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吾輩ブログ 一覧

  • 博物館実習生によるレポート5 漱石公園をご紹介します

    新宿区立新宿歴史博物館では、
    学芸員資格の取得を目指す博物館実習生を受け入れています。
    令和2年度は5人の実習生が参加して、10日間の博物館実習が行われました。
    新宿歴史博物館内だけでなく、漱石山房記念館でも実習を行いましたので、
    実習生による漱石山房記念館のレポートをお届けします。

    本日は漱石公園をご紹介します。
    漱石公園は漱石山房記念館に隣接されており、
    記念館を出て左にあるスロープを下ると、
    夏目漱石の胸像がある入口が見えてきます。

    夏目漱石胸像

    中に入ると、都心の市街地にも関わらず自然を感じることができます。
    漱石公園の中央には『吾輩は猫である』のモデルとなった「福猫」や文鳥など、
    夏目家で飼われていた生き物たちを供養するために建てられた「猫の墓(猫塚)」があります。

    猫の墓

    漱石公園には桜やアジサイなど、鮮やかに咲く花があり、
    花が咲く季節にはとても見応えがあります。
    しかし、バショウやサルスベリ、ハゲイトウといった
    夏目漱石の作品内に出てくる様々な植物も見ものです。
    植物のネームプレートには、
    夏目漱石がどの作品でその植物を登場させたかを見られるものもあり、
    漱石のことを知ることができます。

    漱石公園

    植物は漱石公園内の他にも、漱石山房記念館の入り口脇にも植えられており、
    そこにもザクロや柿などの漱石の作品に登場した植物が植えられています。
    ぜひご利用ください。
    (博物館実習生:保屋野)

    テーマ:その他    
  • 博物館実習生によるレポート4 図書室について

    新宿区立新宿歴史博物館では、
    学芸員資格の取得を目指す博物館実習生を受け入れています。
    令和2年度は5人の実習生が参加して、10日間の博物館実習が行われました。
    新宿歴史博物館内だけでなく、漱石山房記念館でも実習を行いましたので、
    実習生による漱石山房記念館のレポートをお届けします。

    本日は漱石山房記念館の地下1階にある、図書室についてご紹介します。
    漱石作品はもちろん関連図書も豊富で、なんと約3500冊もの図書があります。
    閲覧のみで貸出はしていませんが、コピーを取ることができます。

    図書室入口

    図書室内の様子です。棚の上から下まで本がずらりと並んでいます。
    室内は明るく、開放的な造りなのも魅力です。
    閲覧スペースがあるので、落ち着いて本を読むこともできます。
    手の届かない上段の本は、職員に声をかけてお取りくださいね。

    図書室内風景

    こちらは漱石作品の初版本、ではなくその復刻版です。
    『名著復刻 漱石文学館』というシリーズで刊行されました。
    つい手に取りたくなるような綺麗な装丁に、
    実際に触れることが出来るのは復刻版ならではです。
    ぜひ手に取って読んでみてください。
    本物の初版本の一部は2階の常設展示に展示しています。

    名著復刻漱石文学館

    図書室の外には「新宿区立図書館蔵書検索システムOPAC」と
    「漱石山房記念館情報検索システム」があります。
    「OPAC」では館内図書室の蔵書検索ができます。

    OPAC

    「漱石山房記念館情報検索システム」は新宿区の所蔵資料だけでなく、
    全国の漱石関連資料を調べることもできます。
    他にも「漱石事典」では漱石に関する豆知識や、
    作品の解説なども見ることができます。
    こちらでしか利用できないシステムなので、
    訪れた時にはぜひ利用してみてください。

    漱石山房記念館情報検索システム
    (博物館実習生:和田)

    テーマ:その他    
  • 博物館実習生によるレポート3 「あの言葉を持ち帰りたい」

    新宿区立新宿歴史博物館では、
    学芸員資格の取得を目指す博物館実習生を受け入れています。
    令和2年度は5人の実習生が参加して、10日間の博物館実習が行われました。
    新宿歴史博物館内だけでなく、漱石山房記念館でも実習を行いましたので、
    実習生による漱石山房記念館のレポートをお届けします。

    漱石山房記念館の二階では、漱石が残した言葉をパネルで展示しています。
    漱石の言葉展示
    展示をご覧になったお客様から
    「あの言葉を持ち帰りたい」というご意見に応えて作られたのが、
    現在ミュージアムショップに並べられている、活版印刷メモ帳「夢十夜」です。

    活版印刷メモ帳

    メモ帳を作るにあたってどの言葉を載せたらいいか、
    職員皆で話し合いや投票を行い、選ばれたのが「夢十夜」のこの一文でした。

    夢十夜パネル

    「百年待っていてください」という素敵な言葉を持ち帰っていただくだけでなく、
    その展示の一部を持ち帰っていただきたい、という職員の思いも込められています。

    記念館のオリジナルグッズには色々なこだわりが詰まっています。
    例えばショップに並べているミニトート、実は最初、製作会社から何版か提案がありました。

    ミニトート試作品

    しかし『吾輩ハ猫デアル』の初版本の色味にこだわりたいという思いから、
    今のミニトートが生まれました。

    ミニトート完成品

    何気なく並べられているグッズたちは、こうした思いが詰まった品々なのです。
    皆さまもご来館の際には、漱石山房記念館の展示品を「お持ち帰り」になってはいかがでしょう。
    (博物館実習生:李)

    テーマ:その他    
  • 博物館実習生によるレポート2 「記憶の再現」へのこだわり

    新宿区立新宿歴史博物館では、
    学芸員資格の取得を目指す博物館実習生を受け入れています。
    令和2年度は5人の実習生が参加して、10日間の博物館実習が行われています。
    新宿歴史博物館内だけでなく、漱石山房記念館でも実習を行いましたので、
    実習生による漱石山房記念館のレポートをお届けします。

    はじめまして、博物館実習に参加させて頂きました、熊倉です。
    この記念館の目玉といったらやはり、漱石山房書斎の再現展示でしょう。
    写真と見比べてみても、本当にそっくりで、漱石の息遣いが聞こえてくるようです。

    実はこの再現には、想像を超えるこだわりが隠されていました。
    今回はそんな「記憶の再現」にまつわるこだわりポイントを2つ、ご紹介させて頂きます。

    1.八畳・十畳問題
    漱石山房は、漱石自身の記述や絵画、
    門下生の松岡譲や芥川龍之介らの記述に基づき再現されています。
    しかし、彼らの記述には食い違う部分があり、
    書斎・客間の広さも8畳と10畳の二説があり、はっきりしませんでした。
    そこで使われたのが、客間にあった安井曾太郎の洋画「麓の町」です。
    この絵画の寸法と、昭和3(1928)年に撮影されたこちらの客間の写真に写る同じ絵画とを比べ、
    書斎・客間とも10畳であることをつきとめました。

    昭和3年の漱石山房

    漱石が最晩年を過ごした書斎・客間は、このように再現されたのです。

    2.壁紙の紋様
    室内の壁紙についても、漱石自身は壁紙は白であると述べており、はっきりしませんでした。
    そこで、この壁紙を作成したと思われる職人・栗山弘三郎の証言から
    「銀杏鶴」紋の壁紙として再現されました。

    作品を通してしか出会えなかった漱石の姿を、眼前に見せてくれるこの再現展示。
    みなさまも漱石山房記念館で、漱石と同じ景色を見てみてはいかがでしょうか?

