巡回展「橋口五葉のデザイン世界」が、2025年4月5日より足利市立美術館(栃木県)を皮切りに、
府中市美術館(東京都)、碧南市藤井達吉現代美術館(愛知県)、久留米市美術館/石橋正二郎記念館(福岡県)と
12月まで巡回で開催されます。そしてこの巡回展には当館所蔵の資料も展示されます。
橋口五葉(1881-1921)本名清は、明治大正期を代表する装丁家であり新版画の先駆者です。
夏目漱石の初の小説『吾輩は猫である』上編の装丁からはじまり、多くの漱石本を手掛けています。
そんな漱石と五葉が出会ったきっかけは何だったのでしょうか。
それは橋口五葉の兄、貢が漱石の第五高等学校時代の教え子だったことです。
貢は東京帝国大学へ進み、漱石はイギリスへ留学したため一時疎遠になっていたようですが、
帰国後交流が再開し、絵はがきでのやり取りを多く行っています。
そんなやり取りを行っている中で
「・・・又或る時、私が廣い砂漠の夕暮の靑色の沖に
ぼんやりとほの白く駱駝が立つてゐる繪葉書を畫いて送つたところ、
偶然その夏目先生の御宅に來てをられた高濱虚子氏がそれを見て、
なかゝゝ旨いと感心し、誰が畫いたのかと尋ねられ、私(貢)が畫いたのだといふと、
是非ホトゝギスへ口繪を畫いて貰ひたいといふので、私のところへ来られたことがあった。
實はその時私も突然だつたし、又私は何も繪を専門にやるのでもないしするので、
どうもそれはといつて辭退し、私の弟の當時美術學校へ通つてゐた五葉を紹介し、
これは繪を専門にやるものだから、今は未だ無名であるが、
どうか引き立ててやつて貰ひたいと頼んで、ホトゝギスへは五葉が口繪を畫くことになつたこともある。・・・」
(橋口貢「夏目先生の畫と書」『漱石全集 月報第11号』(昭和4年)より抜粋)
とあります。貢が漱石に送った絵はがきがきっかけで、
高濱虚子が主宰する『ホトトギス』に五葉の挿絵が掲載されることが決まり、
明治37(1904)年10月10日発行の『ホトトギス』に掲載されました。

橋口貢宛漱石自筆水彩絵はがき(明治37年10月2日付)
その前の10月2日の漱石から貢に宛てた絵はがきに
「昨日はほとゝぎすの挿画御送被下難有存候 早速虚子の所へやり申候御多忙中嘸(さぞ)かし御迷惑の事と存候
あの画はほとゝぎ(す欠)流の画に候明星流に無之面白く存候・・・・」
と五葉の描いた口絵が漱石を通して虚子に届けられたことがわかります。
一般的に兄が上手いからと言って、弟が上手いとは限りません。
しかし、橋口家の兄弟は、父が書画を好み少年時代より美術に関して
見ること、談ずること、絵を描くことに熱心であり長けていたようです。
こののち、五葉は今年発表120年を迎える漱石の小説家デビュー作『吾輩は猫である』
の装丁から『虞美人草』『草合』『三四郎』『彼岸過迄』などの多くの装丁を手がけました。
とても美しくこだわり抜かれたデザインです。
また、漱石のほかにも門下生など日本近代文学を代表する作家の装丁を手がけました。
五葉は、兄が漱石の教え子であったことから漱石と知り合い、
雑誌の挿絵を描き、漱石の装丁を手掛けるまでにその芸術性を買われ、
芸術家として歩みはじめました。
漱石と五葉の出会いをみると、きっかけというのは不思議な偶然からできていると思いました。
参考文献:岩切信一郎『橋口五葉の装釘本』沖積舎、1980年
(学芸員 嘉山)