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  • 「夏目漱石と漱石山房 其の一」展に展示中の弓削田精一宛書簡の謎


    写真は、4月21日までの「夏目漱石と漱石山房 其の一」展で展示している、
    漱石から東京朝日新聞社政治部長の弓削田精一宛書簡(明治44(1911)年10月4日)の一部です。
    この年の9月に朝日新聞社内で「文藝欄」に載った漱石の門下生森田草平の小説「自叙伝」をめぐって、
    弓削田と主筆の池辺三山が対立し、池辺三山が退職しました。
    池辺は、漱石を朝日新聞社に入社させた人物です。支援者である池辺の辞職にいたる経緯を知り、
    「文藝欄」の編集を担っていた漱石が、責任を感じて弓削田に宛てた書簡です。
    手紙には
    旁君に逢つて篤と話がしたい。平生ならすぐ車を飛ばす筈だが今云ふ通り毎日ガーゼを
    取り換えてゐる位だから車に乗る訳には行かない。(中略)まことに遠方といひ御繁忙の君に
    早稲田の奥迄といふのは申かねた次第だが何時でも繰合わせのついた時来てくれまいか。

    と書かれています。

    先日、当館のボランティアスタッフとの会話の中で、この手紙を受け取った弓削田は、
    その後山房を訪れ、漱石に会ったのだろうかと話題になりました。
    『増補改訂 漱石研究年表』によると、
    「10月5日以後(推定)弓削田精一が訪ねて来て、(中略)紛争について話し合う。」とあります。
    10月24日、漱石が東京朝日新聞社の評議会に病気を押して出席。11月1日に辞表を提出するが、
    池辺や弓削田らに再考を求められる。11月11日には、弓削田が東京から大阪朝日新聞社に籍を移す
    ことになったと記されています。
    このように、池辺の退職をきっかけとした漱石の辞意表明をめぐって
    慌ただしい動きがあったことが窺えます。

    『定本 漱石全集 第20巻 日記・断片下』明治44年11月20日条に
    十八日に弓削田が来て考え直せといふから辞表を撤回したら今朝池辺から夫を送り届けて呉れた。
    との記載があります。弓削田は実際に早稲田の漱石山房を訪れ、漱石に面会していることがわかります。
    そして、漱石の辞表を送り返してくれたのは朝日新聞社の客員となった池辺でした。
    「文藝欄」は廃止になってしまいましたが、弓削田・池辺の両人によって漱石は
    慰留されたということになります。

    展示中の書簡の横には、手紙の全文の翻刻パネルも設置しています。
    本展は会期終了間近となりました。
    ぜひ会場に足をお運びいただけましたら幸いです。
    また、土日祝日は、当館ボランティアスタッフによる書斎の再現展示室の解説を行っております。
    お話を聞きながら展示をご覧いただくと、新たな発見があるかもしれません。
    ボランティアスタッフの解説にも耳を傾けていただけましたら、嬉しいです。
    『増補改訂 漱石研究年表』『定本 漱石全集』は、地下1階の図書室で閲覧できます。
    こちらもぜひご利用ください。

    〈4月16日追記〉

    テーマ:漱石について    
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