本日9月19日は、俳人・正岡子規の命日(へちま忌)です。
今回は、漱石と子規が交流を始めた頃についてご紹介します。
正岡子規(本名・常規) 俳人・歌人
慶応3年(1867)9月17日(新暦10月14日)~明治35年(1902)9月19日
伊予国温泉郡藤原新町(現在の愛媛県松山市)出身。
帝国大学中退後、日本新聞社に入社。「獺祭書屋俳話」などの俳論を発表。明治28年(1895)、日清戦争の従軍記者となるが、病を得て、帰途松山の漱石の仮寓「愚陀佛庵」に52日間身を寄せた。『ホトトギス』や根岸短歌会を主宰。短歌・俳句の革新運動を推進し、写生文という表現スタイルを確立。没後、『竹の里歌』『仰臥漫録』『筆まかせ』などが刊行された。
漱石と子規との親交は、ふたりが第一高等中学校本科に進学してしばらくしてから、明治22年(1889)1月頃より始まります。同年5月、子規は突然喀血し、病床にありながら50句ほどの俳句を作り、その際に中国の故事「鳴いて血を吐くほととぎす」から「ほととぎす」を意味する「子規」と号しました。
同じ頃、子規は自作の文集「七艸集」(ななくさしゅう)を完成させ、友人に回覧していました。金之助は病床の子規を見舞い、「七艸集」に批評をつけて返却する際に初めて「漱石」の号を使用します。同い年の「金之助」と「常規」は、ほぼ同時期に自らを「漱石」「子規」と号したのでした。
漱石山房記念館の通常展示では、正岡子規をはじめ、漱石に関係する人物51名を「漱石を取り巻く人々」としてパネルでご紹介しています。