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吾輩ブログ 一覧

  • 新しい絵はがきと展示関連書籍を販売しています

    漱石山房記念館のミュージアムショップでは、
    販売開始直後に新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のため、
    臨時休館となってしまい、お知らせができませんでしたが、
    2月から3種類の新しい絵はがきを販売しています。

    吾輩は猫である下編絵はがき

    夏目漱石『吾輩ハ猫デアル』下編 絵はがき(価格:60円税込)
    明治40(1907)年 初版本下編カバー 橋口五葉装丁より

    タンポポの横に座る猫がかわいらしく印象的な、
    『吾輩ハ猫デアル』下編のカバーを絵はがきにしました。
    『行人』までの漱石作品の装丁を手がけた橋口五葉の手によるものです。

    猫の死亡通知絵はがき

    「猫の死亡通知」絵はがき(価格:60円税込)
    夏目金之助 松根豊次郎(東洋城)宛てはがき 明治41(1908)年9月14日付より

    漱石が門下生で俳人の松根東洋城に宛てたもので、
    「吾輩は猫である」のモデルとなった猫の死亡を知らせる内容です。
    病気療養中だった猫が裏の物置のへっつい(かまど)の上で死んでいた、
    車屋に頼み蜜柑箱に納めて裏庭に埋葬した、
    「三四郎」執筆中につき会葬には及ばない、ということが書かれています。

    「道草」絵はがき

    夏目漱石「道草」草稿 絵はがき(価格:60円税込)

    大正4(1915)年6月から9月まで『東京朝日新聞』と
    『大阪朝日新聞』に連載された「道草」草稿のなかの1枚です。
    新宿区では「道草」の草稿を67枚所有しており、
    作品の成立過程などを知る上で貴重な資料となっています。
    万年筆のインクの痕や余白のメモなど、
    漱石の執筆の様子を垣間見ることができます。

    また、テーマ展示「越後の哲学者 松岡譲―人と作品―」の開催にあわせて
    関連書籍の販売もしています。

    松岡譲展関連書籍

    松岡譲の『漱石の印税帖』(文春文庫/759円税込)は、
    漱石の長女筆子と結婚し、夏目家に7年間同居した経験のある
    松岡ならではの随筆集です。
    また、漱石の妻で松岡の義母にあたる鏡子からの聞き取り集、
    『漱石の思い出』(文春文庫/748円税込)も、
    家族から見た漱石のありのままの姿が伝わってくる一冊です。

    現在、漱石山房記念館のミュージアムショップでは
    新型コロナウイルス感染症の感染防止のため、
    商品をお手に取ってご覧いただくことができませんが、
    気になる商品がありましたら、お気軽に受付へお声がけください。

    テーマ:お知らせ    
  • 松岡譲と津田青楓–描かれなかった耳疣(みみいぼ)の歴史–

    「越後の哲学者 松岡譲」展は6月16日にようやく開幕することができました。
    新型コロナウイルス感染予防対策として、手指消毒、検温、入場制限等、
    ご来館の皆様にはご負担をおかけしておりますが、
    ご協力のほど、どうぞよろしくお願いいたします。

    今回は開催中の松岡展から、
    今年(2020年)生誕140年を迎えた画家・津田青楓関係資料に注目したいと思います。
    津田青楓は、夏目漱石の木曜会に出席し、
    漱石作品の『道草』を装幀した画家として知られています。
    青楓は、漱石没後も未亡人や子女に油絵を教えるなどして、
    夏目家の人々と親しく交友しました。
    漱石の長女・夏目筆子と結婚した松岡譲とは、
    大正13(1924)年に京都で開催した漱石遺墨会や、
    昭和4(1929)年の『漱石寫眞帖』の刊行、漱石忌など、
    漱石追悼の機会を共にし、折々の手紙で近況を報告しあう親密な友人関係にありました。
    展示中の松岡譲宛津田青楓書簡

    昭和41(1966)年、86歳の青楓は、75歳の松岡に肖像画《譲上人座像》を送っています。
    その後、松岡に宛てた手紙の中で、漱石の宗教観に関する文章を書くため
    松岡の著作『ああ漱石山房』の持ち合わせがあれば送ってほしいと書いています。
    松岡はその返信の手紙に、
    「…処で一昨年でしたか私の顔を描いて下さりましたね。
    私は両耳の耳の穴の前のところに人にはない、贅肉の疣が揃ってシンソリカルにあるんです。
    昔それをテーマに「耳疣の歴史」という自伝めいた短編を書いた時、
    寺田寅彦さんから大変ほめて頂いたことがあります。
    ところがあなたの描いて下さった貴方の所謂「譲上人像」にはその大事なトレードマークがないのです。
    いつかこれを一寸かき入れてくださるまいか。欠点即ち特徴ですから。」(注:1)と書きました。

    この手紙を受け取った青楓は、
    「…偖(さて)お手紙で思い出しました昔譲上人像書いたことがありましたね、
    耳に左右にシンメトリに疣があるとのこと、若し手数をいとはず送って頂けば、
    瘤をくっつけるなり又文章で書き入れしておいてもよろしい。」と返信しました。
    しかし、現存する《譲上人座像》の耳には疣が描かれていません。
    この手紙が届いた4か月後に松岡は帰らぬ人となり、疣が描かれる機会は失われてしまったのです。

    「耳疣の歴史」は大正11(1922)年『新小説』に発表され、
    その一年後、松岡の記念すべき第一著作集『九官鳥』に収められました。
    『九官鳥』の装幀は青楓が行っています。
    「耳疣の歴史」は、二人の交友を加味して松岡が亡くなるまで紡がれていたのですね。
    現在開催中の「越後の哲学者 松岡譲‐人と作品‐」(~9月6日(日)まで)では、
    このいきさつを示す青楓直筆の手紙や青楓作の《譲上人座像》(写真パネル)をご覧いただけます。
    皆様のご来館をお待ちしています。

    注1:津田青楓『春秋九十五年 限定版』求龍堂、1973年、41頁参照。
    ※引用文の表記は出典のままとしました。

    テーマ:その他    
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