漱石山房記念館2階資料展示室では令和5年7月9日(日)まで、
《通常展》テーマ展示 漱石・修善寺の大患と主治医・森成麟造を開催しています。
みどころ(その3)から続きます。
森成の処置により一命を取りとめた漱石は、
帰京に堪えられる体に回復するまで約1か月半もの間、
修善寺菊屋旅館に滞在しました。
この間、森成は同宿して漱石の看護に努めます。
漱石は大量吐血の4日後、まだ体も動かないうちから
「豆腐や雁もどきが食べたい」と言い、その2日後、
ようやく手が動くようになると「瓜もみか何かを」食べたいと言って鏡子に笑われます。
吐血から三週間は鏡子が鶏肉を湯煎して作るスープや重湯、葛湯など、
液状のものしか食べさせてもらえず、献立を考えることを楽しみに過ごしてきた漱石ですが、
9月13日についに固形物が許可されます。
漱石の日記には「四時頃突然ビスケツト一個を森成さんが食はしてくれる。
嬉しい事限なし」と書かれています。
この頃から一日に半片のビスケットを食べることを許可されますが、
寝たきりで食べ物に執着していた漱石はそれでは足りず、
重湯をビスケットに変えるよう森成に談判します。
しかし森成は認めません。
9月16日の漱石の日記には「ビスケツトに更へる事を談判中々聞いてくれず」とあります。
鏡子が野間真綱に宛てた9月27日消印の手紙にも
「ヒスケツトを一枚ふやしてくれ 森成さんはいやにしみつたれだ
これはかりの物ををしむとか おもゆなんぞまづい物食へさせるなら食べてやらないからいひとか
しきりに食物の小言を云て居ります」と書かれていますので、
森成が漱石の要望に毅然と対処して、病身の悪化を防いでいたことがわかります
(書簡は神奈川近代文学館所蔵、本展では写真で展示)。
森成は憎まれ役になりながらも優しい心遣いを忘れませんでした。
漱石の9月19日の日記には「花が凋むと裏の山から誰かゞ取つて来てくれる。
其時は森成さんが大抵一所である。」と書かれています。
10月11日、寝たまま釣台で運ばれて汽車で帰京する漱石の枕元の信玄袋に
野菊の枝を差し込んであげたのも森成でした。
漱石は帰京後、長与胃腸病院に再入院しますが、
そこで森成が自身の看護のために恩師・長与院長の死に立ち会えなかったこと、
漱石も懇意にしていた院長の死にショックを受けぬよう、
訃報の新聞を遠ざけていたことを知ります。
漱石は病室にシガレットケースを取り寄せ、
直筆の下書き「修善寺にて篤き看護をうけたる森成国手に謝す 漱石」
「朝寒も夜寒も人の情けかな」を彫らせて、お礼の品として森成に贈りました。
森成は生涯このシガレットケースを愛用しました。
展示会場には、このシガレットケースと外箱を一緒に展示しています(ともに個人蔵)。
双方保存状態が良く、大切に扱われてきたことが分かります。
二人の深い関係を物語る貴重な資料を、ぜひ会場でご覧ください。
テーマ:漱石について 2023年6月20日