い出されました。
    オープン初日は人が多く、ほとんど解説をする事もなく、
    来館者の誘導が主な仕事でしたが、
    10月~11月になると次第に来館者数も落ち着き、
    ゆっくりとガイドをする事が出来ました。

    その時の印象的なエピソードを一つ、思い出してみます。
    ある日、私が漱石の書斎の再現展示室でガイド待機中に、
    一人の男性が質問にいらっしゃいました。
    「漱石の書斎の右側にある調度品は何ですか?」
    この質問は初めてでした。

    ご質問をいただいた調度品

    私は漱石がロンドンから持ち帰った家具かと思っていましたが、男性は
    「私はインテリアを扱っている者ですが、ちょっと調べさせてください。」
    と希望されたので、事務室にご案内しました。
    職員がその男性のお話をお伺いしたところ、
    後日調査をしたいということになり、
    しかるべき手続きの後に、詳しく調査をされたそうです。
    その結果、辞書などの分厚い書物を読むための
    「書見台」ではないか?ということがわかりました。

    そのほかにも開館直後の時期はたくさんの質問を受け、
    色々な方とお話をすることができました。
    英国留学時代の漱石のブルー・プラーク
    (イギリスで著名人がかつて住んだことがある建物に設置されている銘板)
    をご覧になったという、ロンドンに住んだ事のある方。
    「夢十夜」を朗読するために勉強にいらっしゃったという方。
    漱石ゆかりの地を廻っているという方には、神楽坂の地図をお渡ししました。
    当然の如く博識の方が多く、この得難き貴重な体験を大事にしようと思いました。

    (漱石山房記念館ボランティア:立脇清)

    テーマ:その他    2020年10月15日
  • 博物館実習生によるレポート5 漱石公園をご紹介します

    新宿区立新宿歴史博物館では、
    学芸員資格の取得を目指す博物館実習生を受け入れています。
    令和2年度は5人の実習生が参加して、10日間の博物館実習が行われました。
    新宿歴史博物館内だけでなく、漱石山房記念館でも実習を行いましたので、
    実習生による漱石山房記念館のレポートをお届けします。

    本日は漱石公園をご紹介します。
    漱石公園は漱石山房記念館に隣接されており、
    記念館を出て左にあるスロープを下ると、
    夏目漱石の胸像がある入口が見えてきます。

    夏目漱石胸像

    中に入ると、都心の市街地にも関わらず自然を感じることができます。
    漱石公園の中央には『吾輩は猫である』のモデルとなった「福猫」や文鳥など、
    夏目家で飼われていた生き物たちを供養するために建てられた「猫の墓(猫塚)」があります。

    猫の墓

    漱石公園には桜やアジサイなど、鮮やかに咲く花があり、
    花が咲く季節にはとても見応えがあります。
    しかし、バショウやサルスベリ、ハゲイトウといった
    夏目漱石の作品内に出てくる様々な植物も見ものです。
    植物のネームプレートには、
    夏目漱石がどの作品でその植物を登場させたかを見られるものもあり、
    漱石のことを知ることができます。

    漱石公園

    植物は漱石公園内の他にも、漱石山房記念館の入り口脇にも植えられており、
    そこにもザクロや柿などの漱石の作品に登場した植物が植えられています。
    ぜひご利用ください。
    (博物館実習生:保屋野)

    テーマ:その他    2020年08月23日
  • 博物館実習生によるレポート4 図書室について

    新宿区立新宿歴史博物館では、
    学芸員資格の取得を目指す博物館実習生を受け入れています。
    令和2年度は5人の実習生が参加して、10日間の博物館実習が行われました。
    新宿歴史博物館内だけでなく、漱石山房記念館でも実習を行いましたので、
    実習生による漱石山房記念館のレポートをお届けします。

    本日は漱石山房記念館の地下1階にある、図書室についてご紹介します。
    漱石作品はもちろん関連図書も豊富で、なんと約3500冊もの図書があります。
    閲覧のみで貸出はしていませんが、コピーを取ることができます。

