夏休み。多くの方が夏祭りや旅行で神社仏閣に行かれることがあるかと思います。
最近では、神社仏閣を訪れる旅行中の海外の方も多く目にします。
本殿・本堂への参拝、授与所等でお守りをチェックしたり、最近流行りの御朱印を拝受したり。
そして、目につくのはさまざまな種類のおみくじです。
おみくじの役割は、神仏のお告げを私たちに橋渡しすることです。
恋みくじ、水に浸すと文字が現れる水みくじ、木製のだるまの中からおみくじが出てくるだるまみくじ、
インバウンドの訪問に対応するため、多言語で書かれたおみくじもあります。
おみくじは、江戸時代に比叡山中興の祖である元三大師にあやかった「元三大師御籤」が大流行し、
寺院で配るおみくじのほかに、おみくじがまとめられた本も発行され、明治以降になっても多く売り出されました。
そして、多くの方が一喜一憂する吉凶禍福が書かれています。
そんなおみくじですが、漱石作品の中でも見ることができます。
明治45(1912)年に全119回にわたって朝日新聞に連載された「彼岸過迄」の第15回に
「善光寺如来の御神籤を頂いて第五十五の吉といふのを郵便で送つて呉れたら、
其中に雲散じて月重ねて明らかなり、といふ句と、花発いて再び長栄といふ句があつたので・・・」
とあります。
この内容は、元三大師御籤の第五十五番が当てはまります。
元三大師御籤の第五十五番は吉です。
また、五言四句は「雲散月重明 天書得誌誠 雖然多阻滞 花発再重栄」です。
漱石は、この内の第1句と第4句を用いたようです。
漱石の日記をみると、明治44(1911)年6月に妻の鏡子と善光寺を訪れています。
おみくじを引いたという記録はありませんが、
善光寺の第五十五番のおみくじを目にすることがあったのではないでしょうか。
現在も善光寺には、様々なおみくじの中に、元三大師御籤も引くことができます。
ちなみに2句は、「天書誌誠を得たり」3句は、「然も阻滞多しと雖も」です。
続いて、大正5(1916)年に188回までで未完となった、
漱石最後の作品「明暗」の第46回に
「継子は長さ二寸五分幅六分位の小さな神籤箱の所有者であつた。
黒塗の上へ篆書の金文字で神籤と書いた其箱の中には、象牙を平たく削つた精巧の番号札が、
数通り百本納められてゐた。
彼女はよく「一寸見て上げませうか」と云ひながら、小楊枝入を取り扱ふやうな手付で、
短冊型の薄い象牙札を振り出しては、箱の大きさと釣り合ふ様に出来た文句入の折手本を繰りひろげて見た。
(中略)お延が津田と浅草へ遊びに行つた時、玩具としては高過ぎる四円近くの代価を払つて、
仲見世から買つて帰つた精巧なこの贈物は、来年二十一になる継子に取つて、
処女の空想に神秘の色を遊戯的に着けて呉れる無邪気な装飾品であつた。
彼女は時として帙入の儘それを机の上から取つて帯の間に挟んで外出する事さへあつた」
と出てきます。
二寸五分幅六分とは、高さが約7.5センチ、幅が約2センチ(一寸が約3センチ、一分が約3ミリ)の小さな箱です。
その中に100本の番号札が納められています。
振って出た番号とおみくじの折本(じゃばら折りの本)を照らし合わせてお告げを見るのです。
そして、帯に挟んで持ち歩けるくらい小さな携帯用の本と書かれています。
継子が持っていたおみくじ本は、袖珍本(しゅうちんぼん)とよばれる携帯用の小型本になると思われます。
幕末には、どこでも実際に御籤が引ける携帯用のおみくじ本が売り出されていたようです。
このおみくじ本は折本状で、この折本と同じ大きさのおみくじ箱と1組になって専用の袋に入っていました。
さらに購入した浅草の仲見世と言えば、天台宗の古刹(現在は観世音宗)で元三大師とも縁のある浅草寺です。
写真で紹介している元三大師御籤は、幕末に浅草観音境内で売られていたおみくじ本です。
漱石の時代にも浅草寺の仲見世には、玩具店や本屋がありました。
「彼岸過迄」「明暗」ともに小説の一説ですが、漱石がおみくじ・おみくじ本を見るなり、
聞き及ぶなりしたのではないかと想像できます。
占い、迷信好きであった鏡子と一緒にみていたかもしれません。
さらには、漱石も寺社に出かけた折には神仏のお告げをいただいていたのかもしれません。
かの新井白石も娘の縁談に際して、おみくじによって可否を決していたといいます。
発展目まぐるしい現代でも様々な種類のあるおみくじが引けることをみてみると、
今も昔も変わらず神仏に聞いてみたくなることがあるようです。
参考文献:大野出『元三大師御籤本の研究-おみくじを読み解く-』思文閣出版、2009年
テーマ:漱石について 2024年9月3日