    「記憶して下さい。私はこんな風にして生きて来たのです。」
    ―「こころ」大正3年

    早稲田南町の書斎に於ける漱石

    漱石山房記念館再現展示室

    (博物館実習生:熊倉)

    テーマ:その他    
  • 博物館実習生によるレポート1 松岡譲と火焔型土器、オリンピック

    新宿区立新宿歴史博物館では、
    学芸員資格の取得を目指す博物館実習生を受け入れています。
    令和2年度は5人の実習生が参加して、10日間の博物館実習が行われています。
    新宿歴史博物館内だけでなく、漱石山房記念館でも実習を行いましたので、
    実習生による漱石山房記念館のレポートをお届けします。

    今回は、現在行なわれているテーマ展示
    「越後の哲学者 松岡譲 ―人と作品―」についてご紹介します。
    「夏目漱石の門下生」「漱石に越後の哲学者と評された」など
    夏目漱石との関わりの中で語られることが多い松岡ですが、
    今回は松岡と彼の故郷長岡で出土した火焔型土器、
    そしてオリンピックとの意外なつながりについて紹介します。

    松岡譲の生涯
    松岡譲は明治24(1891)年に新潟県古志郡石坂村(現・長岡市)で生まれました。
    生家である寺を継ぐことを期待されながらも文学の道に進み、
    約50年にわたり作家として活動しました。
    重厚な長編小説や夏目漱石についての随筆など、500点近い著作を遺しています。

    松岡と火焔型土器、オリンピック
    晩年の松岡は、縄文時代の火焔型土器に強い関心を持っていました。
    長岡で発掘され、長岡科学博物館に展示されていた火焔型土器を鑑賞し、
    すっかり魅了された松岡は、友人らにチラシを配り、その魅力を伝えました。

    火焔土器

    さらに、自らテニス愛好者向けの雑誌を創刊するほどスポーツを愛好していた松岡は、
    東京オリンピックの聖火台のデザインを火焔型土器にする案を提言したそうです。
    他にも、当時の東京都知事に火焔型土器の模型を送り、
    大会事務総長に1時間にも及ぶプレゼンテーションを行うなど、精力的な活動を行なっていました。

    松岡の提案が1964年の東京オリンピックに取り入れられることはありませんでしたが、
    その思いは現代にも受け継がれています。
    松岡の出身地である長岡市が加盟する信濃川火焔街道連携協議会は
    今回開催予定の東京オリンピック・パラリンピックの聖火台に
    火焔型土器のデザインが採用されることを目指して活動をしています。

    越後の哲学者松岡譲展示風景

    参考文献:関口安義『評伝 松岡譲』小沢書店 1991年

    (博物館実習生:加納)

    テーマ:その他    
  • 新しい絵はがきと展示関連書籍を販売しています

    漱石山房記念館のミュージアムショップでは、
    販売開始直後に新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のため、
    臨時休館となってしまい、お知らせができませんでしたが、
    2月から3種類の新しい絵はがきを販売しています。

    吾輩は猫である下編絵はがき

    夏目漱石『吾輩ハ猫デアル』下編 絵はがき(価格:60円税込)
    明治40(1907)年 初版本下編カバー 橋口五葉装丁より

    タンポポの横に座る猫がかわいらしく印象的な、
    『吾輩ハ猫デアル』下編のカバーを絵はがきにしました。
    『行人』までの漱石作品の装丁を手がけた橋口五葉の手によるものです。

    猫の死亡通知絵はがき

    「猫の死亡通知」絵はがき(価格:60円税込)
    夏目金之助 松根豊次郎(東洋城)宛てはがき 明治41(1908)年9月14日付より

    漱石が門下生で俳人の松根東洋城に宛てたもので、
    「吾輩は猫である」のモデルとなった猫の死亡を知らせる内容です。
    病気療養中だった猫が裏の物置のへっつい(かまど)の上で死んでいた、
    車屋に頼み蜜柑箱に納めて裏庭に埋葬した、
    「三四郎」執筆中につき会葬には及ばない、ということが書かれています。

    「道草」絵はがき

    夏目漱石「道草」草稿 絵はがき(価格:60円税込)

    大正4(1915)年6月から9月まで『東京朝日新聞』と
    『大阪朝日新聞』に連載された「道草」草稿のなかの1枚です。
    新宿区では「道草」の草稿を67枚所有しており、
    作品の成立過程などを知る上で貴重な資料となっています。
    万年筆のインクの痕や余白のメモなど、
    漱石の執筆の様子を垣間見ることができます。

    また、テーマ展示「越後の哲学者 松岡譲―人と作品―」の開催にあわせて
    関連書籍の販売もしています。

    松岡譲展関連書籍

    松岡譲の『漱石の印税帖』(文春文庫/759円税込)は、
    漱石の長女筆子と結婚し、夏目家に7年間同居した経験のある
    松岡ならではの随筆集です。
    また、漱石の妻で松岡の義母にあたる鏡子からの聞き取り集、
    『漱石の思い出』(文春文庫/748円税込)も、
    家族から見た漱石のありのままの姿が伝わってくる一冊です。

    現在、漱石山房記念館のミュージアムショップでは
    新型コロナウイルス感染症の感染防止のため、
    商品をお手に取ってご覧いただくことができませんが、
    気になる商品がありましたら、お気軽に受付へお声がけください。

    テーマ:お知らせ    
  • 松岡譲と津田青楓–描かれなかった耳疣(みみいぼ)の歴史–

    「越後の哲学者 松岡譲」展は6月16日にようやく開幕することができました。
    新型コロナウイルス感染予防対策として、手指消毒、検温、入場制限等、
    ご来館の皆様にはご負担をおかけしておりますが、
    ご協力のほど、どうぞよろしくお願いいたします。

    今回は開催中の松岡展から、
    今年(2020年)生誕140年を迎えた画家・津田青楓関係資料に注目したいと思います。
    津田青楓は、夏目漱石の木曜会に出席し、
    漱石作品の『道草』を装幀した画家として知られています。
    青楓は、漱石没後も未亡人や子女に油絵を教えるなどして、
    夏目家の人々と親しく交友しました。
    漱石の長女・夏目筆子と結婚した松岡譲とは、
    大正13(1924)年に京都で開催した漱石遺墨会や、
    昭和4(1929)年の『漱石寫眞帖』の刊行、漱石忌など、
    漱石追悼の機会を共にし、折々の手紙で近況を報告しあう親密な友人関係にありました。
    展示中の松岡譲宛津田青楓書簡