    図書室入口

    図書室内の様子です。棚の上から下まで本がずらりと並んでいます。
    室内は明るく、開放的な造りなのも魅力です。
    閲覧スペースがあるので、落ち着いて本を読むこともできます。
    手の届かない上段の本は、職員に声をかけてお取りくださいね。

    図書室内風景

    こちらは漱石作品の初版本、ではなくその復刻版です。
    『名著復刻 漱石文学館』というシリーズで刊行されました。
    つい手に取りたくなるような綺麗な装丁に、
    実際に触れることが出来るのは復刻版ならではです。
    ぜひ手に取って読んでみてください。
    本物の初版本の一部は2階の常設展示に展示しています。

    名著復刻漱石文学館

    図書室の外には「新宿区立図書館蔵書検索システムOPAC」と
    「漱石山房記念館情報検索システム」があります。
    「OPAC」では館内図書室の蔵書検索ができます。

    OPAC

    「漱石山房記念館情報検索システム」は新宿区の所蔵資料だけでなく、
    全国の漱石関連資料を調べることもできます。
    他にも「漱石事典」では漱石に関する豆知識や、
    作品の解説なども見ることができます。
    こちらでしか利用できないシステムなので、
    訪れた時にはぜひ利用してみてください。

    漱石山房記念館情報検索システム
    (博物館実習生:和田)

    テーマ:その他    2020年08月21日
  • 博物館実習生によるレポート3 「あの言葉を持ち帰りたい」

    新宿区立新宿歴史博物館では、
    学芸員資格の取得を目指す博物館実習生を受け入れています。
    令和2年度は5人の実習生が参加して、10日間の博物館実習が行われました。
    新宿歴史博物館内だけでなく、漱石山房記念館でも実習を行いましたので、
    実習生による漱石山房記念館のレポートをお届けします。

    漱石山房記念館の二階では、漱石が残した言葉をパネルで展示しています。
    漱石の言葉展示
    展示をご覧になったお客様から
    「あの言葉を持ち帰りたい」というご意見に応えて作られたのが、
    現在ミュージアムショップに並べられている、活版印刷メモ帳「夢十夜」です。

    活版印刷メモ帳

    メモ帳を作るにあたってどの言葉を載せたらいいか、
    職員皆で話し合いや投票を行い、選ばれたのが「夢十夜」のこの一文でした。

    夢十夜パネル

    「百年待っていてください」という素敵な言葉を持ち帰っていただくだけでなく、
    その展示の一部を持ち帰っていただきたい、という職員の思いも込められています。

    記念館のオリジナルグッズには色々なこだわりが詰まっています。
    例えばショップに並べているミニトート、実は最初、製作会社から何版か提案がありました。

    ミニトート試作品

    しかし『吾輩ハ猫デアル』の初版本の色味にこだわりたいという思いから、
    今のミニトートが生まれました。

    ミニトート完成品

    何気なく並べられているグッズたちは、こうした思いが詰まった品々なのです。
    皆さまもご来館の際には、漱石山房記念館の展示品を「お持ち帰り」になってはいかがでしょう。
    (博物館実習生:李)

    テーマ:その他    2020年08月19日
  • 博物館実習生によるレポート2 「記憶の再現」へのこだわり

    新宿区立新宿歴史博物館では、
    学芸員資格の取得を目指す博物館実習生を受け入れています。
    令和2年度は5人の実習生が参加して、10日間の博物館実習が行われています。
    新宿歴史博物館内だけでなく、漱石山房記念館でも実習を行いましたので、
    実習生による漱石山房記念館のレポートをお届けします。

    はじめまして、博物館実習に参加させて頂きました、熊倉です。
    この記念館の目玉といったらやはり、漱石山房書斎の再現展示でしょう。
    写真と見比べてみても、本当にそっくりで、漱石の息遣いが聞こえてくるようです。

