漱石山房記念館2階資料展示室では令和5年7月9日(日)まで、
《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造を開催しています。
みどころ(その1)から続きます。
明治43(1910)年8月18日、台風で不通になっていたところようやく全通した東海道線で、
東京朝日新聞社から派遣された坂元雪鳥(せっちょう)と、
長与胃腸病院の森成麟造(もりなり・りんぞう)医師が菊屋旅館に到着します。
避暑地の子どもたちを見舞っていた妻の鏡子も一日遅れで到着します。
寝たきりの漱石は、床の位置を変えてもらい花火を楽しみ、
女中を交えて笑い話をするなど数日間は和やかに過ぎました。
そして「忘るべからざる二十四日」が来ます。
夜八時半ごろ、500グラム吐血した漱石は、脈拍が止まり人事不省に陥りました。
この様子は、雪鳥の「修善寺日記」(『國學』第8輯「坂元雪鳥先生追悼号」
昭和13(1938)年7月、日本大学国文学会発行)に詳しく記され、
その惨憺たる様子の記述は小宮豊隆の『夏目漱石』(昭和13(1938)年7月刊行)にも引用されています。
少し長くなりますが、以下に雪鳥「修善寺日記」の8月24日の記録を抜粋します。
坂元雪鳥「修善寺日記」 廿四日
「恐ろしかつた廿四日、午前から先生の顔色が非常に悪い。
衰弱の色顕著になつた。口數を利かれない。
胃部が著しく膨満の体である。午後胃腸病院の杉本氏が来た。
六時過ぎだつたのか診察をした。別室に退いてから大ニ楽観して居る。
予は嬉しさに堪へず直ちに社へ電報を発して
「杉本氏診察の結果大に人意を強うせり」と知らせた。
杉本、森成両氏にウヰスキイを勧めて談して居ると
丁度八時三十分だつたらうと思ふ頃
中庭を隔てた二階の病室の欄干の處へ夫人が現れて
「森成さん早く早く」と手を拍き乍ら悲鳴を揚げられた。
三人は何事とも解せず宙を飛んで行くと‼
先生は今しも唾壺(夫は夫人が右手に先生を抱き左手に持つて居られた)
に一杯血を吐いて居られる。
真蒼になつた先生は眼を瞎いて瞳孔の散大したのが分る。
毛髪も髯も真黒に見える中に生々しい
鮮血がダクダクと流れ出て居る。
予は直ぐ椽側から金盥を持つて来て唾壺と更へた。
森成氏は既に注射の用意をしてる
杉本氏は其便々たる腹を波立たせてシカと先生の手を握つて
先生の顔と森成氏の手許とを見詰めて居る。
金盥には又新たに多量の塊血が出た。
新しい雞の肝臓の様である。
見ると血は夫人の肩を越して三四尺も飛んで居る。
最初我慢に我慢されたのが迸つたのであらう。
汚れたる座蒲團を椽に捨て先生の口辺を拭ひ夫人に着換を勧めて立たせる。
シツカリなさいと励ます。
夫人は森成さん、杉本さんと切な相な声を絞つて居られる。
大丈夫ですから更へていらつしやいと
予は其紅に染んだ夫人の浴衣を見るに忍びず立たしめる。
注射は猶予なく初まつた。
此時既に先生は虚脱に陥いりかけて人事不省だつたのである。」
日本近代文学館が所蔵するこの原稿は、現在、本展で展示しています。
時を経てなお力強い、気迫のこもった雪鳥直筆「修善寺日記」をぜひ会場でご覧ください。
次回のみどころ(その3)は、主治医として治療にあたった森成麟造医師をご紹介します。