    昭和41(1966)年、86歳の青楓は、75歳の松岡に肖像画《譲上人座像》を送っています。
    その後、松岡に宛てた手紙の中で、漱石の宗教観に関する文章を書くため
    松岡の著作『ああ漱石山房』の持ち合わせがあれば送ってほしいと書いています。
    松岡はその返信の手紙に、
    「…処で一昨年でしたか私の顔を描いて下さりましたね。
    私は両耳の耳の穴の前のところに人にはない、贅肉の疣が揃ってシンソリカルにあるんです。
    昔それをテーマに「耳疣の歴史」という自伝めいた短編を書いた時、
    寺田寅彦さんから大変ほめて頂いたことがあります。
    ところがあなたの描いて下さった貴方の所謂「譲上人像」にはその大事なトレードマークがないのです。
    いつかこれを一寸かき入れてくださるまいか。欠点即ち特徴ですから。」(注:1)と書きました。

    この手紙を受け取った青楓は、
    「…偖(さて)お手紙で思い出しました昔譲上人像書いたことがありましたね、
    耳に左右にシンメトリに疣があるとのこと、若し手数をいとはず送って頂けば、
    瘤をくっつけるなり又文章で書き入れしておいてもよろしい。」と返信しました。
    しかし、現存する《譲上人座像》の耳には疣が描かれていません。
    この手紙が届いた4か月後に松岡は帰らぬ人となり、疣が描かれる機会は失われてしまったのです。

    「耳疣の歴史」は大正11(1922)年『新小説』に発表され、
    その一年後、松岡の記念すべき第一著作集『九官鳥』に収められました。
    『九官鳥』の装幀は青楓が行っています。
    「耳疣の歴史」は、二人の交友を加味して松岡が亡くなるまで紡がれていたのですね。
    現在開催中の「越後の哲学者 松岡譲‐人と作品‐」(~9月6日(日)まで)では、
    このいきさつを示す青楓直筆の手紙や青楓作の《譲上人座像》(写真パネル)をご覧いただけます。
    皆様のご来館をお待ちしています。

    注1:津田青楓『春秋九十五年 限定版』求龍堂、1973年、41頁参照。
    ※引用文の表記は出典のままとしました。

    テーマ:その他    
  • 越後の哲学者 松岡譲  その5

    「越後の哲学者 松岡譲」展のみどころをご紹介するブログの第5回目の最終回は、
    松岡の趣味と晩年についてみていきたいと思います。

    松岡譲は若い頃から体が大きく、運動神経も良かったようで、
    長岡中学時代には水泳と野球を、一高時代には大弓をやっていました。
    成人してからは趣味として登山もするスポーツマンでした。
    渾身の長編小説『法城を護る人々』の最終巻(下巻)を刊行後、
    次なる長編小説「憂鬱な愛人」と、
    漱石未亡人・鏡子からの聞き取りをもとにした「漱石の思ひ出」の2本の連載を持ち、
    岩波から配本が始まった『漱石全集』の月報に毎月のように小文を寄稿し、
    文筆家として最も脂の乗っていた昭和3(1928)年の秋、
    37歳の松岡は原因不明の腹痛に襲われ、以後2年ほど静養につとめ創作から離れます。

    この闘病中に松岡は主治医の勧めでテニスと出会い、のめり込んでいきました。
    もとよりスポーツが得意だったため、すぐに腕を上げ、日本のテニス界の盛り上げにも奔走しました。
    昭和8(1933)年には、社会人のテニス愛好者を対象とした月刊誌『テニスフアン』を創刊し、
    編集人として発行を軌道に乗せたあと退きました。
    昭和9(1934)年には、東京田園調布にテニス・クラブ「田園倶楽部」も設立しています。
    『テニスフアン』や新聞に、テニス界の批評を毎月寄稿する様子は、
    まるでスポーツ・エッセイストになったかのようでした。
    そんな松岡を、周囲の人々は本業が疎かになっていると心配します。
    しかし当人は、
    「幸か不幸か、私はいろいろなものに興味を持つよう生まれついて来た。
    文学はもとよりの事、宗教、哲学、歴史、美術、考古学、スポーツなど、
    (中略)さういふものについて、自分は自分としての恩返へしがしたい。
    それには私が著述家としての職分から尽くす外ない」(注:1)と述べて、
    スポーツ記事に筆を揮いました。

    松岡譲原稿

    展示会では、秩父宮記念スポーツ図書館のご協力を得た『テニスフアン』創刊号の写真や、
    大正9(1920)年のアントワープ五輪のテニスで銀メダルを獲得した
    熊谷一弥(くまがい いちや)との交流を紹介し、松岡のテニスに傾けた情熱に迫ります。

    ところで皆さんは、近代オリンピックに
    「芸術競技」という種目があったことをご存じでしょうか。
    「芸術競技」とは、スポーツを題材とした建築や彫刻、
    絵画、文学、音楽の作品の優秀作を競うオリンピック競技で、
    1912年の第5回ストックホルム大会から
    1948年の第14回ロンドン大会までの限られた期間に行われました。
    昭和15(1940)年の第12回オリンピック東京大会でも、
    詩・戯曲・散文などからなる「文芸競技」が構想されていました。
    スポーツを愛好する松岡はこれを喜び、
    「この国の文壇に、スポーツ文学といった新しい領土が開拓される」
    と書いています(注:2)。
    しかしながら、第12回東京大会は時局の悪化により幻となり、
    松岡の出場の機会も失われてしまいました。

    戦後、日本が再びオリンピックの開催地に決定すると、
    松岡のスポーツ熱は、郷土の考古愛とともに再燃します。
    松岡は、昭和39(1964)年の東京オリンピックの聖火台を、
    地元の長岡市で出土した火焔土器をかたどったものにすべく、
    IOC委員の高石新五郎に相談します。
    続いて東京都知事に火焔土器の模型を贈り、
    大会事務総長の田畑政治には1時間に及ぶ説明を行い、
    火焔土器聖火台プロジェクトの実現に向けて精力的なアピール活動を展開しました。
    しかしながらこの活動も、松岡が働きかけた田畑ら大会中枢部の辞任により、
    立ち切れになってしまいました。
    松岡は新たに大会組織委員会会長となった安川大五郎に火焔土器の模型を贈り、
    自らの慰めにしたといいます。

    松岡の火焔土器愛好は、オリンピックを機に突然芽生えたのでなく、
    長岡市で仮住まいしていた蒼柴(あおし)神社社務所のある悠久山公園の一角に、
    昭和26(1951)年8月、火焔土器を展示する長岡市立科学博物館が開館したことに始まります。
    昭和38(1963)年には博物館の裏手に転居し、そこを終の棲家とした松岡は、
    「御自慢中の御自慢大名物の火焔型土器」を展示する「お山の博物館」に、
    多い時には日に3度も通い、長岡を訪れる著名人を案内しました。
    昭和32(1957)年に松岡の案内で博物館を訪れた、
    文化財専門審議会専門委員の染織史家・明石染人(せんじん)は、
    火焔土器の前で両手を挙げて「おお、素敵」と叫んだといいます。
    松岡はその後、明石と何通もの長文の書簡をやりとりし、
    百十数枚の写真原版を揃えて豪華版の縄文土器写真集の出版話を進めました。
    残念なことに、この企画も、明石の急死と出版社社長の病により実現には至りませんでした。
    展示会には、写真集刊行に向けた熱い思いがほとばしる「明石染人 松岡譲宛書簡」も展示します。
    松岡の火焔土器への情熱は、明石の死後、東京オリンピックの聖火台運動へと継承されていきます。
    生前最後に発表された随筆は、この縄文土器写真集と火焔土器型聖火台運動の顛末を記した
    「「火焔土器」の模型」(『學鐙』66(6)、昭和44(1969)年6月)でした。
    松岡は「著述家としての職分」を尽くし、趣味のスポーツに加え、
    晩年に情熱を注いだ考古学にも恩返しをしました。