    実はこの再現には、想像を超えるこだわりが隠されていました。
    今回はそんな「記憶の再現」にまつわるこだわりポイントを2つ、ご紹介させて頂きます。

    1.八畳・十畳問題
    漱石山房は、漱石自身の記述や絵画、
    門下生の松岡譲や芥川龍之介らの記述に基づき再現されています。
    しかし、彼らの記述には食い違う部分があり、
    書斎・客間の広さも8畳と10畳の二説があり、はっきりしませんでした。
    そこで使われたのが、客間にあった安井曾太郎の洋画「麓の町」です。
    この絵画の寸法と、昭和3(1928)年に撮影されたこちらの客間の写真に写る同じ絵画とを比べ、
    書斎・客間とも10畳であることをつきとめました。

    昭和3年の漱石山房

    漱石が最晩年を過ごした書斎・客間は、このように再現されたのです。

    2.壁紙の紋様
    室内の壁紙についても、漱石自身は壁紙は白であると述べており、はっきりしませんでした。
    そこで、この壁紙を作成したと思われる職人・栗山弘三郎の証言から
    「銀杏鶴」紋の壁紙として再現されました。

    作品を通してしか出会えなかった漱石の姿を、眼前に見せてくれるこの再現展示。
    みなさまも漱石山房記念館で、漱石と同じ景色を見てみてはいかがでしょうか?

    「記憶して下さい。私はこんな風にして生きて来たのです。」
    ―「こころ」大正3年

    早稲田南町の書斎に於ける漱石

    漱石山房記念館再現展示室

    (博物館実習生:熊倉)

    テーマ:その他    2020年08月17日
  • 博物館実習生によるレポート1 松岡譲と火焔型土器、オリンピック

    新宿区立新宿歴史博物館では、
    学芸員資格の取得を目指す博物館実習生を受け入れています。
    令和2年度は5人の実習生が参加して、10日間の博物館実習が行われています。
    新宿歴史博物館内だけでなく、漱石山房記念館でも実習を行いましたので、
    実習生による漱石山房記念館のレポートをお届けします。

    今回は、現在行なわれているテーマ展示
    「越後の哲学者 松岡譲 ―人と作品―」についてご紹介します。
    「夏目漱石の門下生」「漱石に越後の哲学者と評された」など
    夏目漱石との関わりの中で語られることが多い松岡ですが、
    今回は松岡と彼の故郷長岡で出土した火焔型土器、
    そしてオリンピックとの意外なつながりについて紹介します。

    松岡譲の生涯
    松岡譲は明治24(1891)年に新潟県古志郡石坂村(現・長岡市)で生まれました。
    生家である寺を継ぐことを期待されながらも文学の道に進み、
    約50年にわたり作家として活動しました。
    重厚な長編小説や夏目漱石についての随筆など、500点近い著作を遺しています。

    松岡と火焔型土器、オリンピック
    晩年の松岡は、縄文時代の火焔型土器に強い関心を持っていました。
    長岡で発掘され、長岡科学博物館に展示されていた火焔型土器を鑑賞し、
    すっかり魅了された松岡は、友人らにチラシを配り、その魅力を伝えました。

    火焔土器

    さらに、自らテニス愛好者向けの雑誌を創刊するほどスポーツを愛好していた松岡は、
    東京オリンピックの聖火台のデザインを火焔型土器にする案を提言したそうです。
    他にも、当時の東京都知事に火焔型土器の模型を送り、
    大会事務総長に1時間にも及ぶプレゼンテーションを行うなど、精力的な活動を行なっていました。

    松岡の提案が1964年の東京オリンピックに取り入れられることはありませんでしたが、
    その思いは現代にも受け継がれています。
    松岡の出身地である長岡市が加盟する信濃川火焔街道連携協議会は
    今回開催予定の東京オリンピック・パラリンピックの聖火台に
    火焔型土器のデザインが採用されることを目指して活動をしています。

    越後の哲学者松岡譲展示風景

    参考文献:関口安義『評伝 松岡譲』小沢書店 1991年

    (博物館実習生:加納)

