漱石山房記念館2階資料展示室では令和5年4月9日(日)まで、
《通常展》テーマ展示 ああ漱石山房 を開催しています。
「ああ漱石山房」という印象的なフレーズは、
夏目漱石の長女・筆子と結婚した松岡譲(1891-1969)がその晩年、エッセイ等によく使用したものです。
漱石没後50年を迎えた昭和41(1966)年の『サンケイ新聞』12月8日の夕刊に、
松岡譲による「ああ、漱石山房」という署名記事が掲載され、
その翌年5月、朝日新聞社から『ああ漱石山房』というエッセイ集が出版されました。
「漱石山房」とは、夏目漱石が明治40(1907)年9月から、亡くなるまでの9年間生活した、
牛込区早稲田南町7(現 新宿区早稲田南町7)の借家にあった、それぞれ10畳の書斎と客間を指します。
漱石は、明治36(1903)年1月、ロンドン留学から帰国した後、
漱石山房に住むまで、2度ほど転居しています。
最初は鏡子夫人の実家の中根家に同居した後、
同年3月から駒込千駄木町(現文京区向丘2)の通称「猫の家」に住みました。
森鷗外もかつて住んだ家として知られ、小説「道草」の主人公・健三の家のモデルとされています。
この「猫の家」は現在、愛知県の博物館明治村に保存移築されています。
次に、明治39(1906)年12月、駒込西片町(現文京区西片町)に転居しました。
ここには短期間しか住みませんでしたが、のちに漱石を慕う魯迅が住み、「伍舎」と名付けています。
「趣味の遺伝」の主人公の家で、「三四郎」の広田先生の引っ越し先のモデルとされています。
漱石はここまで自らの書斎を「漾虚碧堂」と名付けていたと思われます。
そして、明治40(1907)年9月29日、夏目漱石は早稲田南町7の借家に賃借人として入居しました。
「漱石山房」の誕生です。
差配人は町医者の中山正之祐、家の所有者は歌人で病院長の阿部龍夫でした。
敷地面積340坪の中央に建つ60坪の平屋建ての和洋折衷建築。
部屋数は7室で家賃は35円でした。
この住宅について、松岡譲は「ああ漱石山房」の中で
「この家は、元来、三浦篤次郎というアメリカがえりが、明治三十年頃に建てた家だそうで
当時の文化住宅とでもいうのであろう、一風変った家であった。
その後、銀行の支店長が住んでいたのが阿部氏の手に移り」と書いています。
三浦篤次郎という人物については、今まであまり情報がありませんでしたが、
昨年お亡くなりになった当館ボランティアの興津維信さんの調査によって、
福島県須賀川出身の自由民権家で、福島県議になりながら2度ほど渡米し、
明治29(1896)年には愛国生命の取締役になっていたということがわかりました。
(後編へつづく)