    展示会では、小説に加えて、テニスや縄文土器のコーナーを設け、松岡の多面的な活動を紹介します。
    長岡市立科学博物館のご許可を得て展示した
    「松岡譲「お山の博物館」『長岡市立科学博物館館報 NKH』創刊号(昭和33(1958)年9月)」は、
    こちらの長岡市立科学博物館WEBページ よりPDFデータでお読みいただけます。
    ご来館の前にぜひご一読ください。

    これまで5回にわたり、松岡譲展の内容と、松岡の魅力についてお伝えしてきました。
    しかしながらこのブログでは実際の展示の魅力をとても伝えきれません。
    皆様にご来館いただける日が来ることを、漱石山房記念館スタッフ一同心待ちにしています。
    これまでお読みくださり、ありがとうございました。
    (越後の哲学者 松岡譲 おわり)

    注:
    1 松岡譲「スポーツ・ジャーナリズム」『テニスフアン』2巻9号 1934年10月
    2 松岡譲「文学オリンピツクなど」『文藝春秋』1937年3月

    ※「火焔土器」とは昭和11(1936)年に長岡市の馬高(うまたか)遺跡で
    最初に発見された1個の土器につけられたニックネームで、
    類似した土器は「火焔型土器」と呼び、考古学上区別されています。

    テーマ:その他    
  • 越後の哲学者 松岡譲  その4

    「越後の哲学者 松岡譲」展のみどころをご紹介するブログの第4回目は、
    「岳父 漱石へのまなざし」と題し、松岡の漱石研究についてみていきたいと思います。

    松岡の作品のなかで最もよく読まれているのは、
    『漱石の印税帖』(朝日新聞社 昭和30(1955)年)ではないでしょうか。
    本作は、漱石の婿として夏目家に7年間同居した松岡ならではの随筆集です。
    また、義母である夏目鏡子から聞き取った漱石の話を筆録した
    『漱石の思ひ出』(改造社 昭和3(1928)年)も、
    家族から見た漱石のありのままの姿を伝える作品として、高く評価されています。

    漱石関係の松岡著書

    松岡の漱石研究の多くは随筆のかたちで発表されました。
    それは、大正6(1917)年3月の第四次『新思潮』〈漱石先生追悼号〉の
    「其後の山房」にみられるように、漱石の死の直後から始まっています。
    「其後の山房」は、漱石の〈お骨上げ〉から始まる5章仕立てのエッセイです。
    昭和9(1934)年には、「漱石座談会でおしゃべりをして居るような気持ちで」編んだ随筆評論集、
    『漱石先生』(岩波書店)も刊行しています。
    生前最後の単行本、『ああ漱石山房』(朝日新聞社 昭和42(1967)年)も、
    漱石にまつわる随筆集でした。
    これらは、漱石の門下生としてその謦咳に接し、
    漱石没後は遺族として生きた彼にしか書きえない貴重な情報が満載された、魅力的な作品です。

    松岡の漱石研究のもう一本の柱に、
    自ら「漱石文学の奥秘をひらく一つの鍵」という、漱石の漢詩があります(注:1)。
    松岡は、戦時中の昭和18(1943)年2月から約4か月間、瀬戸内海の大崎下島などに滞在し、
    漱石の漢詩に親しみました。
    その研究成果は戦後の昭和26(1946)年9月に刊行した『漱石の漢詩』(十字屋書店)に結実します。
    不安な時局にもかかわらず、その原稿は瀬戸内海の島、東京、越後の実家と肌身離さず持たれ、
    戦争末期に疎開先の長岡で最後の稿が書き上げられています。
    松岡は、晩年に新版『漱石の漢詩』(朝日新聞社 昭和41(1966)年)を出しますが、
    その「まえがき」に、旧著は戦争末期の疎開騒ぎのなかろくな辞書もなしに執筆したもので、
    「見るも無残な誤りに充ち満ちたいわば悪書だ。」
    「無いものとして無視し、そうして進んで破棄して頂ければ幸いだ」と書いています。
    しかしながら、漱石の漢詩世界への憧憬に満ちた旧著は、
    戦後すぐの荒廃した時代に、多くの人々の心を潤したものと思われます。
    巣鴨プリズンに収監されていた漱石門下生・赤木桁平(あかぎこうへい・本名:池崎忠孝)
    から松岡に送られた手紙には、
    「近来こんな気持ちのよい本を読んだことはなく、実に感激し、
    また陶然として、先生(漱石)その人の心情にふれた。心から君に感謝する。」
    と書かれています(注:2)。

    松岡は、昭和9(1934)年という彼の作家人生の早い時期に、
    「先生が亡くなられて(中略)、その間の事については、多少私に語るべき義務と責任があるやうに思ふ。」
    と述べています(注:3)。その義務と責任は80点にも及ぶ漱石関連の作品によって果たされました。

    最晩年の門下生として、長女の夫として、
    松岡は二重の関係で夏目漱石とつながり、生涯を通じて向き合ってきたのです。
    越後の哲学者 松岡譲 その5に続く)

    注:
    1 松岡譲『夏目漱石 文學読本 春夏の巻』第一書房 1936年
    2 松岡譲「「明暗」の原稿その他」永井保 編『池崎忠孝』池崎忠孝追悼録刊行会 1962年
    3 松岡譲『漱石先生』岩波書店 1934年

    テーマ:その他    
  • 越後の哲学者 松岡譲  その3

    「越後の哲学者 松岡譲」展のみどころをご紹介するブログの第3回目は、
    松岡の代表作、『法城を護る人々』に注目します。

    松岡の約50年間にわたる作家人生は、
    第四次『新思潮』の同人として活躍した20代半ば、
    結婚をめぐる事件により断筆後、活動を再開させ最も脂が乗っていた30代、
    2年間の病気療養から復帰した40代以降の、3期に分けることができます。
    松岡は寡作の作家、非文壇作家と評されますが、
    新聞や雑誌への寄稿は多く、随筆も含めれば500点近い作品を残しています。

    短編小説では、『九官鳥』(大正11(1922)年)、『地獄の門』(大正11(1922)年)、
    『田園の英雄』(昭和3(1928)年)、『白鸚鵡(しろおうむ)』(昭和22(1947)年)
    の4冊の小説集を刊行しています。
    しかし、松岡が書きたいと願っていたのは、本格的な長編小説でした。
    自らの素質を短編よりも長編に向くと信じ、「長篇を書く味が忘れられない」、
    「誰が何といつたつて一生長篇を書かうと堅く決心してゐる」と語っています(注:1)。
    これには、若い日に師の漱石から「或いは器用な短篇より長篇の方に向くかもわからない」
    と言われたことが影響しているのかもしれません(注:2)。