    テーマ:その他    2020年08月15日
  • 松岡譲と津田青楓–描かれなかった耳疣(みみいぼ)の歴史–

    「越後の哲学者 松岡譲」展は6月16日にようやく開幕することができました。
    新型コロナウイルス感染予防対策として、手指消毒、検温、入場制限等、
    ご来館の皆様にはご負担をおかけしておりますが、
    ご協力のほど、どうぞよろしくお願いいたします。

    今回は開催中の松岡展から、
    今年(2020年)生誕140年を迎えた画家・津田青楓関係資料に注目したいと思います。
    津田青楓は、夏目漱石の木曜会に出席し、
    漱石作品の『道草』を装幀した画家として知られています。
    青楓は、漱石没後も未亡人や子女に油絵を教えるなどして、
    夏目家の人々と親しく交友しました。
    漱石の長女・夏目筆子と結婚した松岡譲とは、
    大正13(1924)年に京都で開催した漱石遺墨会や、
    昭和4(1929)年の『漱石寫眞帖』の刊行、漱石忌など、
    漱石追悼の機会を共にし、折々の手紙で近況を報告しあう親密な友人関係にありました。
    展示中の松岡譲宛津田青楓書簡

    昭和41(1966)年、86歳の青楓は、75歳の松岡に肖像画《譲上人座像》を送っています。
    その後、松岡に宛てた手紙の中で、漱石の宗教観に関する文章を書くため
    松岡の著作『ああ漱石山房』の持ち合わせがあれば送ってほしいと書いています。
    松岡はその返信の手紙に、
    「…処で一昨年でしたか私の顔を描いて下さりましたね。
    私は両耳の耳の穴の前のところに人にはない、贅肉の疣が揃ってシンソリカルにあるんです。
    昔それをテーマに「耳疣の歴史」という自伝めいた短編を書いた時、
    寺田寅彦さんから大変ほめて頂いたことがあります。
    ところがあなたの描いて下さった貴方の所謂「譲上人像」にはその大事なトレードマークがないのです。
    いつかこれを一寸かき入れてくださるまいか。欠点即ち特徴ですから。」(注:1)と書きました。

    この手紙を受け取った青楓は、
    「…偖(さて)お手紙で思い出しました昔譲上人像書いたことがありましたね、
    耳に左右にシンメトリに疣があるとのこと、若し手数をいとはず送って頂けば、
    瘤をくっつけるなり又文章で書き入れしておいてもよろしい。」と返信しました。
    しかし、現存する《譲上人座像》の耳には疣が描かれていません。
    この手紙が届いた4か月後に松岡は帰らぬ人となり、疣が描かれる機会は失われてしまったのです。

    「耳疣の歴史」は大正11(1922)年『新小説』に発表され、
    その一年後、松岡の記念すべき第一著作集『九官鳥』に収められました。
    『九官鳥』の装幀は青楓が行っています。
    「耳疣の歴史」は、二人の交友を加味して松岡が亡くなるまで紡がれていたのですね。
    現在開催中の「越後の哲学者 松岡譲‐人と作品‐」(~9月6日(日)まで)では、
    このいきさつを示す青楓直筆の手紙や青楓作の《譲上人座像》(写真パネル)をご覧いただけます。
    皆様のご来館をお待ちしています。

    注1:津田青楓『春秋九十五年 限定版』求龍堂、1973年、41頁参照。
    ※引用文の表記は出典のままとしました。

    テーマ:その他    2020年07月22日
  • 越後の哲学者 松岡譲  その5

    「越後の哲学者 松岡譲」展のみどころをご紹介するブログの第5回目の最終回は、
    松岡の趣味と晩年についてみていきたいと思います。

    松岡譲は若い頃から体が大きく、運動神経も良かったようで、
    長岡中学時代には水泳と野球を、一高時代には大弓をやっていました。
    成人してからは趣味として登山もするスポーツマンでした。
    渾身の長編小説『法城を護る人々』の最終巻(下巻)を刊行後、
    次なる長編小説「憂鬱な愛人」と、
    漱石未亡人・鏡子からの聞き取りをもとにした「漱石の思ひ出」の2本の連載を持ち、
    岩波から配本が始まった『漱石全集』の月報に毎月のように小文を寄稿し、
    文筆家として最も脂の乗っていた昭和3(1928)年の秋、
    37歳の松岡は原因不明の腹痛に襲われ、以後2年ほど静養につとめ創作から離れます。

