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《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造のみどころ(その3)

漱石山房記念館2階資料展示室では令和5年7月9日(日)まで、
《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造を開催しています。
みどころ(その2)から続きます。

森成麟造

明治43(1910)年8月24日の大患の様子は、
坂元雪鳥「修善寺日記」のほか、
主治医・森成麟造(もりなり・りんぞう)による「漱石さんの思出」と題する回想録にも記されています。
この記録は、昭和7(1932)年から翌年にかけて全11回にわたり
上越の俳句同人誌『久比岐』に連載されました。
森成は明治17(1884)年に東頸城郡菱里村真荻平(現・上越市)に生まれました。
仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)を卒業後、東京麹町の長与胃腸病院に勤務します。
「漱石さんの思出」には、仙台医学専門学校在学時にホトトギスに掲載された
「吾輩は猫である」を読み漱石の愛読者となり、
長与胃腸病院では大の漱石党として知られ、病院機関雑誌『春風』に
「吾輩は猫である」を模した「お草履日記」を連載していたことも記されています。
漱石体調悪化の報を受けて修善寺に向かう『久比岐』連載第7回目以降の記事は、
上越郷土研究会発行の『頸城文化』第8号(昭和30(1955)年)に再掲されました。
大患の記録となるこの部分は、
『漱石全集』(第2次)月報第20号(2003年)、
十川信介編集の岩波文庫『漱石追想』(2016年)にも収録されています。
以下に「漱石さんの思出」の8月24日の記録を抜粋します。

森成麟造「漱石さんの思出」(『頸城文化 8』(1955年))抜粋
(前略)
サア大変!万事休矣!
私は胸中掻き挘らるる如き苦悶と尻が落ち付かない様な不安とに襲はれ
全身名状すべからざる一種の圧迫を感じた
此現象は畢竟自分が大狼狽して居る結果で
此危急の際僕迄が狼狽しては駄目だと悟つた瞬間
反撥的に度胸がクソ落ち付きに落ち付き払つた。
目前に横たはる臘細工の病体を冷静に物質視すると
其ドツカと胡座をかいて猛然ズプリズブリと注射を施した。
コレデモカ?コレデモカ!と力を籠めて注射を続けた。
病人の腕を握つて検脈して居られた杉本さんは
突然「脈が出て来た!!」と狂喜して叫ばれた。
成程小さい脈が底の方に幽かに波打つて居るのではないか。
此の時の喜び!此時の気持!
只々両眼から涙がホロリホロリと澪れ出るのみである。
(中略)
其後は私は病人に関する一切を引受けた。
看護婦が来着する迄の二日間は全く無我夢中で働いた。
病人に冷水を飲ますべく階下へ降りて
僅か二合入の土瓶を持つて十二三段の階段を登る事さへ頗る苦痛となった。
二三段登つては休み四五段登つては小憩しなければならない程呼吸促迫し
心悸元進し迚も胸苦しかつた。
斯ンナ事で意気地がないと切歯しても事実是が動かない
神身全く綿の如く疲れ果てゝ時々眩暈さへ覚ゆるに至つた。
(後略)

この時漱石42歳、森成26歳でした。
憧れの文豪の生命の危機に直面した若き医師の使命感がうかがえます。
本展には、この「漱石さんの思出」直筆原稿も展示しています。
坂元雪鳥の「修善寺日記」直筆原稿の隣に展示していますので、
ぜひ会場で漱石を支えた人たちの息遣いに触れてください。

次回のみどころ(その4)は、大患後も続いた漱石と森成の交流についてお伝えします。

テーマ:漱石について    2023年6月14日
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