    松岡の長編小説は、現状否定の強烈な批判精神に貫かれ、深刻さに満ちています。
    加えて、漢語の多用により重厚感に溢れています。
    その中で『法城を護る人々』上・中・下(大正12(1923)~大正15(1926)年)は代表作と言えます。

    法城を護る人々

    前回のブログ(越後の哲学者 松岡譲 その2)で触れましたが、
    松岡は大学を卒業した4か月後の大正6(1917)年11月に、
    短編小説の「法城を護る人々」を『文章世界』に発表しました。
    同素材を扱った同名の長編小説『法城を護る人々』(上巻)を刊行したのは、
    それから約6年後の大正12(1923)年6月のことでした。
    先に発表された同名の短編小説は、
    第二創作集『地獄の門』(玄文社、大正11(1922)年10月)に収録される際、
    「護法の家」と改題されています。
    長編小説の『法城を護る人々』は、上・中・下巻に別れて刊行されましたが、
    総原稿数は4,500枚にものぼります。
    僧侶の生活批判と人間のエゴイズムの追求を根本的なテーマとする作品ですが、
    それはまた、雪深い北国の寺に生まれ、信仰深い父と度々対立した松岡の、
    自伝的長編小説でもありました。

    この執筆を支えたのは、第一書房の社主・長谷川巳之吉(みのきち)です。
    長谷川は、これはと見込んだ松岡の渾身の長編小説『法城を護る人々』で、
    自身の出版社・第一書房を旗揚げしました。
    当時としては斬新な広告戦略もあり、本書は100版を軽く超えるベストセラーとなりました。
    昭和に入ると普及版が出版されるほど版を重ねますが、
    文壇の評価はというと、黙殺に近いものでした。
    『評伝 松岡譲』を著した関口安義氏は、
    作者の態度が宗門人に対する冷酷な批判に終始している点や、
    問題解決が個の範囲にとどまり社会的に広がらなかった点など、
    作品自体の欠点を指摘しつつも、文壇による完全なる黙殺の要因は、
    久米正雄の『破船』によって作り出され尾を引いていたアンチ松岡の空気にあったといい、
    「大々的宣伝で登場した『法城を護る人々』は、文壇人のねたみと嘲笑の対象以外の何物でもなかった。」
    と記しています(注:3)。

    発表当時、数は少ないながら本作に注目した評論もありました。
    長谷川如是閑(にょぜかん)は、現在の事実を忠実に描写しているといい、
    「ドキュメント」、「宗教界の自然主義的創作」として評価しました(注:4)。
    また、哲学者の土田杏村(きょうそん)は、本作の革命的な気概を評価し、
    芸術的な価値を認め、20枚にも及ぶ書評を書いています(注:5)。

    展示会では、漱石が見抜き、本人が最も望んだ長編小説家としての松岡の一面を紹介する
    「代表作「法城を護る人々」「敦煌物語」」のコーナーを設けています。
    新型コロナウイルス感染症が収束し、
    皆様にご覧いただける日が来るのを楽しみにしています。
    越後の哲学者 松岡譲 その4に続く)

    注:
    1 松岡譲「長篇小説一家言」『読売新聞』1927年12月
    2 松岡の処女小説「河豚和尚(ふぐおしょう)」を漱石が批評した中で使われた言葉。
    松岡譲「人間漱石」『正岡子規 夏目漱石 柳原極堂』生誕百年祭実行委員会 1968年
    3 関口安義『評伝 松岡譲』小沢書店 1991年
    4 長谷川如是閑「宗教的アナーキズム」『我等』1923年9月
    5 土田杏村「非文壇作家」『詩と音楽』1923年10月

    参考文献:
    関口安義『評伝 松岡譲』小沢書店 1991年
    林達夫ほか編著『第一書房 長谷川巳之吉』日本エディタースクール出版部 1984年

    テーマ:その他    
  • 越後の哲学者 松岡譲 その2

    「越後の哲学者 松岡譲」展のみどころをご紹介するブログの第2回目は、
    松岡の「青年時代から忍従の日々」について見ていきたいと思います。

    東京帝国大学の哲学科に籍を置いた松岡は、
    特に親しくしていた久米正雄と芥川龍之介の手引きにより、
    大正4(1915)年12月に東京早稲田南町の夏目漱石宅「漱石山房」を訪れます。
    その後松岡は、多忙な漱石のために木曜の午後と決めて門人たちが集った、
    漱石山房の「木曜会」に毎週欠かさず出席するようになります。
    鈴木三重吉や小宮豊隆らの世代からすると、
    それよりも少し若い芥川や松岡たちは、次の世代と言えましょうか。
    文学を志す新たな若い弟子たちに対して漱石は真摯に接しました。

    大正5(1916)年2月、松岡、久米、芥川、成瀬正一、菊池寛の5人は、
    漱石を第一の読者に想定した文芸雑誌、第四次『新思潮』を創刊します。
    松岡の本格的な文学活動は、この雑誌の創刊とともに始まりました。
    松岡は意欲的に文筆活動に励み、ほぼ毎月1作品を同誌に発表しました。
    なかでも10月に発表した「青白端渓」は、芥川の創作意欲を大いに刺激しました。

    芥川龍之介松岡宛書簡

    芥川は松岡の「青白端渓」を読んで松岡に宛てたはがきの中で
    「あれは大へんいい、ぐづぐづしてはゐられないと云ふ気が痛切にした
    殊に僕は今書けなくってまゐってゐる あしたから勉強だ」と書いています。
    本資料は「越後の哲学者 松岡譲」展に展示します。
    また、『漱石山房記念館だより第2号』(令和元年12月15日発行)の
    「漱石山房記念館所蔵資料の紹介No.2」に読み下し文を掲載し、
    詳しく紹介していますので、本ブログと合わせてぜひご覧ください。
    『漱石山房記念館だより第2号』のPDFデータはこちらからお読みいただけます。

    第四次『新思潮』は、大正5(1916)年12月9日の漱石の死により第一の読者を失い、
    大正6(1917)年3月に「漱石先生追悼号」を出したのちは続かず、終刊に至ります。
    漱石と第四次『新思潮』の同人たちとの交流は一年ほどでしたが、
    漱石の人格と深い学識はそれぞれに強い影響を与えました。

    第四次『新思潮』の終刊から3か月後の大正6(1917)年6月、
    出自に深く悩んでいた松岡は、
    僧侶を連想させる本名の善譲(ぜんじょう)を「譲」(ゆずる)一字に改名します。
    その翌月には大学を卒業して、いったん帰省しますが、
    入寺問題で父と対立してしまい、両親の制止を振り切り再び上京します。
    この上京は自活が条件でしたので、松岡は、漱石の妻・鏡子未亡人の勧めもあり、
    子どもたちの家庭教師として夏目家に身を寄せました。

    この後、数か月は創作意欲に満ち溢れ、
    芥川の斡旋で『文章世界』に力作の「兄を殺した弟」を送り、
    この作品が発禁の恐れから棚上げになると、
    代わりに短編の「法城を護る人々」(『文章世界』大正6年11月号掲載)を一気に書き上げています。
    新進作家として前途を期待されていた松岡ですが、
    漱石亡き後の夏目家と深いかかわりを持つなかで、思いがけず恋愛事件の当事者となってしまいます。