    この闘病中に松岡は主治医の勧めでテニスと出会い、のめり込んでいきました。
    もとよりスポーツが得意だったため、すぐに腕を上げ、日本のテニス界の盛り上げにも奔走しました。
    昭和8(1933)年には、社会人のテニス愛好者を対象とした月刊誌『テニスフアン』を創刊し、
    編集人として発行を軌道に乗せたあと退きました。
    昭和9(1934)年には、東京田園調布にテニス・クラブ「田園倶楽部」も設立しています。
    『テニスフアン』や新聞に、テニス界の批評を毎月寄稿する様子は、
    まるでスポーツ・エッセイストになったかのようでした。
    そんな松岡を、周囲の人々は本業が疎かになっていると心配します。
    しかし当人は、
    「幸か不幸か、私はいろいろなものに興味を持つよう生まれついて来た。
    文学はもとよりの事、宗教、哲学、歴史、美術、考古学、スポーツなど、
    (中略)さういふものについて、自分は自分としての恩返へしがしたい。
    それには私が著述家としての職分から尽くす外ない」(注:1)と述べて、
    スポーツ記事に筆を揮いました。

    松岡譲原稿

    展示会では、秩父宮記念スポーツ図書館のご協力を得た『テニスフアン』創刊号の写真や、
    大正9(1920)年のアントワープ五輪のテニスで銀メダルを獲得した
    熊谷一弥(くまがい いちや)との交流を紹介し、松岡のテニスに傾けた情熱に迫ります。

    ところで皆さんは、近代オリンピックに
    「芸術競技」という種目があったことをご存じでしょうか。
    「芸術競技」とは、スポーツを題材とした建築や彫刻、
    絵画、文学、音楽の作品の優秀作を競うオリンピック競技で、
    1912年の第5回ストックホルム大会から
    1948年の第14回ロンドン大会までの限られた期間に行われました。
    昭和15(1940)年の第12回オリンピック東京大会でも、
    詩・戯曲・散文などからなる「文芸競技」が構想されていました。
    スポーツを愛好する松岡はこれを喜び、
    「この国の文壇に、スポーツ文学といった新しい領土が開拓される」
    と書いています(注:2)。
    しかしながら、第12回東京大会は時局の悪化により幻となり、
    松岡の出場の機会も失われてしまいました。

    戦後、日本が再びオリンピックの開催地に決定すると、
    松岡のスポーツ熱は、郷土の考古愛とともに再燃します。
    松岡は、昭和39(1964)年の東京オリンピックの聖火台を、
    地元の長岡市で出土した火焔土器をかたどったものにすべく、
    IOC委員の高石新五郎に相談します。
    続いて東京都知事に火焔土器の模型を贈り、
    大会事務総長の田畑政治には1時間に及ぶ説明を行い、
    火焔土器聖火台プロジェクトの実現に向けて精力的なアピール活動を展開しました。
    しかしながらこの活動も、松岡が働きかけた田畑ら大会中枢部の辞任により、
    立ち切れになってしまいました。
    松岡は新たに大会組織委員会会長となった安川大五郎に火焔土器の模型を贈り、
    自らの慰めにしたといいます。

