漱石山房記念館では、ボランティアガイドが漱石の書斎の再現展示室の展示解説を行っていましたが、
現在は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、休止しています。
そこで、この吾輩ブログではボランティアガイドによるレポートをお届けしてまいります。
長く続くコロナ禍のおかげで、自宅で過ごす時間が増えました。
ぽっかりと空いた時間にふと、遠くなった自分が思い出されます。
郷愁に誘われる、というのでしょうか。懐かしい日々が蘇ってきます。
漱石の作品「永日小品」の「紀元節」という本当に短い文章が好きです。
読まれた方も多いかと思います。書かれているのは学校での一コマです。
私はこの作品にしっとりとした優しさを感じます。
小学生も学年が上がると先生にあだ名をつけたりしてからかうことを覚えます。
時には馬鹿にもします。私もそうでした。
先生のちょっとした癖をクラスメイトと笑ったりしたものです。
そんな教室の雰囲気は漱石の明治時代も、私が育った昭和時代も、
そして、おそらくは令和の時代も変わらないのではないでしょうか。
子どもはいつの時代も大人をからかうものです。
やがて、その子は大人になり、かつての自分を思い出し、若かったことを恥じる時があります。
既に漱石の年齢を越えた私ですが、顔から火が出るような思い出は多く、
また、いまだに恥の上塗りを続けています。
「紀元節」の中で福田先生は、黒板に「記元節」と書いたのを
「後から三番目の机の中程にいた小供」に「紀元節」と直されたことに気付きます。
そして、「誰か記を紀と直した様だが、記と書いても好いんですよ」と言うのです。
それは、記を紀と直した小供に謙虚ということを教えたように思えます。
福田先生も謙虚であったことがわかります。
知恵をひけらかすことの恥ずかしさをやんわりと諭した
(実際には福田先生は諭してはいないのでしょうが……)、
爺むさい福田先生は、その小供が大人になってもなお、
「思い出すと下等な心持がしてならない」という人間に育てたのでした。
目立つことなく、それでいて、心のどこかに確かに残るもの。
福田先生を思うと、過去の恥ずかしい自分が浮かんできます。
「紀元節」はさりげなく、懐かしい日々を思い出しながら自分と向き合うことを教えてくれます。
※引用文の表記は新潮文庫『文鳥・夢十夜』(昭和51年初版、平成14年改版)
に収録されている「永日小品」に従いました。
(漱石山房記念館ボランティア:井上公子)