    このころ第四次『新思潮』の同人で、松岡の一校からの親友でもある久米正雄は、
    漱石の長女筆子に想いを寄せていました。
    しかしながら、筆子は松岡に惹かれていました。
    松岡は筆子の気持ちを受け入れ、大正7(1918)年4月に二人は結婚します。
    これにより久米の恋は失恋に終わるのですが、
    久米はこの顛末を「破船」を代表とする数々の失恋小説に書いて世間に公表し、
    同情を集め、人気作家となりました。
    松岡はこの状況に際し、創作の筆を折り、沈黙を守ったのです。
    松岡がこの事件をモデルにした小説「憂鬱な愛人」を発表し、
    自身の立場を明らかにするのは、約10年後の昭和2(1927)年のことです。

    筆子との結婚により、難しい立場に置かれた松岡は、しばらくは夏目家を支え、
    漱石山房の書斎で読書と思索に没頭する日々を送ります。
    そして、大正10(1921)年6月に「遺言状」(改作)を『新小説』に発表して、
    再び創作活動に復帰するのです。
    越後の哲学者 松岡譲 その3に続く)

    参考文献:
    関口安義『評伝 松岡譲』小沢書店 1991年
    関口安義「松岡 譲 再評価される人と文学」関口安義編『EDI叢書 松岡 譲 三篇』イー・ディー・アイ 2002年
    関口安義「松岡譲と芥川龍之介」『Penac』32号 2007年

    テーマ:その他    
  • 越後の哲学者 松岡譲 その1

    新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止のため、
    「越後の哲学者 松岡譲」展は開幕を延期しております。
    楽しみにしてくださっていた皆様、資料の借用などにご協力くださいました皆様には、
    ご迷惑をおかけしております。
    担当学芸員も、皆様に展覧会をご覧いただくことができず、歯がゆい思いでおります。
    そこで、このブログを通じて、松岡譲の魅力に迫り、
    本展の内容を少しずつご紹介していきたいと思います。

    第1回目は、松岡の生い立ちから学生時代について見ていきましょう。

    松岡譲は明治24(1891)年9月24日、
    新潟県古志郡石坂村(現・長岡市)の真宗大谷派、
    松岡山本覚寺に父善淵(ぜんえん)、母ルエの長男として生まれました。
    後に自ら改名することになりますが、両親の付けてくれた名前は善譲(ぜんじょう)です。
    父の善淵は、9歳のときに父を亡くし、10代から住職として寺を守ってきたこともあり、
    気難しく、子どもの教育に厳しかったそうです。
    小学校時代の松岡は、算数と図学・習字に秀でていました。
    習字がうまかったのは、部屋に軟禁されてまで特訓した成果です。
    厳格な父をもち、封建的な寺院の長男であるという出生は、
    物心が付き始めた頃から松岡に寺への反抗心を抱かせるようになりました。
    「私の半生の歴史は、既成宗教に対する小さい抗争で貫かれたといつていい」(注:1)
    と本人が語るように、父と寺への批判と対立は、大学を卒業する大正6(1917)年頃まで続きます。

    本覚寺山門

    明治37(1904)年3月には新潟県立長岡中学校(現・長岡高等学校)に入学し、
    後に詩人となる堀口大学と5年間同じクラスで机を並べて勉強しました。
    堀口は、長岡中学校時代の松岡を回想し、
    「お寺の教育の影響であらう、少年松岡には、少年らしい所が少しもなく、
    妙に大人びた哲学者、宗教家といつた重厚さが年々に加はり、
    いよいよ無口になつて行くのだつた。」(注:2)
    と記しています。

    明治42(1909)年3月、松岡譲は長岡中学校を卒業しました。
    家族は京都の宗門学校へ進学させるつもりでしたが、
    それを拒否して高等学校への進学を希望します。
    父は高等学校への進学を希望するのであれば、
    難関の第一高等学校(現・東京大学教養学部の前身、以下「一校」と称す)
    を受験するように言い渡しました。
    その結果、「小便の色の変わるまで勉強した」(注:3)松岡は、
    翌年の入試を試験入学者21名中8番の成績で突破し、
    はれて明治43(1910)年9月に一校の文科に進学します。
    同級には、第三次『新思潮』の同人となる芥川龍之介、菊池寛、久米正雄、成瀬正一らがいました。
    松岡は一校の自由な雰囲気に浸り学生生活を謳歌しますが、一方で自己の生い立ちに深く悩み、
    強度の神経衰弱に陥り、大正2(1913)年5月には休学して故郷に帰っています。
    大正3(1914)年9月号の『新思潮』に掲載された「この頃」という作品に、
    そのときの苦悩を読み取ることができます。
    この頃松岡は、漱石の「こころ」や思想家のキュルケゴールを愛読し、影響を受けました。
    大正3(1914)年7月には出席日数が足りず落第してしまいますが、
    ただちに東大文科の選科を受験し合格、翌年試験を受けて本科に転じ、哲学を専攻しました。
    「越後の哲学者」の下地はこうして作られていったのです。
    越後の哲学者 松岡譲 その2に続く)

    注:
    1.松岡譲『宗教戦士』序 大雄閣 1932年
    2.堀口大学「松岡譲の事など」『新潮』 1935年3月
    3. 松岡譲「耳疣の歴史」『田園の英雄』第一書房 1928年

    参考文献:
    関口安義『評伝 松岡譲』小沢書店 1991年
    関口安義「松岡 譲 再評価される人と文学」関口安義編『EDI叢書 松岡 譲 三篇』イー・ディー・アイ 2002年

    テーマ:その他    
  • 8万人目のお客様をお迎えしました

    令和2年2月16日(日)有料観覧8万人目のお客様をお迎えしました。
    お休みの日に当館のお近くから遊びに来られた、
    村上智彦様、ひな子さんです。
    当館主任学芸員(写真一番左)よりささやかな記念品をお贈りしました。

    来館8万人記念写真

    開館してから多くのお客様にお越しいただき、誠にありがとうございます。
    今後も皆様に親しまれる、魅力的な記念館になるよう運営してまいります。
    何卒よろしくお願いいたします。

     

    テーマ:お知らせ    
  • 一日館長イベントを開催しました

    令和2年1月12日(日)に直木賞作家の出久根達郎先生を
    漱石山房記念館の一日館長としてお迎えしました。
    最初に地下1階の講座室で一日館長任命式を行った後、
    当館の鈴木館長の案内で館内の展示を視察いただきました。
    1日館長任命式

    1日館長館内視察
    漱石山房記念館の正面玄関では、
    来館者の皆さま一人ずつに名刺を手渡してお出迎えもしていただきました。
    皆さまにお渡しした名刺は、出久根先生に書いていただいたものです。

    一日館長お出迎え

    また、講演会では「漱石先生の魅力」というテーマでお話しいただきました。
    子どもの頃に移動図書館で漱石全集に出会い、
    手紙の書き方や人との話し方を学んだことや、
    漱石には文豪、スポーツマン、俳人、詩人、画家、市井人、作家の7つの顔があるとして、
    それぞれの魅力を語っていただきました。