    松岡の火焔土器愛好は、オリンピックを機に突然芽生えたのでなく、
    長岡市で仮住まいしていた蒼柴(あおし)神社社務所のある悠久山公園の一角に、
    昭和26(1951)年8月、火焔土器を展示する長岡市立科学博物館が開館したことに始まります。
    昭和38(1963)年には博物館の裏手に転居し、そこを終の棲家とした松岡は、
    「御自慢中の御自慢大名物の火焔型土器」を展示する「お山の博物館」に、
    多い時には日に3度も通い、長岡を訪れる著名人を案内しました。
    昭和32(1957)年に松岡の案内で博物館を訪れた、
    文化財専門審議会専門委員の染織史家・明石染人(せんじん)は、
    火焔土器の前で両手を挙げて「おお、素敵」と叫んだといいます。
    松岡はその後、明石と何通もの長文の書簡をやりとりし、
    百十数枚の写真原版を揃えて豪華版の縄文土器写真集の出版話を進めました。
    残念なことに、この企画も、明石の急死と出版社社長の病により実現には至りませんでした。
    展示会には、写真集刊行に向けた熱い思いがほとばしる「明石染人 松岡譲宛書簡」も展示します。
    松岡の火焔土器への情熱は、明石の死後、東京オリンピックの聖火台運動へと継承されていきます。
    生前最後に発表された随筆は、この縄文土器写真集と火焔土器型聖火台運動の顛末を記した
    「「火焔土器」の模型」(『學鐙』66(6)、昭和44(1969)年6月)でした。
    松岡は「著述家としての職分」を尽くし、趣味のスポーツに加え、
    晩年に情熱を注いだ考古学にも恩返しをしました。

    展示会では、小説に加えて、テニスや縄文土器のコーナーを設け、松岡の多面的な活動を紹介します。
    長岡市立科学博物館のご許可を得て展示した
    「松岡譲「お山の博物館」『長岡市立科学博物館館報 NKH』創刊号(昭和33(1958)年9月)」は、
    こちらの長岡市立科学博物館WEBページ よりPDFデータでお読みいただけます。
    ご来館の前にぜひご一読ください。

    これまで5回にわたり、松岡譲展の内容と、松岡の魅力についてお伝えしてきました。
    しかしながらこのブログでは実際の展示の魅力をとても伝えきれません。
    皆様にご来館いただける日が来ることを、漱石山房記念館スタッフ一同心待ちにしています。
    これまでお読みくださり、ありがとうございました。
    (越後の哲学者 松岡譲 おわり)

    注:
    1 松岡譲「スポーツ・ジャーナリズム」『テニスフアン』2巻9号 1934年10月
    2 松岡譲「文学オリンピツクなど」『文藝春秋』1937年3月

    ※「火焔土器」とは昭和11(1936)年に長岡市の馬高(うまたか)遺跡で
    最初に発見された1個の土器につけられたニックネームで、
    類似した土器は「火焔型土器」と呼び、考古学上区別されています。

    テーマ:その他    2020年05月25日
  • 越後の哲学者 松岡譲  その4

    「越後の哲学者 松岡譲」展のみどころをご紹介するブログの第4回目は、
    「岳父 漱石へのまなざし」と題し、松岡の漱石研究についてみていきたいと思います。

    松岡の作品のなかで最もよく読まれているのは、
    『漱石の印税帖』(朝日新聞社 昭和30(1955)年)ではないでしょうか。
    本作は、漱石の婿として夏目家に7年間同居した松岡ならではの随筆集です。
    また、義母である夏目鏡子から聞き取った漱石の話を筆録した
    『漱石の思ひ出』(改造社 昭和3(1928)年)も、
    家族から見た漱石のありのままの姿を伝える作品として、高く評価されています。

    漱石関係の松岡著書

    松岡の漱石研究の多くは随筆のかたちで発表されました。
    それは、大正6(1917)年3月の第四次『新思潮』〈漱石先生追悼号〉の
    「其後の山房」にみられるように、漱石の死の直後から始まっています。
    「其後の山房」は、漱石の〈お骨上げ〉から始まる5章仕立てのエッセイです。
    昭和9(1934)年には、「漱石座談会でおしゃべりをして居るような気持ちで」編んだ随筆評論集、
    『漱石先生』(岩波書店)も刊行しています。
    生前最後の単行本、『ああ漱石山房』(朝日新聞社 昭和42(1967)年)も、
    漱石にまつわる随筆集でした。
    これらは、漱石の門下生としてその謦咳に接し、
    漱石没後は遺族として生きた彼にしか書きえない貴重な情報が満載された、魅力的な作品です。

