「越後の哲学者 松岡譲」展のみどころをご紹介するブログの第4回目は、
「岳父 漱石へのまなざし」と題し、松岡の漱石研究についてみていきたいと思います。
松岡の作品のなかで最もよく読まれているのは、
『漱石の印税帖』(朝日新聞社 昭和30(1955)年)ではないでしょうか。
本作は、漱石の婿として夏目家に7年間同居した松岡ならではの随筆集です。
また、義母である夏目鏡子から聞き取った漱石の話を筆録した
『漱石の思ひ出』(改造社 昭和3(1928)年)も、
家族から見た漱石のありのままの姿を伝える作品として、高く評価されています。
松岡の漱石研究の多くは随筆のかたちで発表されました。
それは、大正6(1917)年3月の第四次『新思潮』〈漱石先生追悼号〉の
「其後の山房」にみられるように、漱石の死の直後から始まっています。
「其後の山房」は、漱石の〈お骨上げ〉から始まる5章仕立てのエッセイです。
昭和9(1934)年には、「漱石座談会でおしゃべりをして居るような気持ちで」編んだ随筆評論集、
『漱石先生』(岩波書店)も刊行しています。
生前最後の単行本、『ああ漱石山房』(朝日新聞社 昭和42(1967)年)も、
漱石にまつわる随筆集でした。
これらは、漱石の門下生としてその謦咳に接し、
漱石没後は遺族として生きた彼にしか書きえない貴重な情報が満載された、魅力的な作品です。
松岡の漱石研究のもう一本の柱に、
自ら「漱石文学の奥秘をひらく一つの鍵」という、漱石の漢詩があります(注:1)。
松岡は、戦時中の昭和18(1943)年2月から約4か月間、瀬戸内海の大崎下島などに滞在し、
漱石の漢詩に親しみました。
その研究成果は戦後の昭和26(1946)年9月に刊行した『漱石の漢詩』(十字屋書店)に結実します。
不安な時局にもかかわらず、その原稿は瀬戸内海の島、東京、越後の実家と肌身離さず持たれ、
戦争末期に疎開先の長岡で最後の稿が書き上げられています。
松岡は、晩年に新版『漱石の漢詩』(朝日新聞社 昭和41(1966)年)を出しますが、
その「まえがき」に、旧著は戦争末期の疎開騒ぎのなかろくな辞書もなしに執筆したもので、
「見るも無残な誤りに充ち満ちたいわば悪書だ。」
「無いものとして無視し、そうして進んで破棄して頂ければ幸いだ」と書いています。
しかしながら、漱石の漢詩世界への憧憬に満ちた旧著は、
戦後すぐの荒廃した時代に、多くの人々の心を潤したものと思われます。
巣鴨プリズンに収監されていた漱石門下生・赤木桁平(あかぎこうへい・本名:池崎忠孝)
から松岡に送られた手紙には、
「近来こんな気持ちのよい本を読んだことはなく、実に感激し、
また陶然として、先生(漱石)その人の心情にふれた。心から君に感謝する。」
と書かれています(注:2)。
松岡は、昭和9(1934)年という彼の作家人生の早い時期に、
「先生が亡くなられて(中略)、その間の事については、多少私に語るべき義務と責任があるやうに思ふ。」
と述べています(注:3)。その義務と責任は80点にも及ぶ漱石関連の作品によって果たされました。
最晩年の門下生として、長女の夫として、
松岡は二重の関係で夏目漱石とつながり、生涯を通じて向き合ってきたのです。
(越後の哲学者 松岡譲 その5に続く)
注:
1 松岡譲『夏目漱石 文學読本 春夏の巻』第一書房 1936年
2 松岡譲「「明暗」の原稿その他」永井保 編『池崎忠孝』池崎忠孝追悼録刊行会 1962年
3 松岡譲『漱石先生』岩波書店 1934年