    1日館長講演会

    台風の影響で10月開催の日程が変更になってしまったにもかかわらず、
    大変多くの方にご参加いただき、誠にありがとうございました。

    1日館長館内視察

    テーマ:イベント    
  • 《通常展》テーマ展示 高浜虚子没後60年 漱石と高浜虚子 ‐「吾輩は猫である」が生まれるまで‐ の見どころ(令和元年12月3日~令和2年2月24日)

    令和元(2019)年12月3日(火)~令和2年2月24日(月・休)漱石山房記念館 2階展示室にて
    《通常展》テーマ展示 高浜虚子没後60年 漱石と高浜虚子 ‐「吾輩は猫である」が生まれるまで‐を開催しています。
    展示の詳細は以下のページをご覧ください。
    当館の展示情報 > 《通常展》テーマ展示 高浜虚子没後60年 漱石と高浜虚子‐「吾輩は猫である」が生まれるまで‐

    漱石と高浜虚子展示の様子

    令和元年は、俳人、小説家として知られる高浜虚子の没後60年にあたります。

    今回の展示では、虚子と漱石の関わりについて、
    特に両者の関係が最も親密である、漱石が「吾輩は猫である」を発表するまでの時期に注目しています。

    展示資料では、現存する漱石自筆の「吾輩は猫である」原稿にご注目ください。
    第9回、第11回の冒頭と、ネコがカメに落ちて成仏する最後の部分を展示しています。

    この他にも、漱石が虚子にあてた厳しくも愛情あふれる手紙も見逃せません。
    「吾輩は猫である」誕生に関わった虚子と漱石の関係をたどりながら二人の業績を紹介します。

    ギャラリートーク(担当学芸員による展示解説)

    日時:令和2年1月11日・25日/2月8日・22日の各土曜日 14時~(20分程度)
    会場:漱石山房記念館2階展示室
    申込:不要 ※小中学生無料。高校生以上は観覧券が必要です。

    図録

    漱石と高浜虚子_図録
    《通常展》テーマ展示 高浜虚子没後60年 漱石と高浜虚子 ‐「吾輩は猫である」が生まれるまで‐
    図録(A4判 42頁)500円(税込)は、ミュージアムショップにて販売中です。

    皆さまのご来館をお待ちしております。

     

    テーマ:お知らせ    
  • 新宿の職人技で作った活版印刷メモ帳「夢十夜」を発売しました

    漱石山房記念館のある早稲田から江戸川橋にかけての一帯には、
    新宿区の地場産業の一つである、印刷業の会社が多くあります。

    この地域に印刷業の会社が集まり始めたのは、明治時代。
    日本初の国産洋装本を印刷するなど、日本の印刷業の先駆者だった秀英社が、
    明治19(1886)年に市ヶ谷加賀町に工場を開設したのがきっかけと言われています。
    明治40(1907)年には日清印刷が榎町に工場を開設、
    その後、この2つの会社が合併し、現在の大日本印刷となりました。
    下請けとして支える中小の印刷業者も次々とこの地域に集まり、今に至ります。
    (参考Webサイト:一般社団法人新宿区印刷・製本関連団体協議会“新宿区は印刷文化の拠点”
    http://insatsukanren-shinjuku.jp/concierge/shinjyuku_insatsu.html )

    漱石山房記念館のすぐ近く、榎町にある有限会社佐々木活字店は大正6(1917)年創業。
    日清印刷鋳造部の責任者をしていた佐々木巳之八さんが、活字鋳造販売業を始めたのだそうです。

    佐々木活字店
    新宿区の地域文化財にも登録されている佐々木活字店では、
    現在も活字の鋳造から文選、植字、印刷の全行程を手がけており、
    四代目の佐々木勝之さんは『デザインのひきだし』や
    『BRUTUS』などの雑誌にも紹介されている、注目の職人さんです。
    佐々木活字店の詳細はこちらのページをご覧ください。

    佐々木活字店

    佐々木活字店

    そんな佐々木さんに、新宿区にある漱石山房記念館ならではの、
    特別なミュージアムグッズを作りたいと相談して出来上がったのが、活版印刷メモ帳「夢十夜」
    夏目漱石の作品「夢十夜」から「百年待つてゐて下さい」の言葉が印象的な第一夜の一部分を、
    表紙と中のメモ用紙に活版印刷であしらっています。

    活版印刷メモ帳_白

    活版印刷メモ帳_青

    白と青の2色で、各色500円。
    商品の詳細はミュージアムショップのページをご覧ください。

    特に表紙は「夢十夜」が収録された『四篇』の初版本をもとにした旧字旧仮名遣い総ルビ、
    漢字と仮名で文字の大きさを変えてデザイン性を高めていますが、
    この活字組版はとても手の込んだ仕事です。
    手に取ってみると「本当に活版印刷?」と思ってしまうくらい、凹凸の少ない仕上がり。
    活版印刷といえば印刷面の凹凸が特徴と思われる方も多いと思いますが、
    紙をなるべく凹まさず、ムラなく綺麗に仕上げるのが「キス・インプレッション」と呼ばれる職人技。
    紙にキスをするように、必要最小限の圧力でインクをのせるのが職人の腕の見せ所です。

    活版印刷メモ帳

    中のメモ用紙には一枚一枚、活版印刷で
    「百年待つてゐて下さい」の一文が印刷されている贅沢なつくりです。
    佐々木活字店で使われている飾り罫の中から、
    漱石山房記念館の前庭に植えられているトクサに似たものを選びました。

    活版印刷メモ帳

    新宿の職人技を感じられる活版印刷メモ帳「夢十夜」は、
    11月より漱石山房記念館のミュージアムショップのみで販売しています。
    各色限定500部の販売ですので、どうぞお早めにお求めください。

    テーマ:お知らせ    
  • ミニトート『吾輩は猫である』好評販売中です

    10月から漱石山房記念館のミュージアムショップに、
    ミニトート『吾輩は猫である』が仲間入りしました。

    ミニトート『吾輩』(ナチュラル)

    ミニトート『吾輩』(ネイビー)

    ナチュラルとネイビーの2色で、価格は各800円。
    詳細はミュージアムショップのページをご覧ください。

    内ポケットとキーホルダーなどがつけられるループがついていますので、
    お財布や携帯電話を入れて、ちょっとしたお出かけに便利です。

    お弁当箱とマイボトルがちょうど入るサイズですので、
    ランチタイム用のサブバッグとしてもぴったりです。

    缶バッジやキーホルダーをつけて、自分好みにアレンジするのもオススメ。

    プリントしてあるイメージは、
    『吾輩ハ猫デアル』初版本上編表紙(橋口五葉装丁)からデザインしました。
    特に、ナチュラルは初版本の雰囲気が出せるよう、
    完成までに何度も色味を調整しました。

    ネイビーとナチュラルでは素材感が少し異なりますので、
    ぜひミュージアムショップの見本を手に取ってご覧ください。

    テーマ:お知らせ    
  • 《特別展》救い出された文学コレクション‐亘理町・江戸家資料の世界‐ の見どころ(令和元年9月18日~11月24日)