    松岡の漱石研究のもう一本の柱に、
    自ら「漱石文学の奥秘をひらく一つの鍵」という、漱石の漢詩があります(注:1)。
    松岡は、戦時中の昭和18(1943)年2月から約4か月間、瀬戸内海の大崎下島などに滞在し、
    漱石の漢詩に親しみました。
    その研究成果は戦後の昭和26(1946)年9月に刊行した『漱石の漢詩』(十字屋書店)に結実します。
    不安な時局にもかかわらず、その原稿は瀬戸内海の島、東京、越後の実家と肌身離さず持たれ、
    戦争末期に疎開先の長岡で最後の稿が書き上げられています。
    松岡は、晩年に新版『漱石の漢詩』(朝日新聞社 昭和41(1966)年)を出しますが、
    その「まえがき」に、旧著は戦争末期の疎開騒ぎのなかろくな辞書もなしに執筆したもので、
    「見るも無残な誤りに充ち満ちたいわば悪書だ。」
    「無いものとして無視し、そうして進んで破棄して頂ければ幸いだ」と書いています。
    しかしながら、漱石の漢詩世界への憧憬に満ちた旧著は、
    戦後すぐの荒廃した時代に、多くの人々の心を潤したものと思われます。
    巣鴨プリズンに収監されていた漱石門下生・赤木桁平(あかぎこうへい・本名:池崎忠孝)
    から松岡に送られた手紙には、
    「近来こんな気持ちのよい本を読んだことはなく、実に感激し、
    また陶然として、先生(漱石)その人の心情にふれた。心から君に感謝する。」
    と書かれています(注:2)。

    松岡は、昭和9(1934)年という彼の作家人生の早い時期に、
    「先生が亡くなられて(中略)、その間の事については、多少私に語るべき義務と責任があるやうに思ふ。」
    と述べています(注:3)。その義務と責任は80点にも及ぶ漱石関連の作品によって果たされました。

    最晩年の門下生として、長女の夫として、
    松岡は二重の関係で夏目漱石とつながり、生涯を通じて向き合ってきたのです。
    越後の哲学者 松岡譲 その5に続く)

    注:
    1 松岡譲『夏目漱石 文學読本 春夏の巻』第一書房 1936年
    2 松岡譲「「明暗」の原稿その他」永井保 編『池崎忠孝』池崎忠孝追悼録刊行会 1962年
    3 松岡譲『漱石先生』岩波書店 1934年

    テーマ:その他    2020年05月18日
  • 越後の哲学者 松岡譲  その3

    「越後の哲学者 松岡譲」展のみどころをご紹介するブログの第3回目は、
    松岡の代表作、『法城を護る人々』に注目します。

    松岡の約50年間にわたる作家人生は、
    第四次『新思潮』の同人として活躍した20代半ば、
    結婚をめぐる事件により断筆後、活動を再開させ最も脂が乗っていた30代、
    2年間の病気療養から復帰した40代以降の、3期に分けることができます。
    松岡は寡作の作家、非文壇作家と評されますが、
    新聞や雑誌への寄稿は多く、随筆も含めれば500点近い作品を残しています。

    短編小説では、『九官鳥』(大正11(1922)年)、『地獄の門』(大正11(1922)年)、
    『田園の英雄』(昭和3(1928)年)、『白鸚鵡(しろおうむ)』(昭和22(1947)年)
    の4冊の小説集を刊行しています。
    しかし、松岡が書きたいと願っていたのは、本格的な長編小説でした。
    自らの素質を短編よりも長編に向くと信じ、「長篇を書く味が忘れられない」、
    「誰が何といつたつて一生長篇を書かうと堅く決心してゐる」と語っています(注:1)。
    これには、若い日に師の漱石から「或いは器用な短篇より長篇の方に向くかもわからない」
    と言われたことが影響しているのかもしれません(注:2)。

    松岡の長編小説は、現状否定の強烈な批判精神に貫かれ、深刻さに満ちています。
    加えて、漢語の多用により重厚感に溢れています。
    その中で『法城を護る人々』上・中・下(大正12(1923)~大正15(1926)年)は代表作と言えます。

    法城を護る人々

    前回のブログ(越後の哲学者 松岡譲 その2)で触れましたが、
    松岡は大学を卒業した4か月後の大正6(1917)年11月に、
    短編小説の「法城を護る人々」を『文章世界』に発表しました。
    同素材を扱った同名の長編小説『法城を護る人々』(上巻)を刊行したのは、
    それから約6年後の大正12(1923)年6月のことでした。
    先に発表された同名の短編小説は、
    第二創作集『地獄の門』(玄文社、大正11(1922)年10月)に収録される際、
    「護法の家」と改題されています。
    長編小説の『法城を護る人々』は、上・中・下巻に別れて刊行されましたが、
    総原稿数は4,500枚にものぼります。
    僧侶の生活批判と人間のエゴイズムの追求を根本的なテーマとする作品ですが、
    それはまた、雪深い北国の寺に生まれ、信仰深い父と度々対立した松岡の、
    自伝的長編小説でもありました。

    この執筆を支えたのは、第一書房の社主・長谷川巳之吉(みのきち)です。
    長谷川は、これはと見込んだ松岡の渾身の長編小説『法城を護る人々』で、
    自身の出版社・第一書房を旗揚げしました。
    当時としては斬新な広告戦略もあり、本書は100版を軽く超えるベストセラーとなりました。
    昭和に入ると普及版が出版されるほど版を重ねますが、
    文壇の評価はというと、黙殺に近いものでした。
    『評伝 松岡譲』を著した関口安義氏は、
    作者の態度が宗門人に対する冷酷な批判に終始している点や、
    問題解決が個の範囲にとどまり社会的に広がらなかった点など、
    作品自体の欠点を指摘しつつも、文壇による完全なる黙殺の要因は、
    久米正雄の『破船』によって作り出され尾を引いていたアンチ松岡の空気にあったといい、
    「大々的宣伝で登場した『法城を護る人々』は、文壇人のねたみと嘲笑の対象以外の何物でもなかった。」
    と記しています(注:3)。

    発表当時、数は少ないながら本作に注目した評論もありました。
    長谷川如是閑(にょぜかん)は、現在の事実を忠実に描写しているといい、
    「ドキュメント」、「宗教界の自然主義的創作」として評価しました(注:4)。
    また、哲学者の土田杏村(きょうそん)は、本作の革命的な気概を評価し、
    芸術的な価値を認め、20枚にも及ぶ書評を書いています(注:5)。

    展示会では、漱石が見抜き、本人が最も望んだ長編小説家としての松岡の一面を紹介する
    「代表作「法城を護る人々」「敦煌物語」」のコーナーを設けています。
    新型コロナウイルス感染症が収束し、
    皆様にご覧いただける日が来るのを楽しみにしています。
    越後の哲学者 松岡譲 その4に続く)

    注:
    1 松岡譲「長篇小説一家言」『読売新聞』1927年12月
    2 松岡の処女小説「河豚和尚(ふぐおしょう)」を漱石が批評した中で使われた言葉。
    松岡譲「人間漱石」『正岡子規 夏目漱石 柳原極堂』生誕百年祭実行委員会 1968年
    3 関口安義『評伝 松岡譲』小沢書店 1991年
    4 長谷川如是閑「宗教的アナーキズム」『我等』1923年9月
    5 土田杏村「非文壇作家」『詩と音楽』1923年10月

    参考文献:
    関口安義『評伝 松岡譲』小沢書店 1991年
    林達夫ほか編著『第一書房 長谷川巳之吉』日本エディタースクール出版部 1984年

    テーマ:その他    2020年05月11日
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