    令和元(2019)年9月18日(火)~11月24日(日)漱石山房記念館 2階展示室にて
    《特別展》救い出された文学コレクション‐亘理町・江戸家資料の世界‐ を開催しています。
    展示の詳細は以下のページをご覧ください。
    当館の展示情報 > 《特別展》救い出された文学コレクション‐亘理町・江戸家資料の世界‐

    救い出された文学コレクション展示の様子
    今回は、宮城県亘理町荒浜地区で、
    江戸時代から続く豪商・江戸清吉が集めた「江戸家資料」を展示しています。
    江戸清吉は、単にコレクターだけではなく、
    作家本人、あるいは、作家に近しいお弟子さんに連絡を取り、
    手に入れた資料が本物かどうか鑑定してもらうことに寸暇を惜しみませんでした。
    そんな熱心なやり取りの手紙やはがきをご覧いただけます。

    展示の資料で目玉は、
    夏目漱石が漱石山房原稿用紙を使用して執筆した作品のなかで、現存するもっとも古い原稿「文鳥」です。
    橋口五葉によって龍がデザインされた一行19文字の草色罫線の原稿用紙に書かれた原稿18枚が、
    きっちりと1冊のスクラップ帖にまとめられています。

    漱石関連資料以外でも、貴重な資料が集められており、
    国木田独歩の熱い思いが伝わる長文の恋文や森鷗外の「北條霞亭(ほうじょうかてい)」の原稿、
    新宿ゆかりの文学者である泉鏡花・田山花袋の原稿、
    そして、幕末の重要人物・勝海舟の書状も見どころの一つです。

    これらの資料は、地震や津波で被災しました。
    しかし、文化財レスキューの活動によって展示できるまでになりました。
    この活動がなければ、この展示はなかったといっても過言ではありません。
    普段、なかなか知ることができない
    文化財レスキューという活動もあわせてご紹介しています。

    ギャラリートーク(担当学芸員による展示解説)

    日時:10月19日/11月2日・16日/12月14日の各土曜日 14時~(30分程度)
    会場:漱石山房記念館2階展示室
    申込:不要 ※小中学生無料。高校生以上は観覧券が必要です。

    リーフレット

    救い出された文学コレクションのリーフレット
    《特別展》救い出された文学コレクション‐亘理町・江戸家資料の世界‐
    リーフレット(A4判 28頁)200円(税込)は、ミュージアムショップにて販売中です。

    皆さまのご来館をお待ちしております。

     

    テーマ:お知らせ    
  • 《通常展》テーマ展示「そうせきさんってどんな顔?」終了しました

    令和元年7月9日(火)から始まった
    《通常展》テーマ展示「そうせきさんってどんな顔」も、
    夏の終わりとともに、令和元年9月8日(日)で終了しました。

    期間中はたくさんの方にご来館いただき、
    漱石の顔を描いていただいたワークシートは、525枚になりました!
    毎朝、皆様の作品を展示することがスタッフの楽しみでした。
    作品で華やかになった展示室の様子がこちらです。

    そうせきさんってどんな顔?展示風景

    そうせきさんってどんな顔?展示風景

    そうせきさんってどんな顔?展示風景

    そうせきさんってどんな顔?展示風景

    ご来館、ワークシートのご参加、誠にありがとうございました。

    次回の特別展までの期間(令和元年9月10日(火)~16日(月))は、
    展示準備のため2階の展示内容を縮小して開館しています。
    ご来館の際はご注意ください。

    テーマ:お知らせ    
  • 漱石山房記念館の夏休みイベントレポート

    漱石山房記念館では夏休み向けにイベントを開催しました。
    その様子をレポートします。

    オリジナルしおりづくり 令和元年7月21日(日)14:00~17:00

    オリジナルしおりづくりを開催しました。
    おひとりやグループ、親子連れなど、
    小さなお子さまからご年配の方までたくさんの方にご参加いただきました。
    皆さん、夏目漱石の言葉の入った、自分だけのオリジナルしおりづくりに集中していました。

    20190721_しおりづくり

    オリジナルしおりづくりの様子

    20190721_しおりづくり_02

    オリジナルしおりづくりの様子

    子ども向けアルバムづくり教室 令和元年7月27日(土)10:30~12:00

    手製本家のアビコノコ氏(abc bookbinding class主催)を講師にお迎えして
    子ども向けアルバムづくり教室を開催しました。

    展示中の「そうせきさんってどんな顔?」に出品されている『漱石寫眞帖』にちなみ、
    平紐綴じの技法を学びながら、和紙や針と糸を使って写真帖(アルバム)を手づくりしました。
    当館での本格的な工作教室は初めての開催でしたが、
    小さなお子さまも、保護者の方やボランティアと協力して和やかな雰囲気で手づくりに挑戦していました。

    20190727_アルバムづくり教室

    子ども向けアルバムづくり教室の様子

    俳句入門講座 令和元年7月28日(日)10:30~12:30

    俳人の大西朋氏(俳人協会幹事・俳句結社「鷹」同人)を講師にお迎えして、
    俳句を初歩から学べる俳句入門講座を開催しました。

    小学生から年配の方まで、幅広い年齢層の方にご参加いただきました。
    講師の先生と俳句の題材を求め、漱石山房記念館館内や漱石公園を散策したり、
    充実した講座だったとご感想をいただきました。

    20190728_俳句入門講座

    俳句入門講座の様子

    20190728_俳句入門講座

    俳句入門講座の様子

    夏休み朗読会 令和元年7月21日(日)、8月17日(土)各日とも11:00~11:45

    ふみのしおり(新宿歴史博物館ボランティア朗読会)に協力していただき、
    「夢十夜(第一夜、第三夜)」、「吾輩は猫である」、「永日小品(猫の墓、柿)」の朗読会を開催しました。
    猛暑日にもかかわらず、多くの方に参加いただきました。
    今回の朗読会は両会ともイントロ当てクイズ(作品の冒頭部分を朗読し、作品名を当てるクイズ)を行い、
    小学生の方も積極的に参加して、活気のある朗読会となりました。
    さらに、イントロ当てクイズで使用する作品の初版本の名著復刻版を朗読会場(地下1階講座室)に展示し、
    朗読会終了後に実際に手に取ってご覧いただきました。
    漱石作品が発表された当時の雰囲気を味わえたとご好評でした。

    201907-08_夏休み朗読会

    夏休み朗読会の様子

    ブックトーク 令和元年8月18日(日)14:00~15:00

    西落合図書館司書の高橋氏と東氏を講師にお迎えし、ブックトークを開催しました。
    夏目漱石をテーマにクイズを交えながら、楽しく読書をすすめる方法をお話しいただきました。
    親子連れから大人の方までご参加いただき、
    西落合図書館からお持ちいただいたおすすめの本を実際に手に取ってご覧いただきました。

    20190818_ブックトーク

    ブックトークの様子

    ミステリークエスト~夏目漱石からの挑戦状~ 令和元年7月21日(日)~8月24日(土)

    西落合図書館と漱石山房記念館を舞台にした謎解きゲームイベントを開催しました。
    小中学生から大人の方まで、夏目漱石をテーマにした謎解き冊子を手に持ち、
    ミステリークエストにチャレンジしていました。

    テーマ:イベント    
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